第10話
その問いに答えたのは近藤だった。
「彼女には使いを頼んでいるので、戻るのが遅くなります。ご足労いただいたのに申し訳ありません」
彼はいつもの人懐こい笑みに、しっかりした声音を乗せてそう言った。
沙羅が今日は逸水道場に帰っているのは、近藤も承知のはずだ。それを伝えないということは、なにか思惑があるのかも知れない。
「沙羅さんにどういったご用件ですか?」
総司は努めて穏やかに言うと、小田川は一瞬考え込む素振りをして、
「沙羅の家のことは、先生方はご存知で?」
「ええ、父君の玲馬殿とうちの養父が友人同士でして。その縁で、ここで女中として働いてもらっているのです。道場破りに押し入られて玲馬殿も門下生も亡くなり、道場を継続できなくなったと」
近藤からそう聞くと、小田川はフムと顎に手を当てた。
「その事件が、今になって進展がありましてね。生き残りの娘にもう一度話を聞きたいと、まぁそういうことです。お留守なら日を改めやしょう」
そう言って立ち上がろうとすると、近藤が、
「どんな進展があったのですか?」
当たり前のように続きを促した。
小田川が少し渋い顔をする。捜査情報を無闇に話したくないのだろう。近藤は畳み掛けた。
「沙羅はもうこの試衛館の大切な一員です。私にとっては実の娘のようなものでもある。親代わりとして、聞かせていただけませんか」
「小田川さん、俺からもお願いします。決して口外しませんから」
総司がそう続けると、小田川は二人を交互に見てから、あきらめたようにため息をついた。
「……他言無用で頼みますよ」
「もちろんです」
彼は再び式台に腰を下ろす。
「先日、食い逃げで捕まえた浪人が、妙なことを言ってたんですよ。もともとは逸水の門人だったらしいんですがね。道場は何年も前に辞めたが、その後に起きた事件の噂は聞いていた」
「……」
「そいつは、犯人は逸水の娘だ、お前らの目は節穴かと悪態を吐くんです。酔い任せの暴言かと思いきや、どうもそうではなさそうで」
総司がそろりと近藤を見ると、近藤もちらりと総司を見返した。
お互いに困惑の色が見える。
「逸水の娘――沙羅は器量良しな上たいそう剣の腕が立ち、言い寄る門人たちに勝負を挑まれては返り討ちにしていたらしい。男からしてみりゃ、年端もいかぬ小娘にこてんぱんにされるんだから面白くねぇと、退塾者が続出した」
なんだか随分と勝手な話である。
総司は内心、沙羅に同情した。
「師範の父親はそれに激怒して、沙羅が剣を持つことを禁じたそうです。でも彼女にとって護身の術は手放せない。大立ち回りの父娘喧嘩の末に勝ったのは、沙羅の方――残った少ない門人たちの前で、父親は剣術師範としての沽券を完全に失い、道場は没落した。つまり」
「犯行は、沙羅さんにも可能だったということですか?」
気色ばむ総司の肩を、近藤が軽く諌めた。
だが小田川は意に介する様子もなく、
「そういうことになりますね。あたしらも若い娘が一道場を一人で潰したなんて線は早々に消してたもんで、今更またノコノコと話を聞きに来たっつうわけです。また明日来ますんで」
そう言って、今度こそ式台から立ち上がった。
「今の話はご内密に――あんた方なら大丈夫でしょう」
総司たちを見る小田川の眼が一瞬不敵に輝いて、すぐに元の闊達な顔に戻り、そのまま試衛館を去っていった。
玄関の外は陽がほんのりと赤く照り、かすかにひぐらしの声が聞こえる。
荒唐無稽な話ではないと感じて、胸がざわついた。
「若先生――」
近藤は腕を組み、深く考え込んだ後、
「総司、沙羅さんを迎えに行ってくれないか」
こちらを向いて、静かに言った。
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