幾つもの道
面倒を見る。その言葉どおり、彼は親切だった。宿の泊まり方や携行品をはじめ、いろいろと旅の知恵を授けてくれた。単に饒舌なだけかもしれない。
ベルントだけではない。水場で休んでいれば良い馬だと声をかけられ、酒場では隣の女がお勧めの料理を分けてくれる。どこから来たのか。どこへ行くのか。親子で旅してるのかい。お嬢さん、お疲れだね。今夜はよく眠れるだろうさ。行き交う人の誰も彼もがお喋りで最初は戸惑ったが、途中で気がついた。村を出たときから、エッダは孤児でも悪魔の子でもなくなったのだ。
だから、バーリッヒに着いたとき、エッダはベルントに心から礼を述べた。
「見本市までは、あと三日ある。施療院を訪ねてみるといい」
孤児から老人、病人や貧民、そして旅人、行く当てのない者を受け入れてくれる施設だという。
「どうして、ここまでしてくれたの」
別れ際、二番目に知りたかったことを訊いてみた。
「あの子がリアナと呼ばれるのを初めて聞いたんだ」
「……それだけ?」
「あとは、そうだな。ユリアーナ様が、あまりにも立派に成長されたから、な」
苦労させるのは忍びない。遠くを見つめる瞳に、何が映っているのかは分からない。けれど、おそらくそれはエッダが一番知りたかったことの答えだった。
「ありがとう」
改めて繰り返すと、ベルントは少し疲れた顔で笑った。
ひとりに戻ったエッダは、施療院の門を叩いた。
老婦人ドーリスは、目尻に深い皺を刻みエッダを迎えてくれた。子どもたちの過ごす部屋へ案内されると、そこでも歓待の声が上がる。「いろいろと教えてあげてちょうだいね」はーいと元気の良い返事が揃った。「ぼくが案内してあげる」「わたしがするの」「みんなで行こう」「エッダ、こっち来て」花の綺麗な中庭や食堂で出る美味しいスープ、できるようになった仕事やドーリスに褒められたこと。
さざめく子どもたちは、風に揺れる麦穂を思い起こさせた。眩しく、そして同時に羨ましい。
「あの子たちは幸せね」
二日目の朝、山積みのタオルをたたみながら、エッダは思わずそうこぼした。
「あら、どうしてそう思うの?」
エッダの視線を、ドーリスも追う。それに気づいた数名の子が、手に持った花を
振ってみせた。看護室に持って行くのだと張り切っている。
「だって、ドーリスみたいな人が親なんだもの」
手を振り返すドーリスの眼差しは、どこまでも優しい。
「みんな、ここで育ててもらえて幸運だわ」
「それは、どうかしら。私は、あの子たちの幸せにまで責任を持てないわ」
素気ない答えに瞬く。あらあら、びっくりさせちゃったかしら。ドーリスは悪びれる様子もなく、おっとり笑った。
「だって、私の考える幸せと、あの子たちの考える幸せは違うかもしれないでしょう。幸せを願うことも、そのための行いも、私がしたくてしているだけ。そんな私を、あの子たちが疎ましく思うことだってあるかもしれないわ。そうなったら残念だけれど、それは私がやりたいようにやった責だもの、謹んで受け入れますよ。だけどね、私にできるのはそれだけ。あの子たちが幸せになれるかどうかは、彼らひとりひとりが選び取るもの次第」
「選び取るもの?」
「そう。世の中は、儘ならないことばかりで。それなら初めから進める道が一本に決まっていれば楽なのに、そうじゃないのよ。誰にだって、できることできないこと、やりたいことやりたくないことがあって、自分がどうするのか選んでいかなきゃならない。そこで幸せになる道を探すも探さないも、それは彼らに与えられた自由と責」
エッダは何を選んできただろう。歌えない。話せない。農地や家畜に近づくことも許されない。すべて、仕方のないことだと諦めた。自分で道を探したことはあっただろうか。やりたいこと、できること、これまで見逃してきた幾つもの道を思う。
「先生! 見て!」駆け寄る子どもたちが両手に抱えた花束。あれもまた、命を奪われた花だ。
「まあ、綺麗。早く、飾ってもらいましょうね」
「うん! エッダ、あとでまた字を教えてくれる?」
もちろんと微笑む。穏やかな時間に身を浸しながら、自分のやるべきことについて考えた。
エッダがヒスベルクに戻ったのは、晩課の鐘も過ぎ、辺りに薄闇が落ち始めたころだった。それでも、日暮れまでに帰れたのだから上々だ。あとは、どうにかしてユリアーナに会う方法を考えなくてはならない。頭を悩ませる間もなく寝入ってしまった翌日、彼女の方からエッダを訪ねてきた。
「本当に、体は何ともないの?」
納品日にエッダが屋敷へ現れなかったため、心配して来たのだという。村を出た日から数えてみれば、今日は土曜日だった。怪我がないか眺めまわし、熱がないか確認し、痛むところはないかとこちらを覗き込む。エッダが首を横に振ると安堵の息を吐き、だがすぐにその眉が下がった。
「私に会いたくなかった、から?」
想定外の言葉に、虚を突かれる。否定の意を示せば、「でも、泣かせてしまったわ」囁いた口がきゅっと引き締められた。つられるように、エッダの心臓が締め付けられる。我が身可愛さに泣いてしまったことが申し訳なかった。ユリアーナは、良い子だ。幸せになって欲しいと、痛切に感じる。
このままクラウゼ家の娘として嫁ぐのも、ひとつの幸せなのだろう。難はあれど、贅沢な暮らしは保証されている。だけど、聡明で誠実な彼女が、何も知らずに利用されるのは嫌だった。
バーリッヒの街で見た親子の姿を、思い出す。
「ちょっと、危ないわね!」門の前で耳を突いた、甲高い声。若い娘が商人を相手に
「マリー、大丈夫?」
「おい、君。困るよ。うちの娘が怪我をしたら、どう責任を取るつもりだ」
娘の肩を抱く母親らしき女。商人を威圧するように前へ出た男、インゴルフ。そして、マリーと呼ばれた娘。「どこかお怪我を」と慌てる商人へ、彼女は言い放った。
「いいえ。そんなことより、服が汚れちゃうじゃないの。早く、そのみすぼらしい馬をそっちへやってちょうだい」
艶めく金の巻き毛、紅潮した頬とは対照的に冷ややかな碧眼。スカートにはたっぷりと
あの家族のために、彼女が犠牲になるのは嫌だ。エッダの我が儘かもしれない。それでも、彼女の努力が、決断が、すべてが彼女だけのものであって欲しかった。
「リアナ、話があるの」
ユリアーナが、咄嗟に入口を振り返る。
「大丈夫。こんなところ、誰も来ないわ」
来るはずがない。この村で、エッダは孤独なのだから。咳をするのにも声を押し殺していた自分が馬鹿みたいだ。
ユリアーナをベッドに座らせ、並んで腰を掛ける。真っすぐに、彼女の双眸を見据えた。ベルントの話をかいつまみ、エッダ自身が目にした光景を告げる。瞳は逸らさない。翳りゆく碧は、エッダが負うべき責だ。
「嫌だわ」聞き終えたユリアーナが、ぽつりと呟いた。
「嘘よ。馬鹿げた作り話」
色を失くした唇が震える。
「そう思えない自分が嫌だわ」
ひたひた満ちた涙は、こぼれだすと止まらなかった。彼女の両手を、降り注ぐ熱から守るように包み込む。
「嘘だったらいいのに、と思う、けど。どこかで納得してるの。なら、仕方なかったんだって。置いて行かれても、頑張ったのに、意味がなくても。私のせいじゃない。私は悪くなかったって、思う自分が嫌。こんなの、嫌われて当然だわ。違う? 本当の子だったら、こんな私でも愛してもらえたの?」
実の子どもを捨てる親がいれば、血のつながりはなくとも愛情深く育てる人だっている。きっとこれも、世の中に溢れた儘ならない内の、ひとつでしかないのだろう。エッダに言えることは、ほんの僅かだ。
「リアナは、何も悪くない。だから、私はリアナに幸せになれる道を選んでほしい」
すべてを知った上で彼女が結婚を選ぶのなら、それでもいい。だが、もし、 ユリアーナの望みが別にあるのなら。
「リアナ。一緒に村を出ましょう」
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