永久欠番

【石本孝】


 山の麓のだだっ広いだけのド田舎に幸田一家が引っ越してきたのは、確か僕らが小学二年生になる春のことだったと思う。幸田至は僕のクラスの転校生だった。


 当時の僕は『いしもと』という豆腐屋の倅で、声のデカい親父がいるというだけで近所の悪ガキどもから一目置かれていた。僕自身は強くもなく、体格も並で勉強も出来ず足もそれほど速くなかったが、それだけで何となくガキ大将気取りだったりした。


 幸田至という転校生は、その頃から大変に人当たりがよく、また都会の方から越してきたということで何をするにもスマートに見えた。体が弱いためよく体育の授業を見学しており、それは男子小学生からすると拭いきれないウィークポイントであったが、それを差し引いても人気があった。ガキ大将気取りの僕が面白く思わなかったのは言うまでもない。

 かといって突っかかったり悪し様に言ったりするわけでもなく、ただ一度もドッヂボールに誘わなかった程度の、『まあこっちは全然あんなやつに興味ありませんけど』という態度を八歳の僕は取った。そして八歳の僕はあまり頭が良くなかったため、都会からやって来た転校生に本当は興味津々であることは周囲から見れば明らかだったと思う。

 一度、至の方から話しかけてきたことがある。「石本くんち、豆腐屋なの?」と聞いてきたのだ。僕は「違うけど」と言った。それで会話は終了した。なぜそんな嘘をついたのか、我ながらというか、今でも全くわからない。


 それから数ヶ月、僕と至には会話らしい会話はなかった。急速にクラスに馴染んでいく至を横目で見ながら僕は、あの日会話を拒絶してしまったことを自分なりに後悔してはいて、もう一度あいつから話しかけてきたら聞いてやってもいいな、なんて思っていた。


 その機会が訪れたのは夏のことだった。

 夏の僕らといえば全員すべからく暇を持て余しており、ゲームをするか漫画を読むか川に飛び込むかぐらいしか選択肢がなかった。ゲームも漫画も手に入る分はすり切れるほど消費し終えて、実質川に飛び込むしか選択肢はなかった。

 川で遊ぶのが楽しいのかという哲学の話をするが、子どもはたぶん動いているものなら大抵面白くて好きだ。川はいつも流れている。動いている。面白い。ついでに冷たいし、水中で体が浮く。面白い。

 と、そんな調子で僕らは夏中川遊びをした。


 いつものように細いつり橋の上で仲間たちと待ち合わせたところ、いかにも図書館で勉強をしてきましたという風体の至が現れた。至は朗らかに「おはよう」と声をかけてきたが、僕たちはいそいそとまるで『お前のことを無視したいわけじゃないが僕たちは今忙しいので』というように次々と川へ飛び込んだ。それから川面に顔を出した仲間たちが、ひそひそ「おぼっちゃんと喋ってやってる暇ないよな」「あいつ、泳げないに決まってるし」と言い出す。僕はそれを聞いて、何となくムッとした。

 僕はその時、数人の仲がいい友人たちの間ではリーダーのような立ち位置ではあった。仲間たちは僕の機嫌を伺っており、どうやら僕が幸田至という転校生のことを面白く思っていないということを察していた。そのために彼らは時折、わざとらしいくらいに僕の目の前で至の悪口を言った。それを聞くたび僕は、『ちげえんだよなぁ、そういうことじゃねえんだよ』と思ったものだった。しかし僕自身にも何が違うのかと言語化することは難しく、いつもそれを黙って聞くに止まっていた。


 挨拶ぐらいなぜ返してやらなかったのかと僕は内心自分に腹立たしく思いながら、尚も忙しいふりをして川に潜るなどした。それからまた人が水に飛び込む音がして、僕は誰が飛び込んできたんだろうと顔を出した。周りにいた仲間たちが呆気に取られている。


 かの転校生が、服を着たまま川に沈んでいた。


 一瞬で多くのことを考えた。そもそも橋から川に飛び込むという行為はその当時から禁止されていた。だからといってそれを咎める大人はいなかったが、事故が起これば状況は一変するだろう。

それから幸田至という同級生が死んでしまったら僕はどう思うだろうと考えたりもした。せいせいするだろうかと考えた。答えは出なかったが、僕はほとんど泣きそうになりながら至に近づいていた。できれば数分前まで戻って挨拶からやり直したかった。

 不意に起きあがった至が、犬のように頭を振って水を飛ばす。それから至は平然と「綺麗だね、この川」と言ってのけた。至が溺れているものと思いこんでいた僕は驚きのあまり固まって、涙目のまま「このバカっ、危ないだろ。あの橋は飛び込み禁止なんだよ」と怒鳴った。自分たちのことを完璧に棚に上げた。それはそれは綺麗に棚に上げた。


 至はなぜかへらへら笑っている。夏の日差しみたいな笑顔だった。

 石本くんちってさ、と口を開く。

「やっぱり、豆腐屋じゃない?」

 僕は頭が真っ白になり、どうして今その話なんだと言うより先に「豆腐屋じゃねえよ」と口が勝手に動いていた。ふと、一緒に遊んでいた金沢野乃という子が、驚いた様子で「お豆腐屋さんじゃなかったの?」と口を挟んできた。野乃は生まれたときから隣の家に住んでいたのである。僕はもう顔を真っ赤にしながら、「豆腐屋だよ。悪いかよ」と怒鳴った。




 川に飛び込んだ次の日、幸田至は熱を出して数日学校を休んだ。まだ気温の上がり切らない初夏の日に、服のまま川に入ってそのまま帰ったのだから当然である。至は元々体が強くないのだから尚更だ。僕は呆れ果てたが、何だか意地を張っているのも馬鹿らしくなってその後は至と普通に話をするようになった。


 幸田家はこのド田舎でいえばかなり近代的な家でかっこよかったので、よく遊びにも行った。幸田家の父とは会ったことがなかったが、専業主婦だったらしい至の母はいつも僕らのことを優しく迎えてくれた。いつ行ってもジュースと菓子が出てくる家だ。僕らはもっと早くに至と仲良くなっておけばよかったと後悔した。

 それから至には妹がおり、その当時まだ赤ん坊だったが、これがまた愛らしかった。よその家の子に大変失礼ながら、僕らは果というその子を犬や猫のように可愛がっていた。

 ある時至は嬉しそうに果ちゃんを抱き上げながら言った。『果は強いんだ。病気をしたことがない』と。僕は、ふうんと聞き流した。体が強いだけで褒められるんなら僕もクラス一だけどなと思ったが言わなかった。今になって考えれば、至は本当にただそれだけのことが嬉しかったのだろうと思う。果ちゃんは本当に健康体そのもので、成長しても風邪一つ引かない女の子だった。至とは大違いだった。


 そんな至もこのド田舎の環境が合っていたのか、体調を崩すことも少なくなっていった。周囲の子どもたちと同じように体育の授業など受けられるようになっていき、僕たち子どもの間ではすでに〝余所者〟というレッテルは外されて久しかった。

 対して僕は少しずつではあるが、自分が強くもなく体格も並で勉強も出来ず足もそれほど速くないただの子どもであることに気付きつつあった。誇れるところなどそれこそ体が丈夫なことと、父親譲りの声の大きさくらいだった。豆腐屋の親父を恐れていた同級生も大人の顔色を伺う時期を過ぎ、同時に何も秀でたところのない僕がリーダー顔をしていることに不満を覚えて離れていった。残ったのは、物心ついたときから当たり前のように傍にいる野乃と、おおらかで周囲のしがらみに縛られない至だけだった。


 そんな状況に置かれても僕は、今まで担ぎ上げられていた分のプライドを捨てられないでいた。少し早めの思春期、今でいう〝中二病〟というやつか、『自分は他の奴らとは違う』という根拠も何もない自意識から積極的に一人になろうとさえ、した。


 ある時豆腐屋に客として来た幸田家の母が、僕を見つけて「孝くん」と呼んだ。「最近はうちに来ないのねえ、孝くん」とにっこり笑って言ったのだ。

「至、寂しがってるわよ」

「え?」

 僕は驚いた。確かに僕はその頃あまり至と絡んではいなかったけれど、なんせその頃には至はクラスでも人気上位で、遊ぶ友達に困っているところを見たことがなかった。有体に言ってあいつは、僕なんかいなくても全然平気なやつだった。

 それでも至の母は言ったのだ。

「あの子の一番のお友達だもの、孝くん」と。


 もう少し大人になれば、馬鹿でもわかる。彼女は急激に孤立していく僕を心配してそのようなことを言ったのだ。まさか至がそのようなことを母親に言っていたとは考えがたい。

 しかしそれでも僕の、その時の僕の自尊心は、たった一言で満たされてしまった。『まったくしょうがねえなぁ、一番の友達だからなぁ』と調子に乗って、少なくとも自分から孤立しようなどとは考えないようになった。馬鹿そのものであるが、我ながら当時の僕が調子のいい馬鹿で助かった。


 小学校卒業ごろから至の背はぐんぐん伸び始め、一時は見上げるほどになった。僕が腹立ちまぎれに「背ばっかりでかくなっても何の役にも立たねえよ」と言うと、至は体を鍛え始めた。しょっちゅう寝込んでいた、あの至がである。焦った僕も競うように体を鍛えたが、母親から『成長期の前に筋肉をつけると背が伸びないよ』などと言われて苦悩した。

 至の成長を何とか止めてやりたくて、僕はあいつの背が伸び続けていることと中学に入って体を鍛え始めたことをよく揶揄った。

 一度恥をしのんで、なぜそれほど背が伸びるのか聞いたことがある。あいつはとぼけた顔をして、『妹がいるから』などと言いやがり、僕はすぐあいつの脛を蹴った。

 しかしその後で遊び疲れて眠ってしまった果ちゃんを背に負ぶって歩く至を目撃し、『ああ本当にあいつは、妹がいるからデカくなったんだな』と妙に納得したことを覚えている。


 そんな僕も中学二年くらいには順当に身長が伸びて、ほとんど至と並ぶくらいになった。では僕は何を守っていこうかと考え、一大決心をして僕は至に『野乃に告白をする』と宣言した。




「…………付き合ってなかったのか」


 学校の帰り道、肉屋でメンチカツを買った僕たちはそれを食いながら歩いていた。至は呆れた顔でカツを食べ終え、僕の一世一代の覚悟をそう笑い飛ばした。


「茶化すなよ。僕はもう緊張しすぎて小便漏れそうなんだ」

「そんなに」

 いつ? と聞かれたので「明日にでも」と僕は答える。至は「ふうん」だとか「へえ」だとか気のない相槌を打った。

「いたるくん、そんなにですね、そんな……そんなに興味のなさそうな顔をしなくてもいいんですよ」

「ああ……まあ、その、頑張ってくれ」

 幸田至といえば、いつもにこにこと笑っていて優しく気配りのできる男だと周囲からはそう思われていたが、僕から見ればこいつは大変にドライな人間だった。いつからか、僕相手にそれを取り繕わなくなった。

 ふうん、とまた至は呟いた。「ついに孝も、女の子と一緒に帰り道歩いたり、休みの日に原宿でプリクラ撮ったりするわけだ」と可笑しそうに話す。僕はなぜかひどくショックを受けて、「休みの日に原宿でプリクラ撮らなきゃダメかな……」と怯えたような顔をしてしまった。思わずというように至が吹き出して、「原宿にビビってんのかプリクラにビビってんのか知らないけどウケる」と指さして笑う。どちらにも、に決まっていた。

「やりたくなきゃやらなきゃいいだろ。ノノちゃんもそういうタイプじゃないんだから」

「野乃が『原宿でクレープ食べながらプリクラ撮りたい』って言ったら僕は行くけど……」

「献身的だなぁ」

 野乃が言うんならな、と僕は念押ししておく。万一こいつが誘ってきて男二人で原宿に行くことになったら困るからだ。


 長閑すぎる田圃のあぜ道を歩きながら、僕は財布を覗く。「原宿っていくらで行けんのかな」と言ったらやっぱり至は笑って、「たぶん孝の財布の中身じゃ、行っても帰ってこれないだろうな」と馬鹿にした。蛙の鳴き声が聞こえるような夕方だ。

 朝は自転車を飛ばして学校へ向かい、帰りはこうして至と並んで自転車を押しながら歩くのが僕の日課だった。そうか野乃と付き合ったらこうして至と帰れなくなるかもしれないな、と少しだけ思った。


「人を好きになるってどういう感じかな」と不意に至は聞いてきた。至は小学生の頃――――都会からの転校生であったあの頃からそれなりに女の子にモテてきたが、そういえば至自身に気になる女子がいるかどうか僕は知らなかった。この男は子どもの頃からひどく優れたバランス感覚を持ち合わせており、特定の誰かと囃し立てられたりしたこともなかった。

「お前、好きな子いないの」と僕は至に聞いてみる。至は胡乱な目を僕に向けて、「質問に質問で返すなよ。俺が言ったこと、聞いてた?」と肘で小突いてきた。僕は腕を組んで「ふむ」と難しい顔をしてみせる。


「わかんねえけど、野乃が他の男と付き合ったら吐くね僕は」

「さっきから汚い話しかしてないな」

「バカお前、さっきから美しい話しかしてないっての。なんてったって恋の話だぞ?」

「少女漫画みたいなことを言う」


 ふっと俯いて考えるような顔をした至が、「俺も果に彼氏が出来たら吐くけど」と言い出した。僕は顔をしかめ、「聞きたくねーんだよ、お前のシスコンエピソードなんて!」と吐き捨てる。

「ちげーんだよ、恋ってのはさ、恋ってのは……」

 頭を抱えながら、僕は耳の辺りが熱くなっていくのを感じた。

「チューしてえんだよ、僕は。野乃とチューがしてえの」

 驚いた顔の至が、「下心じゃないか」と僕を指さす。もう僕はほとんど自棄になって、「下心だよ。悪いかよ」と開き直った。

 前を向いた至が、またも「ふうん」と呟いた。大体この頃から至の口癖は『ふうん』だとか『なるほどね』だったりした。大概こいつも人の話を聞いていないのだ。




 野乃に告白したのは次の日の昼だった。週に何度かは僕の分まで弁当を持ってきてくれる野乃と昼食をともにしながら、僕は意を決して言った。

『ずっと好きだった。よかったら付き合ってくれ』と。野乃は呆気にとられた顔で口を半開きにし、『何? もう一度言って』と返した。僕は、もうダメかもしれないと思いながらもう一度『好きだ。付き合ってくれ』と言った。

 次の瞬間、野乃は僕の腹をグーで殴って『じゃあ今までの私は何だったのよ。何のためにお弁当作って持ってきてたのよ』と怒った。〝おかず作りすぎちゃったから、たかちゃん食べてよ〟という言葉を真に受け続けていた僕は、大変に恐れおののいた。いつもはおっとりとした僕の幼馴染は、怒るべき時に怒ることのできる女の子だった。


 そんな話を至に報告すると、あいつはゲラゲラ笑った。腹を抱え、号泣するほど笑った。傍らで僕が引くほど笑っていた。

「面白すぎる。なんでそんなすれ違いが起きてたんだ?」

「…………。ガキの頃、四歳ぐらいかな。僕が野乃を『お嫁さんにする』と言ったことがあるらしい。野乃はそれからずっと〝彼女〟だったんだ」

「だから言ったろ。『付き合ってなかったのか』って。付き合ってたんじゃないか」

「僕はあんなに可愛い彼女がいるのに十年も気づいていなかったのか。損した気分だ」

「孝のそういうところ、尊敬するよ」

「そうだろ?」


 野乃の機嫌はしばらく直らなかったが、至がこそこそと『孝のやつはノノちゃんに下心を持って告ったらしい』と告げ口し、なぜかそれからはすっかりご機嫌になった。まったく、女心は山の空よりわからん。


 それ以降僕は学校の休み時間も野乃と過ごし、下校後も野乃と歩き、時々は至と遊んだ。そうして中学を卒業し、僕らはみんな同じ高校へ行くことになった。そもそもこのド田舎から通える高校となれば、ほとんど選択肢はないようなものだった。




 高校に入学する頃僕は洋楽に傾倒し、とりわけロックばかり聴いていた。至にも、『洋楽歌えたらモテる』と不器用な勧誘をした覚えがある。あいつは当時もそれなりにモテていたはずだが、妙にやる気になっていた。僕は『まさかこいつ、自分がモテていることに気付かずにここまで来たのか?』と訝しんだ。


 高校に入って初めてのクラス会で、至はマイケルジャクソンを歌った。僕はびっくりし、『こいつ、僕が貸したカセット全然聴いてねえな』と思った。腹が立ったので隣に座っていたクラスメイトに「洋楽はないよね、狙いすぎだよね」と言っておいた。まあ、これについてはその後で少し反省した。やつは僕が貸したカセットもあらかた聴いたうえでマイケルジャクソンを選んだらしいのだ。いや何だよそれ、余計ムカつくわ。


 その出来事から至は〝マイケル〟と呼ばれるようになり、またもやクラスの人気者であった。クラス会でマイケルジャクソンを歌ったにもかかわらず、である。いやマイケルは悪くない。何も悪くないが、僕だけは意地でも至を至と呼び続けた。至は不思議そうに「お前が焚きつけたんだろ」と言ったが、こいつは何もわかっていない。僕は焚きつけたかったわけじゃないのだ、ただ同じ趣味を共有したかっただけなのに。

 誰とでも仲のいい至に対し、僕はそれらしい友人が至以外にいなかった。中学の頃からの彼女がいるというのは、まあ男子高校生の中でも一目置かれる。逆に言えば、ちょっと浮く。それはそれで悪くなかったが、至がどんどん離れてゆくようで寂しかった。あいつは人間関係において優先順位をつけないタイプで、いくら小学校から一緒といっても僕らを特別視して遊んだりはしなかった。


 僕は弱小の野球部に入り、至はこれまた弱小の陸上部に入った。野球部はまだ部活動ができるレベルだったが、陸上部など部員四名でほとんど活動していなかったと言える。それでもそれぞれ部活の先輩とつるむようになり、それなりに楽しい思いをして、僕らは少しずつ顔を合わせることも少なくなっていった。二年生に上がると同時に成績と学習態度でクラスが分かれて、尚更に接点はなくなった。


 幸田家の両親が死んだのは、僕らが三年生になった年の初夏だった。




 その報せを受けたとき、僕は真っ先に幸田家の母のことを思い出した。子どもの僕に向ける視線と、優しい声と、当時の僕を救った言葉を。人って死ぬんだ、と僕は呆然としながら思った。ゆっくり死んでいくんじゃなくて、突然、いきなり、何の前触れもなく死ぬんだ、と。

 葬式に参列し、僕は久しぶりに至のことをまじまじと見た。葬式を執り行ったのは遠い親戚らしいが、至も挨拶などをさせられていた。僕はすぐに話しかけたかったが、タイミングを逃し続けていた。あるいは、そのような状況に置かれた級友に話しかける勇気など僕は持ち合わせていなかったのかもしれない。


 火葬場で妹の手を握りながら、立ちのぼる白い煙を見つめた至の顔を、僕は今でも覚えている。




 高校生なんてみんな不器用なもんで、次の日から誰もが至にどう接すればいいのかわからなくなり、あいつは校内で静かに浮いた。至は至で何も言わずにどこか周囲を拒絶しているようにも見え、教師ですら扱いあぐねているようだった。


 何だか無性に腹立たしかった。僕は至の教室まで行ってほとんど怒ったように、「昼飯食おうぜ」と声をかけた。至は驚いたように微かに顔色を変えて、「クラス違うじゃん」と言った。僕はイライラしながら「だから?」と聞いた。

 あいつはふわりと笑いながら「お前って、よく怒るよなあ」なんて目を細めた。


 至の机を囲む形で僕と野乃は弁当を開く。至はといえば購買で手に入れた菓子パンを別に美味くもなさそうに口に運んでいた。僕たちに会話はなく、教室からは波が引くように人が消え、数人しか残っていない。

 ぽつりと、至が言った。「気を使ってるなら、別に大丈夫だよ」と。

『大丈夫ではないだろ』とか、『気を使ってるのはお前だろ』とか、『これはそういうんじゃねえんだよ』とか、僕の脳内には一瞬で色んな言葉が飛び交った。それを何とか論理的にまとめようと口を開いて、「あのな、僕がどこで昼飯食おうとお前には関係ないだろ」とまず吐き捨ててしまった。それから少し慌てて、「僕はただ、ただ、お前と……お前が……」と続けようとする。

 自分の目から信じられないほど熱い液体がこぼれて、僕は手が滑って何か落としたみたいに驚いてそれをキャッチした。自分が泣いているのだとようやく気付き、その恥ずかしさに耳まで熱くなる。

「え、泣いてる?」と至がきょとんと僕を見た。それから少し焦ったように「なんで泣いてるの? 本当になんで泣いてるの?」と追い打ちをかけてくる。久しぶりに人間らしい感情を至が見せたことに僕は少し安心しながらも、羞恥でパニックになり思わず立ち上がってしまった。「うるせえよ、バーカ!」と怒鳴って教室を出る。


 順当に僕も校内で浮くことになった。


 あの昼休憩で僕が立ち去った後、どうやら野乃が幸田家で料理をする話になったらしい。帰り道で僕は散々野乃から「下手くそ」と罵られることになった。返す言葉もなく、どうにかミスを取り返そうと、野乃について幸田家を訪問することにした。僕も家事手伝いでガキの頃から料理はできる。


 家に上がらせてもらい、僕は果ちゃんに挨拶をした。果ちゃんは本当に小さいころから活発な女の子だったが、その時は何というか、ひどく不安そうだった。確か当時の果ちゃんは十一歳か十二歳ぐらいだったか、両親が死んでからというものすっかり幼児退行してしまい、お気に入りのぬいぐるみや毛布がないと癇癪を起こすようになったのだという。何とか学校には行っているが、常にぬいぐるみを握りしめるようになった級友を小学校のクラスメイトたちが放っておくわけもなく、やはり周囲と上手く行っていないようだった。


 それにしても家の中はひどい有様だった。前々から思っていたが、幸田至には生活力というものがない。料理もできなければ、掃除もできない。何とか洗濯だけはしていたが、それもほとんど脱水せずに物干し竿に吊るすせいで乾いちゃいなかった。

 僕は少し呆れて、「親戚と住むとかそういう話にならなかったのかよ」と聞いてみる。至は肩をすくめて、「俺もそう思ったけど、果がこの世の果てより嫌がった」と答えた。

「……嫌な親戚なのか?」

「嫌な、というか、まあ。財産狙いかなとは俺も思うけど。それでも俺はいいかと思ったんだ。肩身も狭いし信用もできないけど、少なくとも暮らしてはいけるからさ」

「それは僕も気に入らない」

「いや孝には聞いてないけど」

 沈黙が訪れる。何か言いたかったけれど下手に口を開けば『大変だな』なんて口を滑らせてしまうような気がして、何だかそれは言わない方がいいような気がして、僕はただ口を閉じていた。

 やがて至が口を開いて、「なんで泣いたんだよ、お前。教室でさ」と話をぶり返してきやがった。僕は『こいつ……!』と思いながらもなるべく正直に答えようとして、そのためには自分の気持ちというのをしっかり見極めなければならなかったので、少し考えこんだ。考えて考えて、「わかんねえよ」と降参する。

「まず前提としてさ、」

「うん」

「僕は、お前のことが好きなんだけど」

「は?」

 至が思わず僕から距離を取って、信じられないものを見るような目をした。僕は慌てて、「いやそういう意味じゃねえよ」と声を上げる。台所に立っていたはずの野乃まで顔を出して、「どういうこと⁉」と叫ぶので、僕はまた「そういう意味じゃねえよ!」と怒鳴った。


「友達としてってこと⁉」

「と、友達としてもそうだよ。僕は、人間として……幸田至のことが好きなんだよ」

「人間として?」

「たとえば、『一種類の人間しか作れませんよ』ってことになったら」

「いきなりわけわかんない設定の世界を作るな」

「『じゃあ、至と野乃の二パターンでお願いします』って頼むよ」

「一種類じゃないじゃん」

「果も入れろ」


 僕が言いたいのは、ともう自棄になりながら言う。「この世界に何とか絶対残したいぐらい、僕は至と野乃が好きなんだよ」と。

「だから、僕は……『なんでお前の家なんだよ』と思って……。無性に腹が立って、何とかしてやりたいのに、こんなに何もできないもんかよって、なんかすげえ悔しかったんだ」

 目を丸くした至が、やがて小気味よく吹き出して笑った。

「何勝手に、お前が悔しがってるんだよ」

 腹を抱えて笑った至が、やがて目元を拭いながら「お前ほんとやだ。ついて行けないんだよ、お前のテンション」とわざとらしくため息をついた。一発殴ってやろうかと構えた僕を、野乃が「弱いんだからやめなよ」と宥める。傷ついた。


 お腹いっぱい飯を食った果ちゃんがよく眠っている。

 帰り際に至が、「世界に二パターンじゃダメだろ。俺とノノちゃんとお前がいるんだから、三パターンだろ。まったく孝は算数もできないんだから」と笑った。

「しかも果ちゃんがいるから四パターンだし」と野乃もくすくす笑う。

 僕は少しためらいながらも、「至んちの親父さんとお袋さんもいてほしいから、六パターンだ」とぼそぼそ言ってみた。至は目を見開いて、少し痛そうな顔をして、だけど不思議と何か噛みしめるようにも笑って、「そうだな。孝の家族とノノちゃんの家族も合わせると……何パターンだろう」と呟く。僕は「あー」と伸びをしながら何となく空を見た。

「めんどくせえな。何だかんだ人間って、みんな必要なんだな」

 そうだよ、と野乃が真面目な顔で言う。「お勉強になりましたねえ、たかちゃん」なんて言うので、僕は「え? 馬鹿にされてる?」と聞き返した。




 僕と野乃の幸田家通いは、結局高校を卒業するまで続いた。そのうちに果ちゃんも落ち着いてきていたが、一度離れた級友は戻ってこなかったようだ。彼女はこの小さな町にいる限りひとりぼっちだった。

 至は進学組で、僕は当然のように実家の豆腐屋を継ぐことになっており、野乃はそんな僕の家に嫁ぐことがすでに決まっていた。


 幸田兄妹はこちらの家を残して引っ越して行った。至の通う学校の近くにアパートを借りるのだという。僕たちは離ればなれになった。


 その間の至たちについて、僕らはよく知らない。時々連絡を取ると、至はひどく忙しそうだった。両親の遺産もあるだろうにアルバイト三昧で、いつ寝ているのかと心配になるくらいだった。ただよかったのは、果ちゃんが新天地でちゃんと友人を作れたことだろう。至はそのことばかりを嬉しそうに話した。


 ちなみに僕と野乃は豆腐屋をやりながら同じ建物内でカフェをやり始めた。それまでいかにも地域の古い豆腐屋という出で立ちだった建物を改装して、である。実のところ豆腐屋をたたんでやりたかったわけだが、親父にこっぴどく怒られ、妥協案としてそうなった。将来的にはカフェを専業としたい思いがあった。まあ、豆腐も作れるカフェのマスターくらいでいいのではないか。親父には悪いが。


 そうこうしているうちに六年が経ち、幸田兄妹はこちらに帰ってきた。どうやら至が大学を卒業したあとも、果ちゃんの高校卒業まではあちらにいたらしい。家を売り払っていたわけではないので、彼らの帰郷は実にあっさりしたものだった。

 しかしこの時点で幸田至という男は、ドン引きするレベルの海外旅行オタクと化していたのである。『お前にそれほどの熱量があったとは』と僕は思ったし、言った。実の妹である果ちゃんですら、何がスイッチであったかわからないと言う。

 それでも僕は、なんだかひどく安心したことを覚えている。

『よかった。お前、好きなものがあったんだな』と。


 それから果ちゃんも進学したようだが、比較的近いキャンパスを選んだようで実家から通っていた。至は海外を飛び回り、僕らはといえばついに店の看板から豆腐屋の記載を消した。親父には黙って消した。一応豆腐をテイクアウトできるようにしている。


 十年があっという間だった。これからの十年もあっという間なんだろうなぁと思っていた。そんな折だ、至が『余命半年』などとのたまってきたのは。




 至の葬式は果ちゃんが施主をやり、僕らも手伝った。果ちゃんはあまり親戚の手を借りたくないようだった。

 式自体は簡単に済ませて、それから僕らは地元の友人と三日三晩は呑んで騒いだ。思えばこういう時にたしなめるのはいつも至の役目だったように思う。騒げば騒ぐほど、『おい至、早く止めろよ』という気持ちになった。

 全員でサライを歌って解散した。家に帰って僕はベッドに入り、わんわん泣いて、そのまま三日寝込んだ。


 店を一ヶ月閉めた。すでに隠居して別の場所に住んでいた僕の両親がやって来て、『うちの豆腐屋を潰す気か』と言ってきたので、そもそもすでに豆腐屋じゃないと言って追い返した。そのやり取りのおかげかは知らないが少しだけ気力が湧いてきて、店を開けた。



10


 食器を拭きながら、自分がどうしてこんなに参ってしまっているか考える。至から余命の話を聞かされてから、十分過ぎるほどに覚悟してきたつもりだった。あいつとは飽きるほど話をした。後悔しないように、もう話すことなんてなくなるぐらい話をした。


 だからおかしいだろ、こんなにキツイなんて。


 ため息を一つ落として、僕は食器を次々カウンターに並べる。実のところ、この食器たちはさっきから洗って拭いてを繰り返されていた。とにかく僕は、何かやることが欲しかった。


 ああ、そうだな……お前が死んだら悲しいだろうと思っていたよ、至。そんなことはわかっていた。想像もしていた。それなのに、

 お前が死んでこんなに悲しいよ。いなくなってしまって悲しいよ。


 なあ、昔の話をしようぜ。何度でも同じ話で笑おうぜ。お前が名作と言い張ってるクソゲーまたやろうぜ。あれ、なんでだかやりたくなるんだよな。お前ぐらいしかやんねえのにな。

 なあ、今度やる映画観に行って、帰りに感想言い合おうぜ。野乃はアクション観ねえんだよ。他のダチと観に行っても面白いかもしれないけどさ、僕はお前と観に行きたいんだよ。


 上手く息が出来ない。ただ、手元の透明なグラスだけがやけにキラキラ輝いていた。

 ふと、僕の隣に立った野乃が呟く。


「至くんと初めて会った頃のこと、覚えてる?」


 僕は何とか鼻をすすって、うなづいた。思い返すほど、本当にあの頃の僕は嫌なガキだった。

「あのね、私たちが川で遊んでて、至くんがそれ真似して飛び込んじゃったことあるでしょ」と野乃は続ける。鮮やかに記憶が蘇ってきた。幼い夏の日。一応、僕らと至が仲良くなるきっかけだった。

「至くん、そんなことする子だと思わなかったから。私どうしても不思議で、あのあとすぐに至くんに聞いてみたの。『どうしてあんなことしたの?』って」

 初耳だ。

 今となってはああいうことをするやつだという思いもあるが、確かに当時は度肝を抜かれたことを覚えている。そうだ僕はあいつと、あの日のことを話したことはなかった。


「至くんね、言ったの。『楽しそうだったから』って。それで、『やっぱり楽しかった』って」


 簡単に、脳内で再生された。子供の頃の至の声で。そして、大人になった至の声で。『楽しそうだったから』『やっぱり楽しかった』


 僕はグラスを置いて、その場で顔を覆った。

 本当にずっとそういうやつだった。僕はあいつが怒ったところを見たことがない。怒るべきことなんていくらでもあったろうに、なぜかいつも笑っていた。どこかで勝手に楽しいことを見つけて来ては、笑っていた。

 なんでこんなとこで死ぬかなぁ、お前。


 ようやく両手を顔から離して、僕は深呼吸する。強がりでも何でもなく、「ほんと、変なやつだった」と僕は笑った。

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