私たちの祈り、あるいは風船ガムの割れる音、それからまた膨らむ様
【春原優那】
1
肩までの髪をひっ詰めて、結ぶ。「今度美容室に行くまでは、これで大人しくしててね」と自分の癖毛に言い聞かせた。縮毛矯正をかけても、髪が伸びてくるとまるでダメだ。それならそれで、昔ほどは嫌にならないけれど。
ドアを叩く音が聞こえる。
「春原さーん」と呼ばれ、「はーい」と応え慌ててドアを開けた。
「飛び入り。行ける?」と事務員さんが確認してくる。私は「大丈夫ですよ。午後の予約は十五時でしたよね」とうなづいた。「じゃあ通すから」と事務員さんはいったん引っ込む。
それから再度ドアを叩いたとき、彼女は十代の半ばと思われる女の子を連れていた。私は少し驚いて、「本人?」と短く尋ねてしまう。事務員さんは素早く両手を合わせて『ごめん』というジェスチャーをして見せた。訳アリだろうかと思っていると、これまた手話の混じった手ぶりで『別々に』『家族、この子、別々に』『あっちで、この子の、親、やってる』と伝えてくる。私は軽く頷いて、女の子に微笑んで見せた。
「どうぞ。中に入って、お茶でも淹れましょう」
女の子は誰とも目を合わさないままで、「あたし病気じゃないから」とだけハッキリ言った。私は事務員さんに『大丈夫ですよ、ドアを閉めて』と目だけで促す。事務員さんは最後にもう一度だけ『ごめん』というジェスチャーをしてドアを閉めた。
「好きなところに座ってね」
「あのさ、あたし本当に病気じゃないから。いかれてると思って話しかけてこないで。虫唾が走る」
「うん。病気だと思ってないよ」
私は歌うように軽やかに「病気の人は、病院に行く」と言って湯呑みを出す。ここは病院ではない。カウンセリングルームだ。
「ここに来る人は、みんなどこか頑張りすぎ。頑張りすぎの人は、時々病気になる。確かにここに来た時点で病気の人もいるけどね。あなたが今病気か病気じゃないか私にはわからないから、わからないことについて私はどっちとも断定しない」
結局のところカウンセラーというのは、薬も出さなければその人の人生を変えるようなことも言えはしない。ほとんどが話を聞くだけだ。だけれどそこに必ず意味はあると、少なくとも私は思う。
電気ポットの電源を入れながら、私はタブレット画面を眺める。
本来このカウンセリングルームでは、相談者から依頼があった時点で本人あるいは付添人から簡単に事情を聞き取りしてからカウンセリングを始める。なのでこういったことは稀ではあるが――――ないわけではないので、時々こうして何かしているふりをしてタブレットに送られてきた情報を見たりする。
受付を担当した事務員さんからの情報をまとめると、こうだ。『予約なしで母と名乗る女性に連れられてきた。あまり関係が良くない様子である。アンケート用紙を記入してもらおうとしたところ、付添人である母が興奮状態となり別室にて事情を聴くことになった』
少女についてわかることは、母とあまり関係が良くないこと、それと名前と年齢くらいだ。所沢ジュン、十六歳。
私はあえて彼女に名前を尋ねてみた。彼女はやはりこちらを見ないままで、「さっき受付で書いた」と答える。お茶を出しながら、「そう、ごめんね。何て呼ぶのがいいかな」と聞いた。
「……別に名前呼ぶことなんてなくない?」
「そうかな。あ、私の名前はね、スノハラユウナっていうんだよ。好きに呼んでいいからね」
ジュンちゃんはちらりと私を見て、「すごい天パ」と呟く。私は笑って、「天パって呼んでもいいよ」と言った。
「話、聞いてもいい?」
ない、とジュンちゃんは拒絶する。「あたし、あの人に連れてこられただけだから。別に何にもないんだよね」と眉間にしわを寄せた。私はお茶菓子を出しながら、「じゃあ時間までお菓子でも食べよっか」と何でもないように提案する。
「……病気なの、あの人だよ。正直」
「あの人って、お母さん?」
「一応」
私は瞬きをする。「そっかあ」と呟いた。「でも別に母親らしいことしてもらった覚えないし」とジュンちゃんは吐き捨てる。私はまた「そっかあ」と言って頬杖をついた。
「音楽でも流そっか? ジュンちゃんは、好きな歌手とかいる?」
「ジュンちゃんって」
「あー、ジュンちゃんじゃない方がいい?」
「馴れ馴れしい」
思ったほどの拒否反応ではない。嫌悪というよりは恥ずかしそうな感触だった。私はふっと笑って、立ち上がる。自分のデスクまで歩いていき、山になった書類を抱えてジュンちゃんのいるテーブルに戻った。
「お願いしていい?」
「何が」
「仕事、手伝ってくれないかな」
「は?」
ジュンちゃんは信じられない顔をする。私はとぼけた顔をして、「もしかして話したいこと、あった?」と首をかしげた。ジュンちゃんは怒ったように「ないっつの」と声を荒げる。
「じゃあ、時間まで仕事手伝ってよ。これをね、四枚ずつホチキスで留めるの」
彼女は黙って作業を始めた。「助かるな」と言って私も同じ作業をする。
「今何年生?」
「結局話しかけてくんじゃん」
「ごめん、喋ってないと作業できないタイプで」
「あたしは無言じゃないとできないから」
「そっかあ」
そのまま黙々とホチキスで留め続け、一時間が経った。
「今度は好きなCDを持っておいでよ」
「なんでまた来ることになってるの」
「来るなら、だよ。どうせ来るなら好きなCDとお菓子でも持っておいでよ。あ、これ電話の番号。仕事用の携帯だから、時間外だと出ないかもしれないけど、気軽にかけて来てね」
ジュンちゃんは険しい顔をして、「まあいいや、次もあんたなら」と言って帰って行った。どうやら無害な人間としては認識されたようだった。仕事としてはスロースタートすぎるかもしれないが。
次に来た時、ジュンちゃんはCDと雑誌を持ってきていた。「あの人のカウンセリングが終わるまでの暇つぶしだから」と言い、堂々と雑誌を読み始める。
私はその横で、またホチキス留めをする。ジュンちゃんは片眉を上げて、「それさぁ」と言ってきた。
「前にあんなにやったのに、まだあんの?」
「すぐなくなっちゃうの。配ってるから」
「一人でやってんの? いじめられてんじゃない?」
「そんなことないよ。たまたま私の担当なの」
呆れた顔のジュンちゃんに、「手伝ってくれるの?」と聞いてみる。ジュンちゃんは顔をしかめながらも、「どうせ時間潰さなきゃいけないからいいよ」と手を伸ばしてくれた。
前回落ち着かせるだけで終わってしまった彼女の母親のカウンセリングも、今回はまともに会話ができるレベルだったようだ。担当したカウンセラーから話を聞くと、彼女の母親は重度のアルコール依存の疑いがあり、どうにか医療機関への受診を促したいところなのだと言う。ひとまず、次回の予約を取らせることには成功したらしく、それに伴ってジュンちゃんの予約も入っていた。
ジュンちゃんはよく「あたしはあの人の付き添いで来てるだけだから」と言う。そういう側面も多分にあるだろう。彼女の母親に、担当のカウンセラーは『娘さんがカウンセリングを受けている間、お話しましょうか』と話しているようだった。だからいつも二人で来る。そういうことも、珍しくはない。
ジュンちゃんは音楽が好きなようだ。持ってきたCDを「いい曲だね」と言った時だけ少し嬉しそうだった。
「知らないの?」
「最近の曲かな」
「あのさ、スノハラ……さんって、いくつ?」
初めて、ジュンちゃんは私の名前を呼んだ。私は笑って、「もうアラサー」と答える。
ジュンちゃんは「ふぅん」と言いながら手元のスマートフォンを操作した。それから私に画面を見せ、「このバンド。ほんとに知らない? 映画観なかった? 主題歌やってたから、CMでも流れてたけど」と確認する。私は曖昧に頷き、「それなら聴いたことあるのかもね」と呟いた。
「ジュンちゃんは音楽が好きなんだね」
「好きだよ、普通に」
私は恒例となった事務作業をやりながら、「私の友達に、趣味でバンドをやっている人がいてね」と話す。ジュンちゃんは顔を上げて、「そうなんだ。いくつの人?」と聞いてきた。
「私より五個は上かな。女の人で、ギターを弾くの」
「かっこいいじゃん」
へえ、とジュンちゃんは頬杖をつく。
「あたし……あたしも、やってみたいな」
「いいね」
「でも誰かとやるのダルい。一人でやりたい」
「それもいいんじゃないかな」
「楽器買うお金ない」
「ギターとか、高そうだもんね。あんまりよくわからないけど」
「何かやるお金がない。やりたいことあっても、何も」
「そうかな」
ジュンちゃんは不満そうだったが、私にはそれがひどく健全なことのように思えた。「不自由だよね、若い頃って」と私はため息をつく。それというのも、大人は決して積極的に子供を自由にしようとはしない。そこには様々な事情があるが、『様々な事情があるのだ』と気づく頃には人はまた新しい不自由さを背負っている。言うなれば人はみんな不自由だが、若い頃の窮屈さはそこに誰かの作為を感じる分一層窮屈だと言える。
「すごいしみじみ言うじゃん」とジュンちゃんが突っ込んだ。私は苦笑して、「私も学生の頃、世界が狭くて仕方なかった」と話す。
今でも、ふとした瞬間に思い出す。青いプールの、塩素の匂い。狭くて息苦しい世界。
2
私の声が出るようになったのは、七年ほど前だった。
その頃私はまだ大学に通っており、近くのアパートに住んでいた。少し遅くなってしまった帰り道、私は女性物の靴を見つけた。
靴が落ちている、しかも片方だけ。私は近くに、気分を悪くしたか酔ったような女性がいないか探した。
歩いていると、道路の向こう側で低木の茂みが揺れたような気がした。足を止めて、目をこらす。近くに街灯はなく、よく見えなかった。車も通らないので車道を横切っていく。人の足が見えた。
そこからは、よく覚えていない。倒れている女性と馬乗りになっている男性がいて、男性は私を見るなり何か怒鳴った。警察を呼ぼうという発想すらなく、私は真っ直ぐに女性の元へ走っていった。それから女性を抱きしめ、力いっぱい抱きしめ、その場でうずくまった。
「やめてよ」
人生で一番、大きな声が出たと思う。私はそう怒鳴り返していた。
男は黙っている様子だったが、「顔覚えたからな」などと言いながらどこかへ行ってしまった。私と被害者の女性は、なぜかその場で抱き合いながらわんわん泣いていた。
通報すると、「ダメだよ、最初から警察呼ばなきゃ」と怒られた。当然だ。一歩間違えればあの女性も私も、殺されていたのかもしれないのだ。それでも例の女性はひどく感謝してくれた。何より一緒に泣いてくれて嬉しかった、と。
男が捕まるまではもちろん不安で、怯えた毎日を過ごしていた。幸運にも男はすぐ逮捕されたが、今でも不安になることはある。あの男が釈放されて、まだ私や彼女を恨んでいるかもしれない、と。後悔はしていないが、もっと上手なやり方があったはずだと思う。
そういった経緯で、私は声を取り戻した。でもまったく以前通りという訳でも無い。私の声はしゃがれている。それを私の友人である果さんという女性は、「ハスキーでいい声じゃん」と言ってくれた。私も、声について何か言われた時にはそう返すことにしている。ハスキーでいい声でしょう、これで歌が上手だったら文句なかったんですけど、と。
果さんとは、今でも三ヶ月に一回ぐらいは会う。彼女は出会った頃からギターをやっていたが、いつからかバンドを組んで趣味で演奏するようになった。時々チケットをくれる。会場としてはちょっと小さいけれど、そこで演奏をする彼女は輝いていた。
いつだったか、彼女は言った。
『もし結婚する時は、私のこと呼んでね。余興と友人代表スピーチは任せて』
それは彼女の優しさだっただろう。もう忘れていいんだよ、という。
ため息をつく。私も、これが誠実な想いなのか惰性による執着なのかわからなくなっていた。
ただ、会いたいと思う。
「会いたいな、幸田さん。そろそろ」
そう、呟いた。
3
いつになく饒舌なジュンちゃんが、「この前ライブに行って」と話す。
「別に売れてるとかじゃなくて、まだ全然プロ目指してるとこらしいんだけど、結構いいバンドいて」
「ライブ、楽しいよね。私も時々行く」
果さんに誘われたものばかりだけど。
「結構同じぐらいの歳の子がいたし」
「楽しかったんだ」
「まあ」
私はちょっと手を止める。『同じぐらいの歳の子がいた』ということは、そうでない人たちも多くいるのだろう。一応、「お母さんには言った?」と訊いてみる。案の定というか、「なんで」と反発の色を帯びた返答があった。
「遅くなるようなら、言った方がいいよ。補導とかされることもあるし」
「反対されるに決まってんじゃん。あの人、あたしがやること全部気に入らないんだから」
そんなことないよ、とは言わなかった。そういう親もいるということを私は知っている。
その日、ジュンちゃんとは微妙な空気のまま終わった。彼女が音楽のライブに行っていることについて、彼女の母親を担当しているカウンセラーに伝え、それとなく注意を促してもらうべきか考える。しかし現段階で何が問題というわけではない。強いていえば外出理由を母親に言えないという関係性を改善できないかとは思うものの、ここでジュンちゃんの信用を失うという方が問題ではある。何より危険が可視化できない以上、まだこれは彼女の個人情報だ。
それに、彼女の母親は自分のことでいっぱいいっぱいのようだった。
4
久方ぶりに休みを取った。空気はすでに冬に近い。私は夏よりも冬が好きなので、いい季節になってきたなとぼんやり思った。
昔からよくお世話になっているカフェへと足を運んだ。店に入ると、石本さんというマスターが「いらっしゃい」と顔を上げる。それから「おー」と嬉しそうに手を振った。
「久しぶり」
「ご無沙汰してます」
「コーヒーでいいかな」
「はい」
私はカウンターに座って、「野乃さんは?」と尋ねる。「二階にいるよ。ちょうど落ち着いてくる時間だからね、順番に休憩」と石本さんは肩をすくめてみせた。私は頷いて、店内を見渡す。ここはずっと変わらない。壁には立ち寄った旅行者たちの写真が飾られている。そこには果さんの姿も写っていた。彼女の兄である、幸田至という人が撮った写真だ。
「もう十年になるね」と、石本さんが言った。「至が死んでから」と。
私は驚いて、「十年になりますか?」と聞き返してしまう。それから指折り数えてみたが、確かにそれくらいなのかもしれなかった。「十年になりますか」と私はしみじみ言う。
「まだ、忘れられないの? 至のこと」
「幸田さんのこと忘れたら、全然違う私になっちゃうだろうな」
それでもいいんじゃないかな、と言いながら石本さんはカップを目の前に置いた。私はそこに角砂糖を入れて、混ぜる。
「気になる人とか、いないのか」
「みんな私にそういう人を作りたがる」
「みんな?」
「果さんも、私を結婚させたがってる」
「ああ」
石本さんはちょっと目をそらしながら「君に対しては、なんというか……僕たちはみんな、『うちの至がすみません』という気持ちでいる」と頬杖をついた。私は思わず笑ってしまって、「なるほど合点がいきました」とコーヒーを口に運ぶ。
「君に幸せになってほしい。僕の古い幼馴染たる幸田至という男は、無責任にも未成年だった君に手を出してそのまま死んでしまったが」
「随分な言い方ですね」
「そんな男のことなんか忘れてしまって、君には君の人生を歩んでほしい。それが僕たちの願いだ」
瞬きをして、私は角砂糖をもう一つ入れた。「疲れてる?」と石本さんが訊いてくるので、緩く首を横に振る。
「こんなにも長い間至のことを思い続けている君を見ていると、君と至は出会うべきじゃなかったんじゃないかって思うよ」
「幸田さんに出会えていなかったら、きっと今生きてないですよ」
「それは大袈裟じゃないか」
「全然大袈裟じゃないです」
かき混ぜる。砂糖が溶けていく。甘くなる。私は、「どうして人って自分から死んじゃうんだろうって考えたことがあります。こういう仕事をしていると、どうしても」と口を開いた。
「自分なりに考えをまとめてみたんですけど、不安って即効性の毒で、孤独は遅効性の毒だなって感じるんです」
「……毒、か」
「人は不安で死にたくなるし、それを誰かと共有できないことで死ぬ。そんな風に最近思って」
石本さんは腕を組んで、「そうかもしれないな」とため息をつく。私はコーヒーを飲み、「私も死んじゃってたと思うんです」と続けた。
「あの時、幸田さんに会わないまま退院して、また同じように毎日過ごしていたら。たぶんどこかで、死んでおこうかなって思ったと思うんです」
「至が君に何をしてくれたって言うんだ」
「前に言ったでしょう。世界は広いって教えてくれた。それがあの時、一番私に必要だった。私の不安と孤独を、解毒してくれたんです」
深いため息をついて、石本さんは私を見た。私は石本さんを見返して、逆に「石本さんは幸田さんのこと、忘れたいですか?」と訊いてみる。石本さんは目を伏せながら首を横に振って、「結局あいつは永久欠番だよ。わかってるんだ、僕も。本当にいいやつだった」と呟いた。
「それに、幸田さんと出会わない方がよかったかなんて、答えは私にしか出せないはずですよ」
「おっしゃる通りです」
私の前に、何か透き通った青いゼリーが置かれた。さくらんぼがちょこんと乗っている。石本さんは、「負けました」と苦笑していた。
幸田至という人は、私の初恋だった。今となってはそれは人としての憧れだったかもしれないし、思春期の気の迷いだったのかもしれない。それでも私の初めての恋は、間違いなく彼だったのだ。
5
ジュンちゃんの母親から電話が入ったのは、もうすっかり冬となったある日の夜だった。ジュンちゃんが昨日から家に帰っていないのだという。まずは警察に届けるよう言ったが、母親は『そこまでじゃない。そっちに行ってないかと思って電話しただけ』とそれを渋った。担当のカウンセラーが、「お母さん、もしかしたら事故や事件に巻き込まれているかもしれませんから」と説得しているのを、私は見ていた。ジュンちゃんの担当は私だ。少し考えて、職場を後にした。
外に出て、ジュンちゃんのスマートフォンに電話をかける。しばらくコールして、ようやく繋がった。私はまずそのことに驚いて、「あっ」と声を出してしまう。
「ジュンちゃん?」
『何?』
「あ、よかった。ごめんね、いきなり」
『別に。何?』
「……今、何か困ってる?」
一瞬、ジュンちゃんは黙った。電話の向こうで喧騒が聞こえる。家電量販店のよく聞く音楽と、呼び込みの声。ようやくジュンちゃんは『何もないよ。友達んとこいるだけだから。電話かけてこないでよ、馴れ馴れしいんだけど』と言った。そして、電話は切れた。
途中電話口から聴こえた家電量販店の音楽。あの店舗はこの町では駅前にしかない。
一旦職場に戻ると、ジュンちゃんの母親を担当するカウンセラーがコートを着て外に出るところだった。「まずい。かなりパニックになってきた。ちょっと様子見に行って、必要なら交番まで付き添ってくる」と早口で言う。私も負けじと早口で「さっき娘さんと電話が繋がった。駅にいるかも。私はそっちに行くね」と話した。
通勤用の自転車に乗り、走っていく。もういないかもしれない、そもそもこの町じゃないかもしれない、と不安になりながらも走った。
駅につき、自転車を停める。この辺りには大きな店も小さな店もとにかく隙間なく並んでいる。私は居酒屋の呼び込みをしている男性に、ジュンちゃんの特徴を伝えたうえで情報提供を求めた。何度か繰り返したが、彼らは面倒そうに首を横に振るだけだった。
警察に任せた方がいいだろうか、と考える。最終的にはそうなるかもしれないが、出来る限りはやりたいとも思っていた。
「いましたよ、その子」
そう言ってくれたのは、この季節にかなり肌寒そうな恰好をした女性だった。「私ここでずっと客引きしてますけど、さっき歩いてましたよ。男が……二人かな? 一緒にいて。やっぱ未成年ですよね、この子。私も、うわぁ未成年だぁって思ってちょっと気になってたから。ほんとさっきです。五分経ってないんじゃないかな」とジュンちゃんが歩いて行った方向を教えてくれた。
私はその方向に走っていく。駅前の喧騒から段々と離れ、居酒屋ばかり並ぶ通りになっていた。どう考えても、高校生が来るようなところじゃない。
見つけた。
先ほどの女性が言った通りジュンちゃんは男二人と歩いていて、どこかふらついているのを支えられているようだった。私はちょっと立ち止まって、深呼吸をする。速足で近づいていき、ジュンちゃんの腕を掴んだ。
「あなた、未成年?」
ジュンちゃんが驚いた顔で私を見る。彼女が何か言う前に、少しキツい口調で「未成年じゃない? お酒飲んでる?」と尋ねた。泣きそうな顔で、ジュンちゃんはうつむく。それから私は、一緒に歩いていた男二人に「保護者の方ですか? ご兄弟?」と尋ねた。男たちは顔をしかめ、「いや」と口を開く。
「関係ないです。僕らもその子のこと、交番に連れて行こうと思ってただけなんで」
「そうですか。同性の方がいいと思いますので、私が連れて行きます」
「はあ。じゃあ、よろしくお願いします」
男たちが去って行くのを見て、私はジュンちゃんの腕を引いて歩いた。
6
コンビニで水を買って、ジュンちゃんに渡す。ジュンちゃんはそれを開けようともせず、「なんで?」と言った。私は「飲んだ方がいいよ。気持ち悪いんでしょ?」とペットボトルの蓋を開けてやる。
ジュンちゃんは黙って水を飲んだ。私はしばらくそれを見守って、静かに「電話、出てくれてありがとう」と言った。彼女はハッとした様子で、何か言い返そうとし、不意にペットボトルを抱きしめたままうずくまる。私はそんな彼女の背中をさすった。
「昨日はお母さんと喧嘩して、友達の家に行った。ライブで会った子。あんまり知らなかったけど、近くに住んでるって言ってたから。他に友達いないし」
「うん」
「そしたら、その子が『ちょうど今日バンドの人と会うからおいでよ』って言って。知らないバンドの人だったけど、その子がすごくいい人だって言うからついて行った。そしたらみんなお酒飲んでて、その子も『みんな普通に飲むよ。もう十六だもん』って言うから、飲んじゃった。お酒強いね、って言われて結構飲んじゃった。そしたらさっきの人たちが、カラオケ行こうよって言ってきて。あたし、さすがにやばいかもって思ったけど、言えなかった」
「うん」
「自分がこんなに弱いって思わなかった。こういう時、あたしなら絶対『行かない。無理』って言えると思ってた。なのに怖くて何も言えなかった」
「うん」
背中をさする。「こわかったね」と囁いた。
「でもそれは、弱いとか強いとかの話じゃないよ」
「スノハラさんはハッキリ言えるじゃん。強いよ」
「それも別に強いってわけじゃないよ」
「なんで」
「私ね、できることとできないことがあるってだけだと思うの」
ジュンちゃんはちょっとだけ顔を上げる。「どういうこと?」と訊いてきた。私は目を細めて「私、子供の頃からいじめられててね。声が出なくなったことがあるんだ」と話す。
「たぶん今でも、そのいじめてきた子とは話ができないなって思う。逃げ出しちゃうだろうなって。立ち向かおうなんて全然思わない」
「……そんなのしょうがないじゃん」
「それから、お父さんのことも苦手でね。今でも、怒られたら何にも言えなくなっちゃうだろうなって思うんだ。できることと、できないことがあるよ。絶対克服しなきゃいけないものでもないし、人生にはもっと大事なことがあるしね」
すんすんと鼻を鳴らしながら、ジュンちゃんは「なに?」と言葉を投げかけてきた。「大事なことって、何?」と。私は膝を抱えながら、「未来の自分を幸せにすること」と答える。
「未来の自分が困るようなことはしない。誰か大好きな人を幸せにするみたいに、未来の自分を幸せにする。それが一番大切だよ」
ガムいる? と私はそっとチェリーのガムを差し出してみた。ジュンちゃんはちょっと戸惑いながらそれを受け取り、何か考えている様子でじっと見た。
ジュンちゃんの母親は、ジュンちゃんを見るなり顔を赤くして唇をぎゅっと噛んだ。隣にいた担当のカウンセラーが「お母さん」と声をかける。
「一言だけにしましょう。ジュンちゃんもきっとすごく疲れているから、今日は一言だけお話しましょう」と肩を叩いていた。
ハッとした様子のジュンちゃんの母親が、何か迷いながらも口を開く。「あんた」という声が掠れていた。
「お腹減ってないの」
ジュンちゃんは反射的に「別に減ってない」と答え、しばらくして「……減ってる。かも。ちょっと」と言い直す。母親はじっとジュンちゃんを見て、「ご飯冷めちゃったから、あっためて食べなさい」とだけ言った。それから、担当のカウンセラーの顔を見る。カウンセラーは私に対し、「怪我とかはない?」とジュンちゃんのことを尋ねてきた。私はジュンちゃんに「気分はもう大丈夫?」と訊く。ジュンちゃんは俯きながら頷いた。
「大丈夫だって。お酒を飲んでしまったみたいだけど」
「そう……。交番にはさっき『見つかった』って連絡しといた。後で話を聞かれるかも」
「その時は私も付き添うよ。私もあの人たちの顔を見ているし」
ジュンちゃんは頷き、一言「ありがとう。……ございます」と言って家に帰っていく。私と同僚は顔を見合わせ、肩の力を抜いた。
「いつも、綱渡りだね。何が正しいかわからなくて」
「ほんとにね」
7
二ヶ月ほど経った頃、私とジュンちゃんは外で待ち合わせをしていた。私が彼女のことを小さなライブハウスに連れて行く約束をしたからだ。
ジュンちゃんはグレーのコートと暗い色のジーンズのパンツを履いており、それは少し大人びた顔の彼女によく似合っていた。私はといえば着古してくたっとしたトレーナーを着ていて、ロックンロールとはかなりかけ離れていた。
「こんにちは、ジュンちゃん」と私は声をかける。時間は十五時を回ったところだ。季節は冬の真ん中。あと一、二時間もすれば日が落ちてくるだろう。
ジュンちゃんは私に気付いてパッと顔を明るくし、「こんにちはスノハラさん」と口を開いた。
「ライブ始まるまであと一時間ぐらいあるけど、知り合いが出るから挨拶しに行こうか」
「スノハラさんの知り合い?」
「うん」
ふうん、とジュンちゃん呟く。
会場へ向かいながら、私はジュンちゃんと色々な話をした。彼女の母は本格的に医療機関への通院を始め、それに伴ってジュンちゃんがカウンセリングルームへ訪れることは著しく減っていたのだ。
「あれからしばらく、お母さんとは一日に一言しか話さないって決めたの。お互い、余計なこと言うって気づいたからね。そしたら結構……なんていうかな。何を言うかってすごい考えるようになって、だって一日に一言しか喋れないんだもん。前はお母さんと喋るのが本当に嫌だったけど、これはこれで不便だなって思った」
「確かに、一日に一言は不便だね」
「だから、『挨拶は別ね』って決めたの。『おはよう』とか『ただいま』とか、前からろくに言ってなかったけど、うっかり言っちゃうとその日それで終わりになっちゃうでしょ? だから挨拶は別に言ってもいいじゃん、カウントしなくて、って決めた。最近はもう普通に喋るよ。余計なこと言わないように気をつけながらね」
「いいね」
「……自分が何を言いたいか、ってすごく考えるようになったの。前までは、言いたくもないことで溢れてたなって」
どうやらジュンちゃんとその母親は、あの同僚のアドバイスで多少なりとも関係を改善させる糸口を掴んだらしかった。同僚は『何がいい影響を及ぼすかなんて、わからないよね。そもそも改善したいって気持ちが本人らにないと、何だって無駄だしさ』と言っていたが。
「あたしね、お母さんに言ったの。『未来の自分を大事にしなきゃいけないんだ』って」とジュンちゃんはどこか恥ずかしそうに話した。私は驚いて目を丸くしながらジュンちゃんを見る。
「あたし……ずっとお母さんにお酒やめてほしかった。それも、その時言った」
そう言ったジュンちゃんの顔は、どこか晴れやかだった。私も少し恥ずかしくなりながら、「そっか。ジュンちゃんは偉いな」と前を見る。
「スノハラさんはさ、声が出なくなるほど落ち込んで、どうやって乗り越えたの?」
「……そうだなぁ。乗り越えたって言うか、気が逸れたって感じかな。ちょうどその頃、好きな人が出来てね」
「マジ?」
「その人とまた会った時、自分の声で気持ちを伝えたいなって思ったから、頑張った。それでも声が出るようになったのは最近なんだけど」
「その人と喋れた?」
「ううん。その人は……旅行が好きで、なかなか会えないの。もうずっとかな。行き先もわからないし」
「そっか」
ジュンちゃんは可笑しそうに笑って「会えるといいね」と言った。「たとえばスノハラさんが旅行した時、たまたまその人とばったり会っちゃうとか、そんなことがあったら面白いね」と。私は目を細めて、「それって最高だ」と頷く。
会場につくと、待っていてくれたらしい果さんが駆け寄ってきてくれた。「やっほ、久しぶりだね優那ちゃん」と私の頭をくしゃくしゃに撫でる。
「その子が、この前話してた子?」
「うん。ジュンちゃん」
「そっか。こんにちは、ジュンちゃん。私は幸田果。趣味でバンド組んで、時々ちっちゃい会場でライブしてんの。メンバーはみんなおばさんだけどね」
「こ、こんにちは……」
バンドメンバーの人たちも、後ろで挨拶をしてくれた。そういえば、とジュンちゃんは私を見て「この前話してた人?」と尋ねてくる。私が頷くと、果さんが「何? なんて言って私のこと話したの?」と顔を近づけてきた。
「ギター弾くんだよ、って言っただけだよ」
「そう? じゃあ今日もギター頑張らなきゃね」
果さんは照れくさそうに「ギター始めたのも大人になってからだからさぁ、あんまり自信ないんだよね」と話す。ふとジュンちゃんが、「どうしてギター始めたんですか?」と尋ねた。きょとんとした果さんが、すぐに懐かしそうな顔になって「兄貴がね」と言う。
「うちの兄貴が、『ギター始めるから買っとけ』って言ったから買ったのに全然やんなくてさ。勿体ないから私が弾いてみたら、これが結構楽しくて。で、バンドまで組んじゃったのさぁ」
そう、あっけらかんと話した。「私の方が上手くなっちゃったよ」と。私はそれを聞いて、少しだけ肩に力が入る。果さんは「まあそれはそれとして」と話を変えようとした。
「ジュンちゃん、音楽が好きなんだよね? 何が好きなの?」
虚を突かれたような顔のジュンちゃんが、アーティストの名前を口にする。それからそのアーティストの新曲の名前を。果さんは「おっ」と嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、歌う?」
「えっ……」
果さんは後ろのメンバーに「いいよね?」と声をかける。メンバーは「いいんじゃない?」「カラオケ大会みたいなもんだしね」と同意を示した。ジュンちゃんは慌てて、「そんな。急に無理」と断ろうとする。
「そんな身構えなくても、あっちのおばさんが言ってた通りカラオケ大会みたいなもんだよ。会場も小さいし、来るのも身内ばっかりだしね」
「でも……」
「生演奏は気持ちいいぞぉ」
ジュンちゃんはちらりと私を見た。私は頷いて、「どうしたい?」と尋ねてみる。ジュンちゃんは私の腕を掴んで、「スノハラさんが出るなら出る」と宣言した。私はさすがに「えっ」と目を丸くする。「最高じゃーん」と果さんがげらげら笑った。
「ちょっ……私が歌苦手なの知ってますよね、果さん!」
「別に下手じゃないじゃん。それにこの歌に優那ちゃんの声は合ってると思ってたんだ」
私の腕を掴んだまま、ジュンちゃんは顔の前で手を合わせる。それから片目をつむって私を見た。私は「うーん」と唸って渋々承諾する。恐らく彼女の背中を押す程度の役割で、ステージの端にでもいればいいのだろう。
「じゃあ最後の曲でね。最初は観客席にいてもいいけど、四曲目ぐらいでステージの裏にスタンバイして」
「練習は?」
「大丈夫だって。その時の空気に応じてちゃんとフォローするから」
「ほんとかなぁ……」
「心配性だね、優那ちゃん。そもそも素人のライブなんだからさ、気楽にやろうよ」
ライブが始まると、ジュンちゃんはとても楽しんでいるようだった。そんなジュンちゃんよりも私の方が緊張していることは、火を見るよりも明らかだった。
四曲目が始まるころに、私たちは舞台の裏に移動する。果さんの旦那さんがスタッフとして参加しているらしく、私たちを見て笑った。「また面白いことしてるね」と声をかけてくる。私は黙ってぶんぶんと首を横に振った。
それから旦那さんが私たちの背中を押す。「頑張ってきてね」と言われるがままにステージに立った。照明が眩しい。誰かが私の手を引いた。こっちだよ、と前に出される。
「今日はゲストが来ています! 私の友達と、友達の友達。はい拍手!」
わあ、と人の声が聞こえた。「いいぞー頑張れー」という、どこかで聞き覚えのある声まで耳に届く。
マイクを向けられたので、「優那です」と自己紹介をした。隣のジュンちゃんも「ジュンです」と言っている。どう見ても、ジュンちゃんの方が堂々としている。
果さんが曲名を叫んだ。ドラムが鳴る。私はちょっとパニックになった。そういえばこの曲の歌詞をよく知らない。サビしか歌えない。
ふと、力強い歌声が聞こえてきた。隣のジュンちゃんからだ。観客席が盛り上がる。彼女の声はとても素敵だった。
私は肩の力を抜いて、彼女が歌う姿を誰より近くで見ていた。そうしてサビだけを合わせる。
たとえば私たちは、信じる神がいなくても祈る。文字を書いたり写真を撮ったり楽器を鳴らしたり声を乗せたりして祈る。そしてそれがどこへ行くのかと言えば、せいぜい未来の自分くらいには、出来れば同じように悩みながらそれでも祈る手段を見つけられていないような人らに、届けばいいなと思ったりする。だから色んなものを遺していこうと思うのだ。こんな私でも。
8
ライブが終わり、私とジュンちゃんは外に出ていた。彼女は「巻き込んでごめん」と両手を合わせて私を拝んでいる。私は肩をすくめ、「ほんとだよ」と言った。
「まあでも今回は、どっちかっていうと果さんに乗せられたかなぁ」とため息をつく。果さんは最後まで本当に楽しそうだった。
「楽しかった?」と私は尋ねる。ジュンちゃんは照れくさそうにして、「うん」と答えた。
私は彼女を家まで送っていくことにする。それほど遠くはない。疲れたのか、ジュンちゃんはあまり喋らなかった。
今後、彼女のカウンセリングの予約は入っていない。恐らく会うことはあまりないだろう。それはいいことだとも言える。カウンセラーに依存するようになってはいけない。
車を停め、私は後部座席のジュンちゃんに声をかける。ジュンちゃんは眠っていたのか、「うん……はい……ありがとう……」と曖昧な返事をした。
ドアを開けてあげて、「大丈夫?」と声をかける。
「うん……。今日、ありがとうございました。……今日だけじゃなくて、ずっと」
「何にもしてないよ」
ジュンちゃんは車を降りて、自分の家を見た。「会いに行っていい?」と私に尋ねる。私は頷いて「もちろん」と答えた。
彼女は帰っていく。ふと振り返って、私を見た。
「あたし、幸せにできるかな。未来の自分のこと」
できるよ、と私は答える。
彼女の人生はまだまだこれからだ。私たちのカウンセリングルームへ通っていた経験が彼女の今後の人生にどれだけの影響を与えるのか、それはわからない。もっと言えば、それが良い影響か悪い影響かも簡単には言えない。それで私たちにどれほど責任を取れるかと言うと、実のところ今後の彼女の人生がどうなるかを知る術すらない。
だけれど私たちは必ずそう言う。『あなたは幸せになれるのだ』と。
私は右手を突き出し、親指を立てた。
「グットラック。あなたの旅路に幸運を」
私たちの仕事の中で、今のところジュンちゃんたち母娘はたまたま上手くいきそうな一例と言えるだろう。私たちは今までたくさんの失敗をし、これからもするかもしれない。どんなに手を尽くそうとも私たちには手に負えないことだってある。
それでもあなたが幸せになってくれたら、いつか『幸せだ』と一言いいに来てくれる日が来たら、私たちはどれほど救われるだろうか。これも祈りになるだろう。どうかあなたの旅路が幸福なものでありますように。
くすくすと笑ったジュンちゃんが「またね」と大きく手を振る。私も手を振った。彼女は私が車を出すまで手を振っていてくれた。
9
私は久方ぶりに病院を訪れていた。十年ほど前、入院をしていた病院だ。看護師さんに聞くと、屋上は数年前に完全に封鎖されてしまったらしい。
私が残念そうにしていると、看護師さんが「ああ、でも」と私を病院の奥の方の廊下へ案内してくれた。
「昔、写真好きの患者さんがいてね。屋上からの写真、撮ってたんだって。ご家族が持って来てくれて。よく撮れてるからここに飾ってるの」
青い空と、小さな街並み。私はそれをそっと指でなぞった。
通りがかりのお医者さんらしき男性が、「持って帰る?」と声をかけてくれる。私は首を横に振って、「いえ。ここに飾っておいてください」と答えた。
病院を出ると、雪が降っていた。近頃の雪は春の直前に舞う。
うっすらと雪の積もった橋を歩いた。川の流れがいつもより緩やかに見える。息を吐くと、白くなって消えた。悪くない風景だった。
不意に立ち止まり、考える。
どんな風にまた彼と再会しよう、と。
ジュンちゃんの言うとおり、どこかでたまたまばったり会えたら素敵だな。
彼はきっと、煙草の代わりにチェリーのガムを噛んでいる。これは私が『タバコはよくない』と彼に言ったのだから間違いない。これだけ幸田さんに変えられた私がいるのだから、幸田さんだって私の言葉で一つぐらい変わっていてくれないとずるい。だから彼は、チェリーのガムを噛みながら笑っている。間違いない。
目を閉じて、天を仰いだ。当たり前のように、何も見えない。泣かないように目を閉じたし、上を向いた。
私はあれから幾分か大人になって、だから、彼には二度と会えないのだということをわかっている。
それでも私はこの大きな世界の片隅で、次にあなたと会えた時には、と考える。
目を開けて、空を見た。まだ、ちらちらと雪が降っている。春には桜が咲くだろう。夏にはここで祭りをやるだろう。秋は木の葉の色が変わって。ちょっと足を伸ばせば、まだ見たことのない世界が広がっている。
息を吸う。冷たい空気が肺に広がった。口を開いた。「キスして」と喉が震える。「あなたに恋をしていました」「今でもこれは恋だと思うのです」と呟いてみた。
私は元気です。それで、この世界は時々空気が薄いけれどやっぱり嫌いにはなれないです。
ねえ、あなたは病気だったんでしょう。それで、もう戻ってはこないんでしょう。
それでも。ねえ、それでも。
私の世界を変えてくれたのはあなた。これからもきっと、私が変わっていく理由はあなた。
本当に、見せてあげたい。
今日の私の世界は、こんなにも綺麗ですよ、幸田さん。
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