祈りの末路

 門番に、前掛けを広げて見せる。エッダが何も盗んでいないことを確認し、男はくいと顎をしゃくった。声を出さないように気をつけながら鼻をすすり、家までの坂を上っていく。

 結婚相手は、領主の長男であること。本来であれば姉の方が先に嫁ぐべきだが、跡継ぎを産むため健康なユリアーナが選ばれたこと。ツヴァイク家との縁故が、村の発展に繋がること。ひとつひとつ、彼女は説明してくれた。

 そんな必要はないのに。ユリアーナと自分では住む世界が違う。もう会えないと、一言告げるだけでも充分すぎるくらいだ。だから、「エッダ……!」と囁くような悲鳴で自分が泣いていることに気づいたとき、込み上げてきたのは羞恥だった。浅ましい。置いて行かないでなんて、分不相応だ。いたたまれなさに追われ、エッダは黙って部屋を飛び出してきてしまった。

 森に沈みゆく西日は勢いが衰えず、涙跡はあっという間に汗に紛れる。短靴の裏に伝わる感触が硬い土と石ばかりに変われば、荒れ地の中ぽつんと佇む家が見えてくる。カラン、カランと教会の鐘が鳴った。仕事の終わりを告げる晩課だ。

 立ち止まり、振り返る。なだらかな坂の途中に領主館があり、さらに道を下った先が教会だった。向かいに広がった耕地では、晩課を聞いて人々が帰り支度をしているのだろう。春に蒔いた大麦や豆の刈り入れ時だ。収穫期特有の村全体が弾むような空気の中、疲れた顔をしながらも軽口を交わし合い家路につく。坂から一本道で繋がっているはずの賑わいが、ここまで届くことはない。

 代わりに、峡谷から風の音が響く。招かれるように、エッダはとぼとぼと歩みを進めた。


 かつては、エッダも教会に併設された司祭館で暮らしていた。

 お気に入りの聖歌があって、それを聴くのが日々の楽しみだった。司祭が短く祈りを唱えたあとに流れる歌だ。黄金の畑に降り注ぐ朝陽のような、清らかで荘厳な音色。

 歌えないエッダは、皆と礼拝を共にすることも許されない。任期が来て司祭が交代してからも、それは変わらなかった。だからあの日も、エッダは礼拝堂の壁にもたれ聖歌に耳を傾けていた。

「この歌、好きなの?」

 そこに声をかけてきたのが、ユリアーナだった。

「礼拝、出ないの? 中で一緒に歌えばいいのに」

 人がいるところで歌ってはいけないのだと答えたエッダの手を引いて、彼女は歩き出した。粗末な農具小屋に着くと、「ここなら人が来ないから、大丈夫よ」そう前置きして、ユリアーナは言った。

「聖歌はね、お祈りなの」

「お祈り」 

「そう、祈りは自由よ。祈っちゃいけない人なんて、いないんだから」

「お祈りなら、いつも司祭さまと捧げてる」

「じゃあ、いっしょに祈りましょう」

 にっこり笑った彼女の口から、あの聖歌が流れる。大勢の声が重なったものとは違い、甘く軽やかだった。エッダもユリアーナにならう。初めての、歌。意識しなくとも音は次々と溢れ出た。美しい旋律が咽喉を震わせる。

 最初に異変を見つけたのは、ユリアーナだった。

 するり、するり、と辺りの細い茎が伸び始めた。引き上げられるように、葉の嵩が増す。茎の先端がぷっくり膨らんだかと思うと、たちまち色づき、やがて赤い花弁が吹き出すように開いた。

 驚きと混乱。そのどちらも、ユリアーナの称賛を受けて吹き飛んだ。ふたりで夢中になって歌った。その結末が、これだ。

 翌朝、エッダは領主館へ呼ばれ、あの一帯が枯れ野原になったことをインゴルフから聞かされた。怪しい力を使うとなれば火刑に処すべきところ、今回は元凶である声を封じることで赦免とする。今後の生活は、クラウゼ家の指示に従うように。エッダは、黙って頷く他なかった。

 北端の荒れ地へ住まいを移し、麻や羊毛など支給された原料で紡いだ糸をクラウゼ家に納めた。報酬に、食糧を受け取り帰る。すべて言われたとおりにしたが、それでも人々はエッダを罵った。井戸へ行けば水が枯れたらどうすると怒鳴られ、市場を覗けば不作はお前のせいだろうと責められる。死を免れた自分が許されることはないのだと悟った。

 だからエッダは、誰の目にも留まらぬようひっそりと生きることにした。そんな生活に少しだけ色が戻ったのは、屋敷でユリアーナと再会してからだ。

「あなたに、読み書きを教えることにしたの」

 償えるものではないけれど、という言葉にかぶりを振る。彼女が責任を感じる必要はない。けれど、その優しさに甘えた。ふたりのときだけ、エッダは許しを得た。


 もう、十年になる。ユリアーナだけが、ずっとエッダを気にかけてくれた。その最後にこんな別れ方をしていいはずがない。

 心を決めて、エッダは眠りに就いた。

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