第8話 言いつけを破りたいお年頃

 あれから三日ほど経って、師匠であるイシルビュートはどこかへ出かけてしまった。


「じゃ、行ってくるから」


 とものすごく軽いノリで出て行った師匠が次にこの家の扉をくぐって帰ってくるのは、宣言通り十日は後のことなのだろう。

 

「たいくつー」


 そんなわけでクレアは暇を持て余している。まだ出発してから一日しか経っていないのだが、掃除に洗濯とできることはやり尽くした感があった。

 そもそも娯楽に乏しいこの場所で、暇をつぶすのは無理がある。

 窓から外をのぞいても見えるのはどんよりとした鈍色の空と、一面に広がる沼地だけだ。家の外にはこんな場所だというのに花が咲いている。これは白恒<しらつね>の花といってこの近辺で唯一生える花だ。中心部が白いその花は先端に向かうにつれて透き通っていき、うっとりするような可憐な見た目だが、その実毒を蓄えているので吸い込むと危険だった。さすがこんな場所に咲くだけのことはある。


「仕方ない……書庫にでも行ってみよう」


 この小屋の作りは地上二階、地下一階建て。

 一階は妙に天井の高いリビングとキッチン、それに浴室と手洗い場。二階は師匠とクレアの私室が一部屋ずつ。そして地下は書庫兼倉庫となっている。元々は納戸のような場所だったのだが、クレアが師匠に「魔術陣を描いてくれ」とせがんだ結果、膨大な量の魔術書の束が出来上がりすっかり書庫になってしまった。

 昔であれば一日中魔術書を読みふけっていたが、もうあらかた覚えてしまったので読むものも少ない。

 それでも読んだことのないものを引っ張り出し、隅に置いてある机に置いてページを開いた。

 

 『魔術陣』というものは奥が深い。

 古代文字で書かれているそれには文字だけでなく図形が挟まっていることもままあった。

 高度になればなるほどに複雑な形となっていき、意味を完璧に理解してなおかつ脳内にその魔術陣を完全な形で思い浮かべなければ術は発動しない。

 不完全な魔術陣は不発になるだけでなく暴発することもあるので、危険な代物だ。

 それを防ぐために通常魔術師というのは『魔術書』と呼ばれる本に使用する魔術陣を書き起こし、持って歩いて必要な時は本を媒介に魔術陣を発動するのだが、イシルビュートはその常識を教えていないためクレアはそんなまどろっこしい方法を取らない。

「魔術陣というのは記憶してナンボ」という常識はずれの常識で育てられている。

  

 開いた魔術書に書かれていたのは、単純な魔術陣。

 クレアは魔術書を読みつつ、右手を振るう。手に持つのはちょうど机の上にあったペンだ。「何を媒介にしようと魔術陣を発動できるようにしておけ」という教え通り、クレアも細長い棒状のものであれば魔力を流して魔術陣を発動できるように鍛えてある。


「風の文字、上向き、撫でるように払う……」


 文字の意味を理解して、ちょっと眉を吊り上げる。そして何の気なしに天井にペン先を向け、魔術陣を発動した。

 本に書いてあるのと寸分違わない図形がペン先へと浮かび上がり、そこから突風のように鋭く小さな風の塊が飛び出した。

 風はぴうっと天井まで飛ぶと、そのまままるでつむじ風のようにくるくる旋回しながら天井の端から端まで行き渡り、そしてこびりついた埃を落としていく。隅々まで掃除をすると、満足したのか魔術陣は終了した。

 本の隅のメモ書きに視線を落とす。そこには見慣れた師匠の文字でこう書かれていた。


『掃除に便利な天井の埃を落とす魔術陣。次の天井の汚れを水拭きする魔術陣とセットで使うと手の届かないところもピカピカになるぜ』


「……何この魔術陣……」


 クレアは脱力した。

 師匠はこういうあんまり意味のない魔術陣を書いておく癖がある。

 他にも『どんなに頑固な汚れも落とす魔術陣』だとか『家に潜んだ害虫を追い出し、もう寄せ付けない魔術陣』だとか、そんな主婦の知恵みたいな魔術陣を何個も何個も書き連ねてはクレアに覚えさせて来る。

 師匠はものすごい魔術師で、凄まじい威力を誇る魔術陣や絶対防御の魔術陣、飛空や変化といった高度で複雑な魔術陣もホイホイと見せてくれる一方、こうやって生活に密着した魔術陣を開発するのも得意だった。どちらかというと派手さに欠ける魔術陣を作り上げては「クレア、見ろ! 新しいやつ開発したぜ」と言っている時の方が生き生きしているかもしれない。


「変なの」


 火力を絶妙に調節して美味しいふかし芋を作って得意満面な顔をする師匠を思い出し、ちょっと笑ってしまった。

 クレアとしては攻撃特化の派手な魔術陣が好みなのだが師匠はそういうのはあまり好まないらしい、ということを薄々感じていた。

 この場所は沼地にほど近く魔物だって出没するため攻撃も防御も教えてくれるけれど、好きかどうかで言えば間違いなく生活密着型の魔術陣の方が好きだ。

 いつだったか、クレアは師匠に「なんでお師匠様はなんでもない魔術陣を嬉しそうに開発するの?」と聞いたことがある。返ってきた答えはこうだ。


「なんでもない魔術陣の方が魔術師じゃない人にも使いやすいだろう」


 きょとんとするクレアに師匠は優しく語りかける。


「魔術陣っていうのは魔術師が使うもんだって思われてるけど、ちょっと勉強すれば誰だって理解できる。皆が古代語を学び、刻んだ魔術陣を発動できるようになれば生活はもっと便利になるし豊かになる。俺はそういう世の中を見たいんだ」


 当時十歳ほどだったクレアにその話は少し難しく、クレアは首を傾げて「変なの」と言った。今なら少し、わかる気がする。


 そのまま数時間を書庫で潰し、時計を見ると夕方に差し掛かっていた。


「あり、もうこんな時間」


 クレアは集中すると時間を忘れる癖がある。伸びをして立ち上がり、夕食でも作ろうかなーと階段を上る。


「ん」


 キッチンに向かおうとすると、ふとーー変な気配を感じた。

 この場所ではない。

 とっさに手に持ったままのペン先に意識を集中して気配察知と索敵の魔術陣を展開する。

 範囲はこの小屋の建つ荒地と、隣接する沼地だ。

 目を瞑って異変がないかを探っていると、見つけた。

 ここから数キロ離れた沼地に誰かが侵入し、そして毒竜と対峙している。

 クレアの使う索敵の魔術陣は非常に精度が高く、正確な場所を把握することができる。


「誰か毒竜を討伐しようとしている?」


 しかし、師匠の話では毒竜というのは軍隊でも投入しないと勝てないレベルの魔物だという。たった一人で立ち向かい、勝てると自信のある人物なのだろうか? それともただの無謀なのか。

 クレアの好奇心がうずいた。

 師匠はクレアに「いい子で待っていろ」と言った。

 すなわち厄介ごとを起こすなということだ。この場所を離れず、じっと大人しくしていろよーということだ。

 だがどうだろう。

 小屋のすぐ側の沼地にて、毒竜と交戦しようとしている人がいる。

 どこの誰であれ、無謀だろう。ちょっと行ってクレアが助太刀してもいいんじゃないか?

 師匠は明言しないが、この荒地にまで届く淀んだ瘴気は毒竜が放出しているものだろうし、討伐できるならした方が世のため人のためなんじゃないかな? 買い出しに行くロレンヌ国境の街の人も、年を追うごとに濃くなる瘴気に怯えていることだし、クレアとしても昼間でも太陽の姿すら拝めないほどに濁った空気が充満しているこの瘴気にほとほと嫌気がさしていた。


 行ってもいいんじゃない?

 むしろ行って助けた方がいいんじゃない?


 クレアの心の中でそんな声が大きくなった。

 腕を組み、部屋の中で仁王立ちになって目を瞑りしばし考える。

 

 そして再びその輝く金色の瞳がかっと見開かれた時、クレアの心は決まった。


 手に持っていたペンを武器がわりに握りしめたまま、勢いよく部屋から飛び出す。さっき検知した毒竜のいる方角を見据えながら飛行の魔術陣を展開した。

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