第9話

 おもむろに馴染むのは冷たい手足。

 こんなにあったかい所、初めて。

 そう思いながら私は、濁った湯に浸かる。肌が嫌に心地いい。ああ、こんな幸せがあったなんて、とちょっと泣きそうな思いで感じる。

 

 初めて、初めて逃げてしまった。

 あそこ以外の場所を探して、私は自分の気持ちにひどく正直になっている。あれがしたい、これがしたい、そう、ならやろうじゃないか、と。今までの私だったら考えられなかった。私にとっての社会はあの店で、私の世界はあそこの全てで出来上がっている。

 だから、こうして外へ出てみるとなんだか人生を浪費していたということに気付くのだ。だって、文字通り、世界は広かったのだから。あの店では当たり前だった常識や価値判断の基準、そしてそれが嫌と言うほど根付いた私。ひどくちっぽけだ、とごちる。

 それでね、私の世界を広げてくれたのはもちろんあの人。私が一方的に片思いをしていた相手。とても感謝しているわ。だって、いやおうなしに幸せへ近づいた気がするから。だからもう、こんな広い世界へ来てしまうと、あの人への片思いも全部、溶けてしまいそう。

 帰りたくない。いや、帰らない。

 そう、決めた。


 ただ、一つ心残りがある。それは、あの子、霧子のこと。

 だって私、あの子に押し付けちゃった。私たち姉妹は店の者からひどく憎まれていた。養子の癖になぜ、そんなに待遇がいいのかと。でもそれはあの女、私たちの母と名乗る店の主人の狂気のせい。ひどく醜いあの女が、私たち姉妹を他人に娘として見せびらかしたいという欲求のため。はっきり言って歪んでいる。

 走って逃げてきたのだ。いつも通り寝起きをして、朝飯を食べ皆が本の少しまどろんでいる間に、私は逃げた。その時間が最適だと分かっていたし、実行するならここだと思っていた。けれど、私の逃走を助けてくれたあの店の老婆、というかおばあさんが文伝いに私に知らせる。

 霧子が、お前の身代わりになったと。

 愕然とした。なんて狭い見識だったのだろう。ひどく熱に浮かされたようで、自分のことしか考えていなかったみたい。ああ、そりゃそうだと納得する。私がいなくなれば、霧子に仕打ちが行くのは当然だ。だって、私たちは同じだったから。環境も境遇も全て。

 ごめん。霧子、ごめん、と心の中で呟く。

 それでも私はもう帰れない。帰りたくない。そうやって頭の中に沸き立つ情緒をねじ伏せて、もう何でもないような様子で旅路を急ぐ。

 ただ、かすかに頭を締め付けるのは、ズキズキという頭痛と寝起きの不快感である。

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