初恋はチェリーの味、煙草の匂い(Ⅱ)

【春原優那】


 私は疲れた足を撫で、ふとため息をつく。口から漏れ出た温もりが、しばらく白く漂って消えた。冬の中頃。指先も足先も冷たいのに、じっとりと汗だけはかいている。ジャンバーを脱ぎながら、私は近くのカフェに入った。


 退院して、一年半。私の声はまだ出ない。治療も、受けていない。学校にも行かず仕事もせず、私はただ、旅をしていた。

『旅に出る』なんて馬鹿げたことを言った時、両親はひどく反対した。特に父には、「お前は考えが甘い」と怒鳴られた。それでも諦めることのない私に、父は初めて涙を見せて、「頼むから早まらないでくれ、投げやりにならないでくれ。お前はまだ若いから、いくらでもやり直せるから」と懇願した。


『違うの、お父さん。私、ここに行ってみたいの。それから、ここにも』


 私は自分で調べておいた旅行リストを片っ端から両親に見せ、決して人生を投げての奇行ではないことを説明しなければならなかった。

『それでいつかは、自分が綺麗だと思う場所を見つけたいの。いつまでも甘えていてごめんなさい。帰ってきたら、ちゃんと将来のことも考えるから』

 そう何とか説得をして、私は旅に出ることを許された。




 カフェで窓際の席に着いた私は、脱いだジャンパーと、首にかけていたプレートを外す。『喋れませんが、耳は聞こえます』と書いたプレートだ。このプレートをつけることで、煩わしいやり取りが随分減ったように思う。自分にとっても、周囲にとっても、この事柄が最初からわかっている方が楽だった。

 それから私は、スケッチブックに文字を書いてモーニングセットを注文した。携帯電話だと充電量が心もとないと気づき、以来会話はこのスケッチブックを使っている。不思議なもので、同じ言葉でも直筆の文字で伝えた方が相手の反応もいいらしかった。本当に、不思議なもので。


 カリカリに焼かれたトーストを頬張りながら、私はこれからどうしようかと考える。

 学校に行ってもいい、と両親は言ってくれていた。通信制でも定時制でも、学校に行けるなら行きなさい、とまで。なんにせよこの冬で、旅は終わりだ。また旅をしたくなったら行けばいい。できれば今度は自分のお金で。

 店の奥から歩いてきたマスターらしき男の人が、私の席の向かいに座った。

「女性一人で珍しいね、旅行?」

 指についたパン粉を落としながら、私はペンとスケッチブックを取り出す。男性はハッとして、「ごめんね、食べてる時に」と申し訳なさそうにした。奥からまた一人、今度は女性が出てきて、「本当にごめんなさいね、なかなかお客さんが来ないもんだから」と男性を叩きながら言う。


『美味しいのに。私がたくさん宣伝しますよ』


 そう私が書くと、二人とも安心したように笑った。


『山に来ました。観光です。一人旅なんです』

「へえ。山、登ったの? 見かけによらず、体力があるね」

『登るのは、ちょっと大変でした』

「そうだよねえ、そんなに高くはないけど女の子一人じゃ大変だよねえ。綺麗だった?」


 待ってましたとばかりに、私は撮ってきた写真を二人に見せた。二人は「こんなとこあったっけ」「へえ、綺麗ね。しばらく山になんて登ってないもん、今度行く?」と笑い合っている。自分でもなかなかよく撮れたと満足のいく出来だ。そう言ってもらえると、嬉しい。

 不意に男性が「この写真、店に飾ってもいい?」と聞いてきた。


『でも、まだ現像してないんです』

「それくらいしてあげるよ。データ借りていい? 僕も写真が趣味でね」


 おずおずと差し出すと、男性はすぐに店の奥に引っ込んでしまう。女性が呆れた様子でため息をついて、「本当にごめんなさい、図々しくて」と肩をすくめた。でも彼女は、旦那さんのそういうところを嫌いではなさそうだった。

 奥さんは手招きをして、キッチンの横の壁に飾られた写真たちを私に見せてくれる。本当に、たくさんの写真があった。

「旅行中のお客様とかにはね、こうして写真を置いてってもらってるのよ。私たちも旅行が好きでねえ。ほら、写真の下に撮った人の名前も書いておくの。この人なんて一年ごとに来て写真を置いてってる……。あなたの名前も聞かなくちゃ。いい?」

 私はうなづいて、自分の名前をスケッチブックに書こうとする。ふと、手を止めた。


 一面の青い花の中で、女性が微笑んでいる写真。生き生きとして、美しい写真だった。私はその下に書いてある撮影者の名前を見て、思わずペンを落とす。


 あれから私は彼の訳した絵本を手に入れて、彼の名前を知っていた。

 幸田至。

 それが彼の名前だった。


 心配そうな奥さんの表情が目に入って、私はペンを拾う。それから急いでぐしゃぐしゃな字を見せた。

『この人が今、どこにいるか知っていますか?』

「え?」

 戸惑う奥さんの後ろで、店主さんが「どうした?」と声をかけてくる。私は何とか一旦落ち着いて『この幸田至さんという方をご存知ですか』と聞き直した。店主さんは何度か瞬きをして「至は僕の友人だよ」と優しく答える。私は早鐘を打つような、自分の心臓の音を聞いた。


「君は至のことを知っているのか。たまにいるからなぁ、翻訳者ファンとか」

『入院中に出会いました。私は、一年半前に同じ病院に入院してたんです』

 店主さんは微かに表情を変えた。それから、さっきまで座っていた席に戻るよう促す。

「もう一杯コーヒーを淹れよう。大丈夫、サービスだよ」


 腰かけてコーヒーに息を吹きかけながら、私は目の前の店主さんと奥さんを見た。奥さんは心配そうに隣の店主さんを見ている。自分の夫が何を言い出すのかわからない様子だった。

「君の名前を聞いてもいいかな」

『春原優那です』

「入院中、至とはどんな?」

『幸田さんとは、』

 書きかけて、私はちょっと目を閉じる。私と幸田さんの関係が一体何だったのか、幸田さんにとって私は何だったのか、私にとって幸田さんは何だったのか。ただ『お世話になった』では全然足りない。幸田さんは、私にとって、


『世界は広いぞって、教えてくれたんです』

「…………」

『それからいつもガムをくれました。チェリーのやつです』

「……ふふっ」


 笑って、店主さんは頬杖をついた。それからため息まじりに、私の顔をじっと見る。

「至は一年前に死んだよ」と、彼は言った。隣の奥さんが、思わずというように店主さんの腕を掴んで私のことを気づかわしげに見る。

「あいつは本当に友達が多かったから、あんなに騒いだ告別式は初めてだな。最後に有志のやつらでサライとか歌ったよ。馬鹿みたいだ」

 店主さんはゆっくりと瞬きをして、私のスケッチブックにさらさらと何かを書いた。それは、どうやら住所のようだった。

「さっきの写真にうつってた女の子が、その住所にいるはずだから。行っておいで。至はダチが来ると手放しで喜ぶやつだったから、まあいきなり行っても大丈夫だろう」


 何度か深呼吸をして、私は目を閉じて、開けて、うつむいてまた深呼吸をして。

 震える手でペンを持った。


『でも、彼女さんに迷惑ですよね』


 それを見て、店主さんは喉を鳴らして笑った。




 ランドセルを背負った子供たちが駆けていく。アーケード街に足を踏み入れると、何か美味しいものがたくさん混ざったようなにおいがした。幸田さんの育った場所だと聞いている。彼がここでどんな風に少年時代を過ごしたか、空想しながら進んだ。

 色々な人がいた。私は四回話しかけられた。もちろんプレートを首からかけていたのだけど、だからなのか、「どこに行きたいの?」「何か困っているの?」とみんな気にかけてくれる。私が携帯電話の画面に表示した地図を見せると、すぐに「それは向こうだよ」と教えてくれた。


 ふと、立ち止まる。

 すれ違った女性をもう一度見たくて、振り返った。声をかけようと口を開いて、自分の声が出ないことを思い出す。

 迷った末に踏み出し、私は女性の腕を掴んだ。女性が振り向いて、私は確信する。写真の女性だ。

 どうしよう、と瞬間思う。私はこれではただの変質者だ。同性だって、このまま何も言わずにただ腕を掴んでいれば通報されるかもしれない。でも、声が出ない。早く、何とかしないと。字を書かないと。スケッチブックなんて出している場合じゃない。携帯電話で、早く早く。

 パニックに陥っている私を見て、彼女は怪訝そうな顔をした。当たり前だ。私は震える手で『幸田さん』と文字を打ち込んだ。違う違う、まず自分の名前を。

 女性は何かハッとした様子で、私の顔を上げさせた。まじまじと見て、そうしてやっと、

「スノハラユウナさん、ですか?」

 とささやく。私は泣きそうになりながら、頷いた。

 彼女は私の肩を引き寄せ、抱きしめる。

「来てくれてありがとう、会いたかったよ」と、涙まじりの声で言った。




 私の前にココアを出しながら、彼女は笑いかけてくれる。「兄が入院中、お世話になったようで」と何でもないように言われて、私は自分の勘違いを正しく理解した。彼女は、幸田さんの妹らしい。果と名乗った。

「石本さんに……あの、カフェやってるお兄さんね。あの人に、君が近いうちに来るだろうってことは聞いてた。やっとかぁ、って思ったよ。まったく待ちわびた」

 楽しそうに果さんは言う。やっぱりどこか、幸田さんと似ているなと思った。


「積もる話はたくさんあるけど、とりあえずこれだけは渡しておかないと兄貴に怒られるから」


 そう言って、彼女は何も書かれていない白い封筒を差し出した。私はそれを手にしながら、ペンを手に持つ。迷って、『幸田さんは』とまで書いて手を止めた。

「兄貴は」と、果さんがぴしゃりと言う。私は驚いてしまって、顔を上げた。

「今はナイアガラを見に行っているかな。その後でフィンランドに。あなたに会えないことを惜しがっていたよ」

 彼女はすらすらとそんなことを言った。『でも』と私は唇だけ動かして、不安げに果さんの顔を見る。少し寂しそうに、だけど完璧な微笑を浮かべて、彼女は目を細めた。


「今でもふらふらして、何か綺麗なものでも見ながら……兄は、元気です」


 静かな時が流れた。私は果さんの顔を呆然と眺めて、それからちょっとうつむく。気づけば白い封筒を握り締めていて、必死に皺を伸ばした。

 私は震えながら、ペンを持った。


『コノミさんは、お兄さんとよく似ていますね』


 彼女はそれを見て、指でなぞったりして、笑う。

「ありがとう。誉め言葉として受け取っていいかな」

 拳をぎゅっと握って、私は大きくうなづいた。




 帰り道、私は歩きながら彼からの手紙を読んだ。そこには、ただ、こう書いてあった。


『 Good luck!

 (今度会った時には、君の声で「キスして」と聞きたいけどね) 』


 私は立ち止まって、それを何度も読み返す。たった二行。たった、二行だ。その短い言葉の羅列を、何度も何度も読み返す。彼と、久しぶりに話せたような気がして。

 私はこの手紙を、自分なりに翻訳しなければならなかった。手紙だけじゃない。彼がかつて私に話してくれたこと、果さんの言葉、あのカフェで店主さんが言ったこと。どんな意味があって、私に何を伝えようとしてくれたか。


 きっとそこに、不正解はあっても正解はないのだろう。


 それでも私はそこに正解を探す。私に関わってくれた全ての人に敬意を表して、妥協せずに、正解を探す。

 幸田さんの手紙を丁寧にしまい、私はまた歩き出した。




 一年半ぶりに、私は病院に行った。お医者さんは私のカルテを見て、「久しぶりだね」と苦笑した。どうして一年半も音沙汰がなかったかは、聞かれなかった。代わりに、「どうしてまた受診しようと思ったの?」と聞かれた。

 私は真っ直ぐに先生の目を見て、『自分の声がどんなだったか、気になったからです』とだけ、伝えた。

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