毒竜討伐編
第3話 お師匠様、寝坊ですよー!
時は流れて十二年後。瘴気はびこる沼地のほど近く、テオドライト王国とロレンヌ王国の間に存在する荒野に小さな小屋が一軒立っている。
そこで、元気な少女の声がした。
「お師匠様ーっ、起きてください! もう、今何時だと思ってるんですかっ!?」
「んあ……七時くらい?」
「もうお昼ですよ! お昼っ!! また寝坊して、どうせ夜遅くまで新しい魔術陣でも作ってたんでしょう!」
少女は掛け布団をバサーっと容赦無く引っぺがし、寝ているお師匠様と呼んだ男を叩き起こしにかかる。腰まで伸びたまっすぐの亜麻色の髪が反動で揺れた。
「今日はお客様が来るって言ってたじゃないですか、ほら支度してください!」
「わかったわかった」
くあーっと大きなあくびを一つしてのそりとベッドから起き上がる。仁王立ちした少女はプンスカと怒りながらなおも言葉を続けた。
「大体お師匠様はいつもいつも適当すぎますよ。寝る時間も起きる時間も決まってないし、ご飯だって食べたり食べなかったり、ふらっと出かけたと思ったら全然帰ってこないし……って聞いてます?」
「聞いてる聞いてる。クレアがしっかりしてるから、俺がちょっとくらい適当でもいいかなーって気持ちになってくるんだ」
「もう、しっかりしてくださいよ、イシル師匠!」
呼ばれたイシルビュートはヘラリと笑う。ボサボサの藍色の髪に部屋着とだらしない格好に、右腕につけた二つのブレスレットがチャリと揺れる。立ち上がるとクレアの頭をクシャリと撫でた。
「悪かったって。お小遣いやるから今日は街に行って買い物頼まれてくれるか」
「わーい」
あっという間に表情を変え、両手を上げて万歳をして喜色を表すクレアを見てイシルビュートは笑った。もう今年で十七歳ほどにもなるというのにまるで子供のような反応である。
「じゃあ、支度済ませたら下まで来てくださいね! お昼ご飯は絶対に一緒に食べるんですから!」
「おう、五分で行くよ」
来た時には怒っていたクレアはご機嫌でリビングのある階下へと去って行く。
扉がパタリと閉まったのを見て、イシルビュートは着替えるべく寝巻を脱いだ。
クレアを戦場で拾ってからもう十二年。
出会った当初クレアは一切の記憶を失っており、言葉もろくに喋れず着替えすら一人ではできない有様だった。余程酷い目にあったのか、夜中には何度も泣きながら飛び起きるし日中も情緒不安定なことが多く、イシルビュートは胸が痛むのを抑えられなかった。
ーー俺が謀略なんかに引っかからずにあの戦争を止めることができていれば。クレアがこんな状況に陥る事にはならなかったはずだ。
自身の不甲斐なさを後悔してもどうにもならない。せめてこれ以上の悪夢を見せないよう、拾ったイシルビュートが責任を持って面倒をみよう。
そうして一年、二年が過ぎクレアの感情も安定し始め、五年経つ頃にはすっかりよく笑う女の子に成長をした。魔術を覚えたい、と言うのでイシルビュート直伝「魔魔術書も杖も使わない魔術の使い方」を教えたところ存外に筋がよく、あっという間に腕を上げていった。
日々の生活は平穏そのものだ。
テオドライトとロレンヌは両国ともに先の大戦で甚大な被害を出したことから停戦協定を結び、戦争の舞台となった地を不可侵地帯と決めた。
この場所には現在、瘴気につられてやって来た強力な魔物とそれを統べるように君臨している竜が巣食っている。それがなくとも人体に有毒な色濃い瘴気が漂う場所だ、近づくような物好きはいない。
人が近づかないのをいいことに、イシルビュートは瘴気に汚染されていない荒地に居を構えた。
こんな荒地に建てられた掘っ建て小屋の中で住まわせるには申し訳ないほどに真っ直ぐで魅力的な少女へと育ったクレアは、イシルビュートの事を「お師匠様!」と呼んで慕い、空虚だった己の心に活力を注ぎ込んでくれる。
光を失っていた瞳は今や美しい金色に、血まみれだった亜麻色の髪は腰まで伸びて艶やかに輝いている。
着替えを済ませてリビングに行くとクレアが宣言通りに昼ごはんを用意して待ってくれていた。家事全般も分担して行なっているのだが今となってはクレアの方が細かいとこにも目が行き届くので上手い。
「お師匠様、買い物リストくださいね」
「必要なのは食料だから何を買うかはクレアに任せる。知らない奴に話しかけられてもついて行くんじゃないぞ」
「わかってますよ、いつまでも子供扱いしないでください」
「子供だろ」
「もう大体十七歳です!」
「はいはい」
他愛もない会話を交わしながら昼食を食べる。クレアの年齢ははっきりしていない。出会った時の外見が五、六歳ほどだったのでそこから数えて十二年、大体十七歳くらいだろうという大雑把な数え方をしている。ちなみに誕生日は出会った日という事にしておいてある。
着ていた衣服からして上流階級の子供だろうから親探しをしようかと考えたこともあったけれど、戦場のど真ん中にいたことから察するに訳ありなのは明白だったので止めた。見つかったとしてもろくな親じゃないことは確かだ。
今の暮らしに満足しているっぽいし、わざわざ厄介ごとに首を突っ込まなくてもいいだろう。
「ところでお師匠様、最近ますます沼地から漂う瘴気が酷くなってませんか? 洗濯物に変な臭いがつくんですけど」
「部屋に干せば」
「それじゃ今度は部屋干し臭くなりますよ」
「魔術陣で乾燥させれば?」
「いやいや、そういう問題じゃなくってですね。引っ越しません? って言いたいんです」
「引っ越しかぁ……考えたことねえなあ」
クレアが用意した食事を取りながら曖昧に答える。クレアの頬が膨らんだ。
「じゃあ、この瘴気の原因って沼地に住んでる毒竜の仕業なんですよね? そいつ倒しに行きましょうよ」
「そりゃダメだ。却下。ハイドラに手を出すのは俺が許さない」
「ええーっ、なんでですか」
あからさまにむくれたクレアが食事の手を止めて不満そうな声を出す。
「なんでって、ああ見えてハイドラはすごい危険な竜だから。危ない、何が起こるかわからない。ダメだ」
「えー……」
「えーってお前な。全盛期にはその口から吐き出す猛毒と圧倒的な力で人類の半分を死に追いやった竜だぞ。討伐するなんて考えるな」
「でもほら、全盛期はってことは今は弱体化してるんですよね」
「どうだか。日々あの瘴気を体内に取り込んでるんだから、もしかしたらもっと強くなってるかもしれないぞ」
「でも、お師匠様ってばすごい強いし、私も頑張って勉強してますし! いけるんじゃないかなって」
キラキラと金の瞳を輝かせてこちらに提案してくるも、イシルビュートは呆れ顔を返した。クレアは元気な子に育ってくれたが、同時にちょっと楽観的な部分がありそこが心配だった。
「そういう安易な考えは捨てろ。瘴気は大丈夫だ。それより今日のおつかい頼んだぜ」
「……はーい」
むくれながらも言うことを聞くクレアの頭をワシャワシャと撫で、その話はそこで打ち切りとなった。クレアの気持ちはわかるけどここから引っ越すことはできない。両国のちょうど中間で、なおかつ人があまり近寄らないうってつけの場所なのだ。
多少の瘴気であれば魔術陣で防げるのでどうということもない。景観が完全に荒廃していることに目をつむれば、快適に住める。
イシルビュートは年頃の娘の繊細な感情を読み取るのが苦手だった。
「それじゃ、行ってきまーす」
「気をつけろよー」
元気に去って行くクレアを見送ったイシルビュートは時計を確認した。
まもなく本日の来客がやってくる時間だ。
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