初恋はチェリーの味、煙草の匂い(Ⅰ)

【春原優那】


 たった十六年の人生で、語れることはそう多くない。

子供の頃、私の髪は異常な癖毛だった。もちろん今、髪質が変わったわけではない。けれど素材そのままを尊ばれる少女時代、それは私にとって本当に苦痛だった。

 小さなときからクスクス、クスクスと笑われてきた。黒たわしなどと呼ばれていた時はまだ可愛いものだった。知識がついてくるにつれ級友たちは私のことをもっと下品に呼んだ。

 ようやく容姿を取り繕うことについてある程度の自由が認められた高一の春、私はストレートパーマをあてた。


 春原優那すのはらゆうな。それが私の名前だ。


 そして私は高一の夏、声が出なくなって病院にかかり、二か月入院をすることになった。声が出ないだけでなく、その時の私はひどく不安定で、深刻な不調を繰り返していた。


 毎日毎日、毎日毎日、看護師さんに泣きつく暮らしをしていた。仕事で人に接する彼らは、その時の私にとって世界で一番優しく思えた。意味もなく涙をこぼしてはその涙に意味がないことを説明しなければならなかったが、看護師さんは慣れた様子で「落ち着くまで寝てていいんだよ」と背中をさすってくれた。


 やがて私は全てに飽き、外ばかり見るようになった。お医者さんは「気分転換に散歩に行くといい。院内は自由に歩いていいからね」と言ってくれていて、私はふらふらと歩くようになった。

 色々な人がいた。患者がいて、それに付き添う人がいて、様々な表情を浮かべていた。

 私だってもう、自分だけが辛いのではないとわかっている。下を見ても上を見てもきりがない。だから、だからこそ、寂しいのだと知っていた。


 母はよく面会に来た。替えの服を持って、「今日は天気がいいわね」なんて朗らかに言うのが常だった。それから時々は、「焦らなくてもそのうち声が出るようになるわ」だとか、励ましの言葉もくれた。私は何と言えばいいかわからず、まさか『このまま喋れなくても大して困らない』とは言えず、携帯電話の音声読み上げ機能で「ありがとう、いつもごめんね」と伝えるにとどまった。

 入院中、父が面会に来たことは一度もなかった。


 病院には屋上がある。背の高い金網が張っていて、私が入院していたその夏の間中、心地いい風が吹いていた。私はその場所が好きで、私以外あまり人がいないのが好きで、よくそこから遠くを見ていた。




 屋上からは、私の通っていた学校が見える。友人など一人もいなかった。無理もない、私が通っていたのはたった四か月ほどだったのだ。


 目を閉じれば、水の音が聞こえる気がした。塩素の臭いも、すぐそばで香るような。そんなもの、気のせいに決まっているのに。


 ガチャ、とすぐ背後でドアの開く音がした。私はびっくりしながら振り向いて、それから弱々しく会釈をする。見たことのない男の人が立っていた。彼も不器用そうに会釈をして、私と一定の距離を置いたまま金網に寄り掛かる。

 私は逃げるようにしてその場を後にし、自分の病室に帰ったのだった。




 次の日も同じぐらいの時間に彼は屋上に現れた。私は逃げることはせずに、ただ隅の方で彼を見ていた。

 彼は私に気付かなかったのか、金網に寄り掛かりながら煙草を咥える。ライターの火が風に揺れ、すぐ煙も香った。ぼんやりと、それを眺める。

 その次の日も、私は黙って彼を見ていた。彼に気付かれないように、隅にうずくまって。

 その次の、次の、次の日。

 私は彼の前に出ていって、ジェスチャーで、『その煙草一本貰えませんか?』と伝えてみた。彼はひどく驚いた様子で、手間取りながら、煙草のパッケージではなくガムを一つ差し出してきた。私は首を横に振って、『それじゃない』と伝えたけれど、彼も首を横に振ってただガムを差し出した。

 仕方がなく、私はそれを受け取って、口にする。爽やかなチェリーの香りがした。


 次の日私が屋上へ行くと、彼は慌てた様子で用意していたであろう画用紙に『タバコはよくない』と書いて見せてきた。私はそれを見て、じーっと見て、思わずニコニコ笑ってしまう。それからスマートフォンで素早く文字を打ち込み、読み上げ機能を使った。

『私、耳は聞こえます。喋れないだけです。ありがとう』

 と無感情な音が響く。男性は「ああ、そうなんだ」と初めて声を出した。どこかで聞いたことがあるような声だった。私は何とか思い出そうとして、そっと目を伏せる。そうだ、父の声に少し似ていた。


「どうして煙草を吸いたくなったの」

『病院食、飽きました』

「ガムしか持ってないけど、要る?」

『ありがとうございます』


 彼の名前は幸田と言うらしかった。何か特別な話をしたというわけではないけれど、いつも着ているものがジャージであったり寝間着に近いことから考えて、私と同じ患者の側だということは何となくわかっていた。


「ずっと声は出ないの?」

『最近です。すごく嫌なことがあって』

「そっか……不便だね」

『そうでもないです。別にこのまま声が出なくても、困らないです』


 幸田さんは自動車事故が原因で入院していて、だけどもうすぐリハビリを終えて退院するのだと言っていた。『災難ですね』と私が言うと、「悪くなかったよ、三食昼寝付きだったし」なんて笑う。確かに、と私もうなづいた。入院生活は悪くなかった。ここにいる限りは何か必要なことが最低限は保証されているような気がしていた。

 私と幸田さんは友達になり、彼は毎日チェリーのガムをくれた。


 金網に背中を預けて、幸田さんが煙草を吸っている。人に『タバコはよくない』などと言う割には、彼は毎日煙草を吸っていた。それから私に写真をいくつか、見せた。

「綺麗でしょ」

『素敵な写真ですね、これはどこですか?』

「これはカナダ。こっちはノルウェー。日本もあるよ、神社が好きなんだ」

『写真を撮るお仕事なんですか?』

「いや、ただの趣味」

 ふふん、とどこか自慢げに笑った彼が、自分の仕事について話してくれた。彼は翻訳の仕事をしているらしい。主に絵本などを取り扱っていて、いくつかタイトルを教えてくれたけれど、私にはわからなかった。ただ、彼がその仕事をひどく好いていることだけはわかって、私はその絵本のタイトルを律義にメモして退院後に読んでみることを約束したのだった。


「面白いよ、翻訳は。辞書の通り訳すとまるで雰囲気が違ってしまうことがあって。オリジナルがどういった意味でその言葉を使って、何を伝えたかったか、何度も何度も読んで確かめるんだ。決して自分の作品ではないから、それが自己満足にならないようにいつも考える。翻訳なんてただ言語を変えるだけなのに、それだけなのに、いつも一作翻訳し終えるまではそのことしか考えられない。効率が悪いのかもな」


 そんなことを話しながら、彼は笑う。

 なんて楽しそうに生きている人だろう、と私は思った。それに彼は、絵本のように美しい世界をいくつも知っている。私が生きてきた世界の、汚い悪意。そんなもの挟む余地がないような美しい世界を。

 羨ましくて、惹きつけられて、目が離せない。彼の見る世界。


 ある時彼は私の髪を見て、「綺麗な黒だね、染めたことない?」と尋ねてきた。私は少し顔色を暗くしながら、『染めたことはないです。でも今はストレートのパーマをあてています』と答えた。それから、『そろそろまたストレートにしないと、すぐアフロになっちゃうのに』と続ける。

 幸田さんはしげしげと見てきた。

「アフロ、いいじゃん」

『よくないです。絶対よくないです。笑えないぐらい、やばいんです』

「そう言われるとちょっと見たくなるな……。でもまあ人間、自分の好きな姿でいるのが一番だからね。俺もガキのころすげえ貧弱だったのが嫌で、超鍛えたし」

『超鍛えた割にはそんなに』

「言うねえ。脱いだらすごいかもよ」

 じーっと見つめて、私は幸田さんのお腹を触ろうと手を伸ばす。幸田さんは驚いた様子でそれを避けて、「すみません勘弁してください、嘘をつきました、筋肉ないです」と肩をすくめた。




 私が高校デビューでストレートパーマをあて、事件が起こったのはそれから四か月後だった。


 私はその日プール掃除の当番で、あの真っ青な塩素の臭いの中、数人の男子生徒に囲まれて悪戯された。中学の時に私をいじめていた女の子が、『モテたかったんでしょ』と笑っているのが見えた。『良かったじゃん』と。


 その後三日間、私はいつも通り学校に行ったし、何があったか誰にも言わなかった。相手は避妊していたようだけど、妊娠してしまったかもという不安はずっとあった。それでも私は誰にも相談はしなかった。誰にも言っていないのにみんなが知っているような気がして、四日目の朝、私は体調を崩した。


 私が髪をストレートにしたのは、そういう自分になりたかっただけで、異性の目を引きたかったわけじゃない。そんなことを、それだけのことを、理解してもらえなかった。母親でさえ「高校生にもなると色気づくわね」と笑った。そんなことはどうでもいい。私はただ、そのような土俵には立っていなかったというだけだ。それなのにいきなり引きずりあげられて、打ちのめされた。そのことが遅まきながら怖くなり、私は呼吸すらままならなくなり、何とか自分の部屋から出て誰かに助けを求めようとした。


 廊下でうずくまる私を見つけたのは、父だった。

 父の顔を見た瞬間に私は、喉まで出かかっていた『助けて』という言葉をすっと飲み込んだ。

 幼い頃に怒鳴られた記憶が、その時感じていた恐怖とシンクロする。『助けて』と言えない。私はパニックに陥った。

 父が怪訝そうに私を見ていた。私は首を横に振って、だけどそんなことを考えている場合ではないと思って、何とか『息ができない』と伝えようと思った。そしてそのまま、気を失った。

 その日から私は声が出ない。何が原因なのかと考えても、わからない。物凄く嫌なことがあった、ということにしている。具体的にどれということではなくて。




 夢を見た。入院して薬をもらうようになってからは、そんなにあの時の夢は見なくなっていたのに。

 私はぼんやりと泣きながら、外を見ていた。夏の温度が不快に思えた。


 父は、悪い人ではないと思う。私が入院してから顔を見てはいないが、「何とか他人に気を使わないで済むように」と言って私を個室に入院させたのだと母から聞いた。

 きっと、間が悪かったのだ。全てのことが、ただひたすらに間が悪かったのだ。



 彼に会いたい。

 幸田さんに、会いたい。

 私はまた泣きつく先を探している。それが彼になってしまうことを、私は私なりに危惧していた。彼に縋りたいわけじゃない。とてもいい人だけれど、いい人だから、彼に助けてもらいたくない。

 ただ会いたいだけ。それだけということにして、明日彼を探しに行こう。

 私は眠りたがらない頭と体を横たえて、朝を待った。


 次の日私は、いつも屋上で彼が来る時間まで待てずに彼を探した。リハビリ病棟を歩いていると、看護師さんから呼び止められて、仕方なく『会いたい人がいます』と伝えた。看護師さんは「呼んでくるから談話室で待ってて。名前は?」と聞いてきた。

『幸田さん、っていう人です』

「幸田さん? 知り合い?」

『はい。あの、ダメですか?』

 看護師さんはしばらく何か悩んで、「ダメじゃないけど、幸田さんって患者さんはうちの病棟にいないよ。ごめんね、力になれなくて」と答えた。

 私はぼうっとしてしまって、どういうことだろうと考えながら、看護師さんにお礼を言う。病棟が違うのだろうと思いながら、さすがに幸田さんがどの病棟に入院しているのかまでは聞けなかった。

 自分の病室に戻りながら、私は膝を抱える。

 ――――本当は。


 彼が嘘をついていることは何となくわかっていた。

 自動車事故で入院していると言う彼に、ケガを引きずるような素振りはない。もう治っているにしては、入院が長すぎる。

 私は悩みながら、それでも屋上に行った。


 非常階段を上っていく。少し息切れしながら、屋上のドアを開けた。

 彼は金網の向こうをぼんやりと見ながら、煙草を吸っている。私が歩いて行けば彼は振り向いて、いつものようにチェリーのガムを差し出すだろう。

 歩いて、少し駆けて、私は彼の服の裾を掴んだ。彼は振り向いて笑う。素早く携帯電話を出して、画面を見せた。


『タバコ、よくない』


 幸田さんは目を丸くして、「それ俺が言ったやつだ」と嬉しそうに笑う。その顔を見れば安心してしまう自分がいて、思わず彼の背中を叩いた。

「どうした。ご機嫌斜めなのか」

『幸田さん、初めて会った時より痩せました?』

「そう見える? 入院中でも油断してたらすぐメタボだからな。今ダイエット中なの」


 完璧だ、と私は思う。こんなに完璧に嘘をつける人なんていない。

 だから、きっと、彼は大丈夫なのだ。


 私は瞬きをして、静かにその場に座った。膝を抱いて、ためらいながらも携帯電話をいじる。私の打った文字を冷たい機械音が読み上げた。

『こういうこと、出会ってばかりの人に言うの、重いなって思うんですけど、聞いてくれますか?』

 もちろん、というように幸田さんは大きく頷いて見せる。


『わたし、すごく嫌なことがあって、声が出なくなって、ここに入院することになりました。それで私は、とっても甘ったれなので、ずっと入院したままでいたいなって思っていました。外の世界がとってもこわくて、ずっと私に嫌なことをしてきたからです。今回のことだけじゃなくて、私は子供の頃から世界のことが嫌いだったんです。だからずっとここにいたくて、声も出ないままでいいやって思って、だって声が出なければ人と喋らないでいることを許されるから。

 だけどわたしは、幸田さんが見てきた綺麗な場所を、私もたくさん見たいと思ったんです。

 もしかしたら、私がいるところが特別汚いところで、それは変わりようがないけれど、でも世界はもっと広くて、私が綺麗だなって思えるところがたくさんあるのかもって、思ったんです。本当に、それって、とっても素敵でわくわくする気持ちでした。私はいつか、カナダでもノルウェーでも行って、写真を撮って来たいです。手始めに神社とか、日本の綺麗なところとかに行って。

 ただ、一つだけ不安なことがあって、それは、幸田さんが綺麗だと思うものを、私は綺麗だと思えないかもしれないってことです。私が何も感じないものを、幸田さんは目を輝かせて「特別だ」って言うのかもしれないってことです。写真の撮り方が上手なのと同じように、幸田さんはもしかしたら、世界を綺麗だって思うのが上手なのかもしれない。私はそれが下手で、幸田さんと同じものを見ても綺麗だって思えないかもしれない。私はそれが、それだけは、本当につらいと思うんです。

 幸田さんみたいに素敵な人になって、素敵なものを素敵だって心から思いたいんです』


 機械の音が、読み上げている。彼は先に画面を見て全て読み終わっただろうが、私の代わりの声がそれを読み上げるのを待っている。私もそれを震えながら待った。

 全て読み終わり、数秒経って、ようやく幸田さんは口を開く。


「優那ちゃんは、素敵な子だよ」


 それは、その時の私にはあまり上手じゃない、意味のない慰めに思えた。

 彼は続けた。


「俺はそんなにいい人間じゃなくて、今まで嫌なこともたくさんあって、嫌なこともたくさんしたよ。自分では気づかないうちに人を傷つけたこともたくさん、あった。

 だけど俺は思い出の取捨選択をしてでも、『いい人生だったな』って思いたかったんだ。

 それは全然、褒められたことじゃない。嫌なことは全部忘れてきた。自分が嫌なやつだってことも忘れようとした。だから優那ちゃんに褒められるとむず痒いよ。君は綺麗な世界ばかりを切り取って生きたんじゃなく、ここまで向き合って戦ってきた女の子だ。

 君と俺は違うから、俺と同じものを綺麗だと思わなくていい。だけど君が気付いたように、世界はとても広い。君が綺麗だと思うものを見つければいい。絶対にある。それだけは断言する。絶対にあるよ、世界中にいくつもだ。、美しいと思えるものがある」


 彼はそう、言い切った。絶対にあると彼がそう言ったのだ。

 まだ子供だった私には、大人が断言するものは絶対だった。彼が言うなら、尚更だ。私は金網に背を預けて、高いところにある彼の顔を見る。彼も笑って、私の隣に腰を下ろした。


「若いころにやった翻訳の仕事を今見返すと、粗が目立って苦痛な時がある。今だったらどう訳すだろうって、この入院中今まで訳した絵本を読み漁ったりしたよ。

 なんて責任重大な仕事をしていたんだろう。人さまから借りた作品を、自分の言葉に直すなんて。俺が間違えて訳したら、大抵の子供たちはそれを信じてしまうんだから。一昼夜悩んだって足りないぐらい、恐れ多い仕事だとようやく気付いた。入院中、全部訳し直してみたよ。それでやっと、何となく……満足した。

 きっとそこに、不正解はあっても正解はなかったんだ。

 不思議だなぁ。もどかしいなぁ。言葉を訳すなんて大事なことに、たった一つのこたえがないんだから。

 だけどよく考えれば……同じ言語を使っていたって、その人の言いたいことが全部わかるかと言われたらそれも自信がない。

 人と話すことも、綺麗なものを見つけることも、結局は自分の翻訳ひとつなのかもしれないね」


 言って、幸田さんは空を見る。風が吹いて彼の髪を揺らした。


 その光景を、私は目に焼き付ける。


 高かった青い空は、蓋されるように薄く薄く灰色になっていった。それはすぐに紫色へ変わって、全体に広がっていく。どこかでカラスの鳴き声が聞こえた。夏は日が長いなんて言うけれど、油断しているとすぐ夜になりたがるから怖い。

 カラスは自分の子が可愛くて鳴くらしい。あのやかましい鳴き声だって、そんな風に感じる人がいる。それはもしかしたら、途方もなく、愛おしいことなのかもしれなかった。


 私は携帯電話の画面を、自分の袖でごしごし拭く。『わたし』と打ち込んで消して、頭を抱えた。私は私の心を、何とか、言葉にしなければならないのに。そうしないと彼には伝わらないのに。

 私は、彼のことが好きだと思った。幸田さんのことがたまらなく好きだと思った。


『会いたいです。退院してもまた、幸田さんに会いたいです』


 カラスの鳴く、声が聞こえる。そんなに子供が可愛いのか。

 じっとりと空気は沈んでいく。私は、彼の顔を見なかった。いつかそれを後悔するときが来るかもしれない。彼の顔を、表情の変化を、どんなものでもちゃんと見ておけばよかったと。それでも顔を上げる勇気がなかった。

 しばらくしてようやく彼を見ると、彼もこちらを見ないままで、ただガムを差し出していた。私は『いりません』と答える。何の感情もこもらないその音声で、私のどんな気持ちも彼には伝わらないだろうに。案の定、幸田さんはこちらを見て私の表情を読もうとした。私は必死に携帯電話を握り締め、泣きそうになりながら、パニックになりながら、彼を傷つけることなく彼に気を使わせることなくどうにか自分の気持ちを伝える言葉が見つからないか躍起になっていた。私は何とか文字を打ち込み、その途中で彼は、


「遅いな」


 そう言って、手早く私の唇を奪った。


 幸田さんが私にキスをしているとき、間の抜けたタイミングで私の携帯電話は『キスしてくれませんか』と呟いた。抑揚のない声が本当に間抜けで、彼はそれを聞いて顔を離し、ひとしきり笑った。


 かつて級友であった人たちのキスを覚えている。どちらかのキスだけを覚えていられるとすれば、私は幸田さんとのキスだけを覚えて生きていきたいと思った。思い出の取捨選択ぐらいはしないと、大人になるということはとても難しそうだったから。

 幸田さんがげらげら笑っているその横で、私はいつまでも顔を赤くしていた。




 その後、幸田さんと会うことはなかった。幸田さんが屋上へ現れることはなく、そして私もやがて退院した。退院後に病院を訪れたこともあったが、病院は決して幸田さんの情報を漏らすことはなかったし、ばったり再会するということもなかった。

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