チェリーのガムと最後の恋と(Ⅱ)

【幸田至】


 例のガムを渡して以来、春原優那という女の子は毎日屋上に来た。声が出なくなってしまって入院しているのだと言う。それが耳鼻咽喉科になるのか、それとも精神科や心療内科の分野なのかよくわからなかったが、とにかく俺と同じ病棟でないことは喜ばしいことだった。彼女には先があるということだ。先のない人たちと話すのは、もう飽き飽きだった。

 それをいいことに俺は、彼女に『交通事故のせいで怪我をして入院している』と嘘をついた。彼女の症状的に、まさか外科でもないだろうと踏んだからだ。優那ちゃんはそれを信じ、俺たちは毎日気楽に話をした。


 最初は、妹と話しているような気分だった。この頃の果はこんなに聞き分けが良くなかったなぁ、なんて思いながら優那ちゃんと話をしたりしていた。

 だけれど毎日会うたび、俺は優那ちゃんがどれだけ傷ついているか察するようになっていった。何があったか、何をされたか、彼女が話すことはなかったけれど、その傷が今も生々しく血を滴らせていることはわかった。俺がこの子のためにしてやれることは何一つなく、またしても無力だった。

 その代わりといってはなんだが、俺は優那ちゃんに今まで撮った写真などを見せた。最初に旅行先で撮った写真を見せた時、彼女はとても興味があるようだったから。


 キラキラした目で写真を見て、俺の話を聞く女の子。それ以外の時にはどこか暗い顔で卑屈を口にしたりするのに、俺の旅先の話など聞いているときにはうっすらと頬を赤くさせたりする子。

 俺は話の途中に彼女を見て、気づいてしまった。

 優那ちゃんの目に映っているのは俺ではなく、彼女が憧れた世界すべてだった。


 なんて。

 なんて、綺麗なんだろう。未来がある子の瞳は。そんな子が信じる世界は。


 俺は優那ちゃんを通して、自分がかつてこの目で見て美しいと感じたものをもう一度見ることができたのだ。この傷だらけの女の子は、それでも世界が汚いままでは終わらないと心の底から信じていた。自分にはない輝きだと思った。


 両親が死んでからというもの、いや、両親が死ぬ前からだろうか。俺は、逃げたいときに逃げてきた。都合が悪くなればなかったことにして、どうしてもなかったことにならなかったものだけ背負って歩いてきた。それが悪いことだったとは思わない。ただ、そう、生きているという実感の薄い人生だった。

 春原優那は誰が何と言おうと、そこで生きながら足搔いていた。生きている彼女は世界を嫌いながら愛し、信じて裏切られても、また信じようとしていた。まるで小さな植物が人に踏みつけられても芽吹こうとするように、俺には鮮烈すぎるほど生きる力が強かった。




 一か月ほど、経ったろうか。俺は嚥下が怪しくなり、点滴を投与されるようになった。それでも好きに出歩けたのは、病院側の配慮だったのかもしれない。『もし夕飯までに帰ってこなかったらどこかで倒れているとみなして担架を持って探しに行く』とは脅されたが。


 ある日、見舞いに来た孝が「僕、至の葬式でサライ歌うよ」と言った。非常にデリケートな問題に思われたが、俺はあえて「『負けないで』の方が好きだな」と意見しておいた。

「ほら……『負けないで』はちょっと、これから先がある人に贈る歌かなと思ってさ」

「何にせよ葬式ではやめてくれないか。せめて葬式の二次会とかで」

「葬式に二次会とかあるか?」

「俺はやってもいいと思うよ。でも葬式でサライはやめてくれ。俺も死んだら、普通に坊さんの読経で天に召されたい」

「僕、今から出家するから読経としてサライ歌っていい?」

「やめろ」

 孝はけらけら笑って、「果ちゃんマジで結婚するんだって? おめでとう」と言ってきた。思わず仏頂面を作って、俺は頷いておく。


「この前、彼氏が挨拶しに来たよ。『お兄さんの代わりに果さんは絶対に守ります』とか言われた。釈然としない気分だ」

「いいやつじゃん」

「まあ、なんだ……『ここぞとばかりに』感が強くないか」

「それはちょっと思う」


 まあ、いいやつなんだろうとは思う。果が選んだ男だ。あいつは人を見る目がいい。

 だからといってこの釈然としない気持ちはどうすることもできず、俺は『できれば式の前に死んでおきたいな』とぼんやり思うほどだった。


 結婚か、と煙草を吸いながら思う。屋上から見た空は今日も今日とて変わりばえなく青い。

 俺にも、恋人がいたことはあった。ただ、どうにも誰か特定の人間と仲を深めるのが苦手だった俺は、誰とも長く続くことはなかった。こうなってみれば、逆に良かったのかもしれない。孝のように子供までできていたら、さすがに死んでも死にきれなかった。


 そんなことを考えていると、いきなり服の裾を引っ張られた。あの子か、と笑いながら振り向くと、そこには携帯電話の画面があった。


『タバコ、よくない』


 と、そう書いてあった。

 俺はそれを驚いて見て、笑った。

 この子はもしかしたら、俺の嘘を見抜いているのかもしれない。聡く、そして人の気持ちのわかる子だ。だから俺は、少し寂しく思いながら「それ、俺が言ったやつだ」と冗談めかして言う。


 俺はその日、十六歳の女の子にキスをした。




 病室で膝を抱えながら俺は、何もない一点を睨んで「やべえ」と呟いていた。

 キスしてしまった、女子高生に。これは完全に通報される。いや、俺自身は別に通報されようと問題はない。ただ未成年にわいせつ行為をした男が兄だったら、果は困るだろう。婚約も破棄されてしまうかもしれない。

 はぁーーーーーー、人生何があるかわかんねえーーーーーー。


 それにしても現代の女子高生、唇が柔らかすぎる。明らかに新素材。間違いない。


 俺は頭を抱え、「落ち着け! そんなことを考えている場合じゃない!」と自分を叱咤した。隣の爺さんが「うるせえぞ」と怒鳴る。あんたの歯軋りもうるさいがこっちは毎晩我慢しているんだぞと言いたい。

 額に手をあてると、熱があるようだった。物理的に熱を上げるとは、この歳で非常に恥ずかしい。


『幸田さんみたいに素敵な人になって、素敵なものを素敵だって心から思いたいんです』


 彼女の言葉が、ゆっくりと胸に降りてくる。


『会いたいです。退院してもまた、幸田さんに会いたいです』

『キスしてくれませんか』


 ベッドのへりに背中を預けて、深呼吸をする。息が苦しかった。

 あんなにも真っ直ぐに偽りのない言葉を紡ぐ少女が、一体何に傷ついて声を奪われたのか。今さらに気になった。俺がどうにかできる話ではないだろうけど。


 彼女が精いっぱいの勇気をもって伝えてくれた言葉を、俺は一つ一つ丁寧に抱えた。


 色々なところを見に行きたい、と彼女は言った。俺の語った場所を見たいと。

 それだけで、もう。本当に、それだけのことがどんなに嬉しかったか。

 選択肢だけを与えられて、正解もないのに選ばなければいけないようなことばかりだった。何も正しくはないと知りながら、それでも正しい選択をしようと躍起になっていた。


 君が俺の見たものを肯定してくれるのなら、きっとそうだ。俺の選んだ人生は正解ではなかったけれど、あながち全て不正解でもなかったんだ。

 正解のない問いを前にして、それでも正解を探そうとしたその意地だけは、間違いじゃなかった。


 そう思えた。そう思うことができた。


 だから、もう、十分だろう。自分で思っているよりも自分は、歯を食いしばったり腹抱えて笑ったりして、生き抜いてきたんだ。俺はそれを肯定できる。

 だから十分だ。十分だよな、そうだろ。

 それなら、何を泣いているんだよ俺は。


 どうして気づいてしまったのか、一体いつ気づいてしまったのか。それだけは考えないようにしてきたのに。

 死にたくないとだけは、思いたくなかったのに。


 夢を見ていたんだ、あの子と話すたび。二人で世界を見に行くような、そんなささやかな夢を。

 自分に、痛みを伴うほど欲しいものができるとは思わなかった。

 この子と見たいものがあった、と思うたびに煙草が増えることに気付いていた。美味くもないのに、暇があると手に取ってしまう。とんだニコチン中毒だな、と孝にも言われた。そういうことだ。俺は前からずっと、あの子に惹かれていた。




 次の日の朝も熱が下がらなかった俺は、ほとんどベッドに監禁状態だった。氷枕をとっかえひっかえ、まるで子供が風邪を引いたかのように丁重に扱われた。「熱が出ちゃうのは仕方ないですね、つらくないですか」と看護師さんに言われ、俺は「つらいです、まるで恋ですね」と答えておく。看護師さんが呆れたように見てきたので、「看護師さんじゃないです」と付け加えた。「幸田さん、元気ですね」とまた言われた。


 早く良くなるといいね、と面会に来た果が暗い表情をする。

「それは、『熱が下がるといいね』ってことか?」

「……ごめん」

「いや、怒ってるとかじゃなくて」

 言葉は難しいと思った。まがりなりにも言葉を商売道具にしていたはずなのに、こういう時に上手い言葉が見つからない。「ただ、せっかく式を控えた花嫁がそんな顔してたらもったいないと思っただけだよ」と、俺は瞬きをして言った。


 熱が下がっても、俺は屋上には行かなかった。「いつもみたいに、どこか行ってもいいんですよ」と看護師さんに言われても、生返事をしていた。

「幸田さん、そりゃあいつも散々脅してますけど、やる気なくなっちゃったら私たちも困りますよ。ナースの間にも幸田さんファン多いんだから。人間、気力ですよ、気力」

「マジです? ここにきてのモテ期はちょっと神様も意地悪っていうか、十年遅いですね」

 看護師さんは周辺を片付けながらちらりと俺を見て、ちょっと笑う。その顔を見て、俺は思わず「大変ですね」と言っていた。

「見送るのも、大変ですね」

 表情を凍り付かせて、すぐに看護師さんは首を横に振る。

「見送るつもりでこうしてるんじゃありません」と存外に強い口調で言われた。

 なるほど、どうやらまた反省案件らしかった。


 例のガムを持って、孝がまた面会に来た。手土産にガムを持って見舞いに来るやつはお前ぐらいだ、と言いながら受け取る。その代わりに、煙草をパッケージごと差し出した。

「……なんだよ、これ」

「処分先を探してたんだ。まさかそこのゴミ箱に入れとくわけにもいかないし」

「やっとやめるのか」

「まあ。それなりに俺のいい理解者だったけど」

「僕より?」

「だってお前、うるさいから……」

 何も言わず、孝はパッケージごとそれを潰した。俺は咄嗟に身構えて、「冗談に決まってるだろ」と顔をしかめる。

 ため息をついて、「どういう風の吹き回しで、禁煙を? もしかして死ぬのか?」と孝は言ってきた。俺は空咳を一つして、

「嫌われたくない子がいて」と答える。

「僕よりぃ?」と孝が目を見張った。当たり前だろう、と俺は思ったがあえて口にはしない。煙草の二の舞にはなりたくないからだ。

 それに、と俺は目を細める。

「どうせ孝は俺を嫌いにはならないだろ」

 ガムの包み紙をはがしながら、そんなことを言っておいた。なかなか上手くガムを取り出せない。最近は細かい作業が苦手だ。

 ようやくガムを口に入れて顔を上げ、俺はぎょっとする。

「えっ、タカシクン、泣いてる? 今泣くところじゃないんじゃないか。ごめんな、自分で言うのもなんだけどつまんないこと言ったな。でも泣くことなくない? 笑いどころだと思って言ってたよ、俺」

 両手で顔を覆って泣く孝に、俺は思わず「うわすごい泣いてる……」と呟いてしまった。泣きながら孝は、「早く僕のことをハワイに連れてけよ」と言う。「無茶言うな」と俺は呆れて返した。

「ハワイは、嫁さんと子供を連れて自分で行け」

「うちの新婚旅行は奈良だったんだ。今さら自分たちだけで海外になんか行けるか」

「奈良って……修学旅行か? いいんだよ、新婚旅行を超えても。今度は子供がいるんだから。大丈夫だ、ハワイは割と日本語通じる」

「お前! 僕が日本語通じない場所を恐れて海外に行かないと思ってたのか? 違うね、僕は海外にまったくビビってない。全然ビビってない」

「うるさいな、お前。ここ病室だって知ってた?」

 隣の爺さんがいなくなって数日が経ち、実質俺の個室と化してはいるがそろそろ看護師さんから注意されてもおかしくはない。鼻をかみながら、「お前と話してると涙も引っ込むな」と孝は言った。

 それならよかった、と思って俺は頬杖をつく。これで最後かもしれない友人の顔を、ちょっと笑いながら見た。孝は怒ったように目を赤くしながら、鼻水を垂らしていた。




 隣で本を読んでいる果が、「兄貴、この本読む予定ある?」と聞いてきたので、「時間があれば」と答えておいた。秋も目前の日だった。

「それ、読まないやつだよね。ネタバラシしていい?」

「最悪だよ……」

 果は俺のことなどお構いなしで、読んでいた小説の内容を一から十まで説明したうえで「いい話なんだよぉ。やっぱ兄貴も読んだ方がいいって」と言ってきた。俺はベッドの上で寝そべりながら、「今聞いたダイジェスト版でも十分面白かったよ……」とため息をつく。

 また新しい文庫本を出した果をぼんやりと眺めた。暇なら帰って彼氏と遊んでいればいいものを、と思いながら。

「俺、ギター始めよっかな。帰ったら」

「どうしたの急に」

「なんか昨日、唐突に『音楽の方に才能があったらどうしよう』って思って」

「兄貴……ないよ。ない人の感じだよそれは」

 ないかぁ、と呟けば、ないよぉ、とくすくす笑われる。ようやく本から顔を上げた。

「前はよく部屋から抜け出してたのに、最近はずっと部屋にいるんだね」

「体力の限界なんだよ」

 冗談のつもりで言ったことで、妹が表情を曇らせる。俺は慌てて、「おじさんだからさ」と付け加えた。果は何か問いかけたそうな顔をして、瞬きをする。


『本当に優しいよね、至くんは』

『優しくて冷たいね』

『自分と妹さんより好きなものってあるの?』

『誰にでも優しいって結局、誰にも優しくないのと同じだもんね』


 かつて自分が傷つけた人たちの言葉が、浮かんでは消える。今ならよくわかった。

 俺はただ、鈍感でいたかっただけなのだろう。人と本気で向き合うことが煩わしく、それを悟られるのが怖くて距離を置けば、それすら人を傷つけるのが不思議だった。誰かを傷つけたことに気付かずにいたかっただけで、たとえば妹が今どんな顔をしているか、俺は見たくなかった。

 兄貴、と呼びかけられてハッとする。果は俺の肩を掴んで顔をのぞきこんでいた。

「どうしたの? 苦しい?」

 息が上がっている。俺は首を横に振って、「何でもないよ」と呟いた。やっぱり、果は何か言いたそうに俺を見ている。


 ああ、あの子に会いたいなぁ。


 優那ちゃんはどうしているだろうか。もう退院しているかもしれない。そうだといい、本当に。

 会いたいと思うけど、会いたくないとも思う。実際に俺は、もうあの子には会わない。無責任だと言われても、会わない。

 次にあの子と会った時には、俺はあの子の手を掴んで「ここにいて」と縋ってしまうだろう。最悪の場合、血迷って「一緒に死んでくれ」と口走ることだって十分あり得た。あの子が目を輝かせて指さす未来に、俺はいないのだから。それでもあの子の未来を曇らせるわけにはいかなかった。だから会わない。何度も何度もそう自分を納得させ、ようやく決めたことだった。

 傷ついてそれでも立ち上がろうとする君の未来が、今度こそ終わりまで輝いていますように。

 なんて。精一杯格好つけて願っていたい。ちゃんとこれも本心だ。


 俺は笑って、果に「本当に問題ないよ、お前にはいつも心配かけるな」と肩をすくめて見せる。果はほっとしたように、「ほんとだよー」と言った。

「兄貴が倒れた時も、私の方が心臓止まって死にそうだった。もうやめてよね、ああいうの」

「そうだな。もう二度とそうならないようにする。なんせお前の心臓が止まったら困るからな。だからお前は、新婚旅行をどこにするか彼氏と話してろ」

「あー、新婚旅行ね。どうしよっかな、オススメある?」

「奈良はやめておきなさい」

「奈良? 修学旅行?」

「そう思うよな」

 本を鞄にしまいながら、果は立ち上がる。また来るね、と呟いた。


「ギター、買っとくよ」

「……さっきの話なら冗談に決まってるだろ。無駄遣いするな」


 ゆるゆると首を振って、果は綺麗な顔で笑った。俺の妹は時々、おそろしいほど完成度の高い笑顔を作る。そうさせたのは、俺なのかもしれなかった。




 恒常的なモニター測定と酸素吸入が始まった。酸素マスクをつけて寝かされているのは、控えめに言っても『生かされている』という感覚だった。最後まできっちり金がかかるのが人間だ。本当に、嫌になる。

 医者から「ご自宅に帰ることもできますよ」と言われた時、俺は数分悩んで断った。もちろん入院していれば金はかかるが、しかし家で死なれても果が困るだろう。だから、家には帰らなかった。より良い最期を、というのは医療の管轄ではないのだろうが。

 浅い眠りを繰り返して、また起きる。俺の手を、果が握っていた。


「私の結婚式、来ないつもりなの? お兄ちゃん」


 どうやら俺が起きていることは気づいていないようだ。俺の手に頬を寄せている。


「元気になってくれなきゃ困るよ。私まだ、」


 触れた温もりが、指先から伝って落ちた。そうだ、果は初めて俺が病気のことを告げてから一度も俺の前では泣いていなかった。


「私まだ、何も返せてない……。ずっと守ってくれてありがとうって言ってない……。世界で一番大好きだよ、お兄ちゃん」


 聞いたか。

 聞いたか、果の夫となる男よ。

 果は俺のことが世界で一番好きなんだ。お前は二番目以降だ。そのことをゆめ忘れることなく、果を生涯守り抜けよ。お前は二番目以降だけどな。


 そんなことをついうっかり思ってしまいながら、俺はにやにや笑う。それに気付いた果が、「ひっ」と言いながら飛び上がった。

「い、いつから……?」

「ひどいなお前、いきなり人の手を放り投げることないだろ。何も聞いてないよ、俺は」

 酸素マスクを外しながら俺は目を細める。ほんとかなぁ、と疑わしげな目で見られて苦笑した。

「それ、外しちゃダメだよ」

「今日は気分がいいからいいんだよ」

 上体を起こして、胡坐をかく。


「なあ果、便箋と封筒買ってきてくれる?」

「……なに書くの。遺書?」

「いや……遺書というより、」


 言葉に詰まった俺を見て、果が不思議そうな顔をする。もしかして、と人差し指を立てて見せた。

「ラブレター?」

「……そうとも言えるかもしれないな」

 何か嬉しそうな顔をして、「誰に」と果は俺の顔を覗き込んでくる。俺は最初返答を渋っていたが、あまりにも果がしつこいので名前だけは教えた。その子の年齢も容姿も言わなかった。

「どこが好きなの」

「お前、兄貴のそういうの聞いて楽しいか?」

「面白いよ」

 にんまりと笑いながら妹は、ようやく俺の頼みを聞き入れてくれた。便箋と封筒を買ってきてくれたのだ。


 俺はペンを片手に、あの子に届けるべき言葉を考えていた。

 子供のころ、国語の『この時の作者の気持ちを答えなさい』などという問題で、俺は一度もバツをもらったことはなかった。いま白紙の便箋を前にして、与えられた問題は一つ。『現在の幸田至の気持ちを答えなさい』だ。それは確かに自分の中にあるもので、どう答えても俺が正解のはずなのに、何を書きだしても間違いのような気がした。

 一枚書いて、捨てた。長すぎる。もう一枚書いて、破った。重い。

 頭を抱えて、ペンを置く。


 今書かなかったら、もう書き上げることはできないかもしれない。


 目を開いて、もう一度ペンを握った。

 俺はあの子を、春原優那という女の子を信頼している。俺の全ては、あの子に翻訳を任せよう。それなら俺はただ、あの子に届けたい言葉だけを書けばいい。


『 Good luck! 』


 と、書いてちょっと笑う。それから、

『 (今度会った時には、君の声で「キスして」と聞きたいけどね) 』 とも。

 簡単なことだ。俺はただ、あの子の声を聴いてみたかっただけなのだ。悔いはあるか、と誰かに問われれば俺は大きく頷いて「もちろん」と答えただろう。

 あの子の声が聴きたい。聴きたくてたまらない。昔から本当に、間の悪い男だ。生まれた時代がほんの数年違っていれば、あの子の奪われる前の声か、もしくは取り戻した後の声が聴けたかもしれないのに。まったく、惜しいことをした。


 俺はそのたった二行の手紙を果に渡した。もし、あの子と会うことがあったら、と。果は久しぶりに明るい表情で、「任せとけ!」と胸を叩いた。


 そして俺はその後すぐに傾眠がちになり、起き上がることもなくなった。いつからか、見舞いに来る友人らの表情から自分の状態を量るようになり、いよいよかと思ったりもした。

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