第3話

当時は水や薪が貴重であったことや、防火の観点から内風呂を備える家がほぼなかったため、江戸には湯屋(銭湯)が数多く存在していた。

この夜も、総司はいつものようにひと風呂浴びて帰り支度をしながら、隣にいた客の世間話をなんとはなしに聞いていた。

「江の木町で人が斬られたってよ」

「ああ、天誅ってやつかねぇ?」

「斬られたのは侍だってよ、二本差しが情けないねぇ」

「天狗の仕業とか聞いたぞ」

「天狗って山に出るモンだろ?なんだって町に出るんだぃ」

昨今世論は騒がしい。

二〇〇年以上の鎖国で泰平を貪ってきた日本は、九年前の嘉永六年(一八五三年)に起きた黒船来航により、海外勢力という未知の脅威を認識することとなったのだ。さらに数年後には大地震、コロリ(コレラ)の流行、大老・井伊直弼による安政の大獄から彼が暗殺される桜田門外の変を経て、混乱は未だに収束していない。

日本人の不安と不満の矛先は、見たこともない異国の者や現政権である徳川幕府へと向けられた。

開国の是非、事態を収拾できない幕府が存続するべきか否か、そもそも将軍は勅許を得て政治を行っているのだから、今こそ政権を京におわす天皇にお返しすべきでは――そうした気運は次第に身分を超えて、大きなうねりへと変化しつつある。

試衛館内でもそうした議論が盛んに行われているが、天領(幕府の直轄地)多摩の農民出身である近藤や土方は、幕府の存続がひいては天皇や国のためになるという思想を持っていた。

(江の木町……近いな)

総司は刀と脇差を腰に差し、湯屋を後にする。

湯屋の喧騒に続いて、町はまだ少しにぎやかだった。ぬるい風がまだ吹いていて、帰るまでにまた埃まみれになってしまいそうだ。

(皆、恐いのだろう)

とは感じる。

だが総司は、政治や社会情勢にあまり興味がなかった。

動乱の発端となった黒船来航は総司が試衛館に入門した翌年のことで、当時は自身の環境の変化のほうがずっと重大だったのだ。

だから、かつてあったらしい『泰平の世』を、総司はほとんど知らない。知らないものを理想として語るなんておこがましいとさえ思っていた。

とは言うものの。

このまま、剣の修行に明け暮れているだけで良いのだろうか。

近藤からはいずれ試衛館を継いでほしいと言われている。また武士は仕官して主人に俸禄をもらうのが一般的だったが、正直どちらも想像しがたかった。


からからと下駄を鳴らして、築地塀の並ぶ道に入る。

広大な土地を持つ寺院や武家屋敷が続くこの道は、いつものように静寂に包まれていた。月が明るい。

フッと風が止んだとき、行く先の辻から獣じみた叫び声が響いた。

思わず駆け出して見た先には――


血まみれで倒れた侍と


その血が滴る白刃と


それを手にする黒衣の剣士がいた。


「何をしている!」 

総司は反射的に鯉口を切り、刀の柄に手をかけた。

惨状を目の前にして心拍数が一気に上がり、体が熱くなる。

相手は頭巾を被っているので顔が見えない。

総司を認識した瞬間、塀を飛び越えて消えてしまった。

「待てっ……」

その時足元で、倒れていた男が少し動いた。

持っていた手ぬぐいを裂いて男の額を縛り上げたが、出血はおびただしい。眉間を割られているようだ。

「大丈夫ですか? 今医者を……」

「あ……」

男が掠れた笛のような声でなにか言った後、その体は急に重くなり――体温のない人形になった。



春の風が総司を、こことは違うどこかへと誘う。

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