朝陽をそそぐ

きづき

悪魔の声

 さ、歌って。


 ユリアーナに促され、エッダは咽喉が引き攣るのを感じた。向かいに座り込む彼女が、一輪の蕾を目の前へ差し出す。小さく深呼吸。ささやかに、ほんのささやかに声を乗せた吐息を、エッダは蕾の上へ落としていく。

 やがて、固く閉じた蕾の先が綻び始めた。必死に身を守る腕が無理矢理こじ開けられていくかのように、花は開いた。じわりじわりと成すすべなく、黄色い花弁が引き剥がされる。

 一曲の聖歌を終えると、咲き誇る花がそこにはあった。


「いつ見ても、不思議ね」

 花の香りを楽しむユリアーナの優雅な動きに合わせ、金の巻き毛が揺れる。

 不気味の間違いでしょう。思うだけで、口には出さなかった。早鐘を打つ心臓を抑え、耳を澄ませる。扉も廊下も沈黙を保っているのを確認し、ようやく肩の力を抜いた。何度歌っても慣れない。この時間なら人は来ないとユリアーナは断言するが、誰かに聞き咎められるのではないかと気が気じゃなかった。

 もしそんなことになれば、エッダは次こそ火炙りにされてしまう。

「初めて見たときは、本当に驚いたもの。花を咲かせる歌声があるなんて」

「違うわ、花を殺すのよ」

 今度は黙っていられなかった。「またそんな言い方して……」と、ユリアーナが柳眉を顰める。

「命を奪うだけなら、わざわざ咲かせる必要はないはずでしょう? 逆なんだってば。成長させてるの。美しい歌に浮き足立って、花たちは開いていくのよ。そこに力を使いすぎて、通常より早く枯れてしまうというだけ」

 流暢な説明は、散々聞いたものだ。真偽のほどは分からない。なぜ自分の歌にそんな力があるのか、それすら見当がつかないエッダでは判断のしようもなかった。

 結局のところ、同じことだ。ユリアーナの手にある黄色い花だって、明日には枯れてしまう。

「花にとってはいい迷惑だわ。呪いの歌よ」

「あんな綺麗な歌に、呪いなんて言葉は似合いません」

 村でそう呼ばれているのを知らないわけもないだろうに、彼女はうっとりと碧い瞳を細める。

「透きとおった柔らかな声が、聖歌にぴったりだわ。朝露の煌めく音が聞こえたら、こんな感じかしらって思うもの。だから、思わず花も咲いちゃうのよ」

「詩的ね」

「もう、茶化さないで」

「茶化してないわ。褒めてるの」

 育ちの良さを感じさせる、ユリアーナらしい表現だと思う。本当かしら、と傾けた頬に添えられた手は白くすべらかだ。その細い体にまとった衣服も、パリッとした上質な生地で仕立てられており、清潔感がある。

 床に敷かれた毛織物の感触が気になり出し、エッダはお尻をもぞもぞと動かした。

 ツヴァイク領、ヒスベルク。村で一番大きな建物である領主館は、外観から想像されるとおり内装にも贅を尽くされている。だが、そこで暮らしているのは領主ではない。実際に屋敷を使っているのは、クラウゼ家だった。インゴルフ・クラウゼという男が、領主の留守を預かり、代わりにヒスベルクの村を治めているからだ。

 そのクラウゼ家の次女がユリアーナである。幼いころから家の名に恥じぬよう躾けられ、親の期待に応えるべく努力を重ねてきた。身に付けた教養と心根の美しさが、こういうところにも表れるのだろう。

「だけど、私にはそんな風に思えないんだもの。うちの裏の崖、リアナも知ってるでしょう? あの谷底から聞こえてくる音にそっくりなのよ。悪魔の呼び声みたい」

「悪魔だなんて。風の音が、岸壁に当たって響くのよ」

 ひゅうひゅうとか細く、それでいて耳に迫るような音だ。風だと分かっていても、どうにも薄気味悪かった。引きずられるように谷底へ落ちる様を想像し震えたことも、一度や二度ではない。そうして、自分に嫌気が差すのだ。矛盾している。誰からも疎まれる人生なんて終わってしまえばいいと思っているのに。

 エッダは孤児だった。村の教会の前に捨てられていたのだという。エッダを拾い育てた司祭は無口な人で、家事や仕事は見よう見まねで覚えた。

 そんな彼が「人前で歌ってはならない」と言って聞かせたことの重みを、もっとよく考えるべきだったのだろう。言いつけを破ってしまったエッダは村の花を枯らし、歌うことだけでなく、声を出すことも禁じられた。悪魔の子だという噂がどこまで真実味を帯びているのか定かではないが、人々にとって忌まわしい存在であるのは確かだ。

「ちょうどよかった。今日は、いいものがあるの」

 そんな中で、ユリアーナだけがエッダに優しい。

 レースで縁取られた布の中には、赤い実が収まっていた。表面がしわしわとしている。干された果実だ。食べるよう勧められ、おそるおそる口に含む。

「あまい……!」

「あの崖で実を付けるそうよ。川に乗って流れてきたものを取る仕掛けが、東の方の街にはあるんだって。悪魔の声がするような谷に、そんなおいしいものがるはずないでしょう?」

 広がる甘みを噛みしめていると、不意にユリアーナが表情を改めた。

「エッダも、同じだと思うの。谷から流れていくこの実がね、街で拾われて皆のおやつになるみたいに、エッダの歌ももっとたくさんの人に楽しんでもらう方法があるんじゃないかしら」

「どうしたの、急に?」

「ずっと考えていたの。だって、すごい力なのに」

「そんなことない」

 何の役にも立たない、迷惑をかけるだけの力だ。こんなもの、欲しくはなかった。エッダがそう思っていることは、彼女だって知っているはずだ。

「そんなことなくない。立派な才能よ」

「これが才能? やめてよ。こんな悪趣味なもの、どこで活かせるっていうの」

「活かす道を一緒に探したいの」

「無理よ。ないものは探せない」

「やってみないと分からないでしょう」

「やってみて駄目だったら? ただでさえ村の厄介者なのに、さらに大勢の敵をつくれっていうの? 嫌よ。今より辛くなるなんて、耐えられるわけない」

 忌避され、石を投げられる。そんなのは、もう嫌だ。どうせ呪いの歌にもエッダにも、価値などありはしない。だから、行きつく先は、いつも。

「いっそ死んでしまいたい」

 ぽろりと、こぼれた。きっとまた、そんなこと言わないでと怒られる。けれど、願うくらいは許して欲しい。辛いと吐き出すことも、死にたいと嘆くことも、ここ以外ではできないのだから。

 だが、エッダの予想に反し、ユリアーナの口から出たのは叱責ではなかった。

「そうね。死んでしまった方が楽なのかもしれない」

 驚いて顔を上げれば、遠くを見つめる碧は深く沈んでいた。

「リアナ?」

一昨日 おととい、お父様から手紙が届いたの。近々、戻るって」

 ユリアーナの両親は、この領主館ではなく別邸にいることが多い。生まれつき病弱だった長女のマリアンネが、療養のため森に建てられた屋敷で暮らしているからだ。そちらへ同行することも許されず、ユリアーナは姉の顔を見たこともないらしい。

 はっきりと聞いたわけではないが、ずっと淋しい思いをしてきたのだろう。両親が戻るときは、嬉しそうに報せてくれるのが常だった。

 しかし、今、彼女の顔は曇ったままだ。

「正式な契約はまだだけれど、もう決まったことで。いろいろ準備も必要だから」

「何の話?」

 見慣れない表情に、胸が騒ぐ。伏せられていた目がエッダに向けられ、そして。 

「私、結婚するの」

 この村を出るの、とユリアーナは言った。

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