煙草の香りが消えてくような、風船ガムが割れるような。
hibana
チェリーのガムと最後の恋と(Ⅰ)
【幸田至】
1
洋楽歌えたらモテんぞ、と友人に言われた俺は、手始めに英語の勉強を始めた。十五の時だ。
俺の名前は
十五歳の幸田至は女子にモテたいというただそれだけの理由で英語を学び、高校のクラス会で満を持してマイケルジャクソンを歌った。言わずもがなというか、俺の高校三年間のあだ名はマイケルだった。
そんな話を、友人こと
「そもそも孝が、洋楽はモテるとか言うから」
「僕のせいにするつもりか? あれはお前の選曲が悪いって。ジャスティンビーバーとか歌っとけばよかったんだよ」
「あの時代にジャスティンビーバーなんかいなかっただろ。テキトーだな、孝は」
しかしそんなことをきっかけにして俺は翻訳の仕事を始めたのだから、人生はわからないものだなとは思う。これは孝への感謝ではなく、キングオブポップへの感謝だ。
人生はわからないもの。その方が面白いから、神様がわざわざ先のことを隠している。昔読んだ絵本にそう書いてあった。どうやら神様というのは、決してネタバレを許さないタチらしい。
だから余命宣告など受けたときにも、俺はぼんやりと『神様がせっかく隠していた話だろうに』などと場違いなことを思った。
検査入院の後しばらくして病院に呼ばれた俺は、医者に「ご家族は」と聞かれた。あまり深刻な空気ではなかったので、俺は診察室を見渡しながら「妹は病院が嫌いですよ、昔インフルエンザの予防接種で大人に押さえつけられてから」と答えた。
「……そうですか、昔の医者は強引でしたからね」
「もし何か悪い話ならこのまま俺に言ってください、妹だとむしろパニックになって皆さんにご迷惑をかけるかも。それに、俺はたとえ余命宣告だとしても自分の耳で聞きたいです」
まさか本当に余命の宣告だとは思わなかった。
俺は妙に感心して、「半年ですか、それぐらい前にわかっていると助かりますね」と呟いていた。すると「心の整理が必要でしょう」と勝手に決めつけられ、家に帰された。また入院かと思っていた俺は、拍子抜けしながら帰宅したのだった。
ということを、俺は妹の
孝に電話を切られたことが殊更にショックで、俺は余命うんぬんよりもそのことに悩んで一晩を過ごした。話が重すぎたかな、あいつはいいやつだったから残念だな、と思いながら朝を迎えたのだった。その日、昼過ぎのことだった。孝が我が家のドアを蹴り開けてきたのは。そして開口一番、俺に怒鳴り散らしてきた。
「なんで煙草吸ってんだ、このすっとこどっこい!」
すっとこどっこい、とは。
すっとこどっこい、とは? このご時世にすっとこどっこいとは? 『ウケる』すら死語と言われた今日この頃、すっとこどっこいとは一体。
「え、すっとこどっこい……?」
「そこじゃねえから。煙草つぶせ、馬鹿野郎」
「禁煙するにしては遅すぎるだろう。それに煙草はあんまり関係ないそうだ」
「微かに関係あるんじゃないか。馬鹿だな、お前は本当に馬鹿だ。ヤケになったのか」
灰皿に煙草を潰しながら、俺は孝の顔に煙を吹きかけて笑った。「いや、煙草を吸っている俺はかっこいいなと思って」と肩をすくめる。勝手に上がり込んできた孝は、呆れた顔で俺の隣に腰を下ろした。
「で、いつ死ぬんだよ」
「半年って言われたけど、どう思う?」
「賭けてもいいけど半年じゃ死なないな、至は」
「俺もそう思う。最後にハワイに行きたい」
「ハーワーイ? あれだけ世界中飛び回ってたやつが、結局はあのメジャー中のメジャー観光スポット? ハワイのどこにそんな魅力があるんだろうな」
「孝は一回ぐらい海外行った方がいいよ。おすすめリスト作ってやろうか、死ぬ前に」
頬杖をついた孝がため息まじりに「果ちゃんには?」と聞いてくる。俺は間髪入れずに「まだ言ってない」と答えた。
それは俺にとっても、一番に頭を抱えたくなる問題だった。
果――――俺の妹は、俺と7つも歳が離れている。もうお互いにいい歳だからそれくらいの差はあまり気にならないが、子供の頃は少し遠く思っていた。なんせこっちが高校を卒業するころ、あいつはまだランドセルを背負っていたのだ。何が言いたいかというと、結局のところそんな妹を可愛く思わないはずがないという話である。
「まあ、大丈夫だろう」と俺は腕を組んで言った。「あいつ、最近彼氏できたし」と。
2
結論から言えば全く大丈夫ではなかった。
果はまず俺の言葉を疑い、なんてつまらないネタかと散々にけなしてきた。俺は数分考えて、確かにネタとしてはまるで面白くないし面白くない話を何度も言わされるのは誠に遺憾であると伝えた。
「なあ、果。お前の兄貴はこんな面白くもない嘘をつくやつなのか?」
「……は? いや、嘘じゃなかったら何? 嘘じゃないと、困るんだけど」
数秒、俺たちは黙った。それからおずおずと果が、「話ってこれじゃないよね? こんなドッキリしかけるために、私のこと呼んだの? デートの予定だったのに」と言った。
「それは……その、ごめんね。デート行ってきていいよ。ただドッキリではないから……うん、まあ。言ったからな。ちゃんと俺、言ったからな、死ぬよーって。言っといたんだから後で文句言うなよ……。お前、すぐ『聞いてない』って怒るからな……」
不意に立ち上がった果が、俺の肩をグーで殴った。俺の中で妹は非力かつ守るべき存在だったのに、その瞬間だけはゴリラと見違えた。
「はああぁ?」
こんなに全力の『パードゥン?』はどの言語でも聞いたことがなかった。俺は少し腰を抜かしながら、「落ち着け」となだめようとした。しかし妹は止まらない。
「ふざけんじゃ、ねえぞ、このヤロウ」
またグーで殴られた。しかも実の妹に『このヤロウ』とまで言われてしまった。あんなに小さくて可愛かった妹に。
「どうせ石本さんとグルのドッキリでしょ! その手には乗らないから。早く『嘘でした』って言ってよ。三秒以内に言わないと怒るから。ほら、早く!」
「ああそうだ、何か困ったことがあったら孝に言えよ。あいつもこのこと知ってるから」
振り上げた手を、果は下ろし、ただ途方に暮れているようだった。
「嘘でしょ?」
「嘘だったらよかった。俺もそう思うよ」
「ヤダ」
「わがまま言うなよ、もう大人だろ」
「死んじゃうの」
「半年だ」
呆然としながらも果は両手で、俺の腕を掴んだ。それから小さな声で、「どこが悪いの?」と聞いてくる。俺は医者からされた説明を、そのまま妹に伝えた。果はしばらくうつむいていたが、そのまま俺の胸に顔をうずめて泣いた。普段は『兄貴』と呼ぶ妹が、まるで子供の頃のように「嘘だって言ってよ、お兄ちゃん」と言って泣いた。
ああ、これは存外に堪えるなぁ。
そう思いながら俺は果の頭を撫で、「ごめん」とだけ呟く。どんな慰めも意味をなさないと知った。本当に、無力だった。
昔からそうだ。俺は妹の前でいつも無力だった。
3
両親が事故で死んだとき、まだ学生だった俺はランドセルを背負った果の手を握りながら、ただ途方に暮れていた。『ねえおにいちゃん』と不安そうに果が俺の顔を見上げていた、あの日のことを今でも鮮明に思い出せる。
『お父さんとお母さんは?』
燃えたよ、と俺は答えた。死んだ、というよりはいい表現のように思えたが、今にして思えばひどい説明だった。
『帰って来るよね?』
お盆には、と言った俺はその時ひどく混乱していた。その後で「もう帰ってこないよ」と言って、うずくまった。嗚咽を漏らして泣いた。
俺は両親の死が悲しかったんじゃない。泣くほど怖かったんだ。これからのことが、不安でしょうがなかったんだ。
十八歳の幸田至は、うずくまってひたすら慰めを待った。『大変だね、これからのことは心配しなくていいからね』と言ってくれる誰かを待った。そうして数秒、数分だったかもしれない。妹が俺を呼ぶ声を無視し続けた。
気づいた時、妹は呼吸困難を起こしていた。
十八歳の俺が膝を折るほどのストレスを、十一歳の果なりに受け止めて耐えようとしていたのだ。唯一頼るべき兄貴は自分だけがつらいような顔で声を無視し続ける。そんな中で果は、過呼吸発作を起こして倒れた。
俺は果を病院に運んで、その寝顔を見ながら
しばらく諸手続きで忙しかった。が、そのおかげで遺族年金も保険金も受け取ることができた。両親の遺した預金残高も、決して少なくはなかった。それでも俺は大学に行きながら働き、必死になって金を稼いだりした。それは俺自身が大学を卒業したかったということと、俺だけが大学に行かせてもらって果からその選択肢を奪うのはあまりに情けなさすぎる、という思いがあったからだ。だからそれが果のためかと言われればそれは違うと思う。俺が俺の自己満足のために、時間を費やしただけの話だ。
4
朝起きた果が、目を真っ赤に腫らしながら開口一番「体調は?」と聞いてくる。俺は苦笑しながら「悪くはないよ、昔のことを思い出してた」と答えた。
「やりたいこととか、行きたいとこ、ある?」
「どうした、泣き虫タイムは終わりか」
「そうだよ。あのね、どう考えても私が慰められてるのおかしいでしょ。私が兄貴を慰めるはずでしょ」
「なるほど」
二人分の朝食を作りながら、俺はぼんやりと考える。やりたいことも、行きたいところも、あらかたやったし行った。そんな人生だった。だから俺はなかなか恵まれている。
初めて海外に行ったのは、果が中学二年生の時だった。休み明けに周りの友人に話せるような何か大きなことを、と完全なる余計なお世話だったが、夢中になったのはなんと俺の方だった。どうやら俺は、見たことのないものや体験したことのないものがことごとく好きなようだった。ミーハーというか、とにかくどこへ行ってもはしゃぐのは俺だった。
そうだ、俺が尻に火が付いたように働いていた理由は、その頃からもっぱら旅行へ行くためだった。事あるごとに果を連れまわし、俺は行きたいと思った場所には必ず行った。英語以外の言語も学び、自分でもどうかと思うほどの情熱で名所も穴場も行き倒し、写真を撮った。
果には迷惑をかけた、と俺も一応反省はしている。
で、と果は顔を近づけてきた。
「どっか、ないの? 行きたい場所」
「ハワイかなぁ」
「了解。私、飛行機取るから。準備しといて」
「ん? んんん? 今からか?」
「兄貴だってよくやるじゃん、弾丸ツアー。よく私のこと連れまわしたくせに」
そりゃそうだけど、なぁ。
俺は頭をかきながら、「コノミちゃあん」と妹を呼ぶ。しかし妹は携帯電話の画面を真剣に見て返事すらしなかった。
「飛行機のチケット、取れるのか? いつも俺が全部やってたろ」
「うるさいよ、兄貴。私が1人で飛行機のチケットも取れないようじゃ、残していくのも不安でしょ。できるできる。兄貴はただ下着の準備でもしてればいいんだよ」
そう言って妹は親指を立てて見せた。言われたとおり、俺は自分のパンツの心配だけをしておくことにする。
そうして果は盛大にチケットを取り間違い、俺たちの弾丸ツアーはハワイではなくオーストラリアになった。
ユーカリを貪り食っているコアラを見ながら「俺はコアラよりパンダ派だな」と言うと、妹は泣いた。帰国して数日で果はまた飛行機のチケットを取り、今度は俺を中国に連れて行きパンダを見せた。ハワイじゃねえのかよと思いながら、『どうだ』という顔をしている果の肩を抱き寄せた。なんということだろう、俺の妹はパンダよりも可愛かったのだ。
と、いう一連の話を孝にすると「じゃあお前は一週間のうちに二か所も海外に行ったの? 僕は一度も日本を離れたことがないというのに?」と言われた。
「誘えばよかったな。ノノちゃんも」
ノノちゃん、というのは孝の嫁だ。俺たちは三人とも、小学生からの幼馴染だった。まさか二人が結婚するとは、などと全く思わない。昔から孝とノノちゃんはアツかった。
「終わった話みたいに言うなよ。今からでも僕たちを連れて海外に行けよ」
「お前、海外嫌いじゃなかったっけ」
「嫌いだよ。でもお前が生きてるうちに行かないとマジで今後一切そういう気にならなそうで怖いんだよ」
「……大丈夫だよ。子供が大きくなればうるさいほどせがまれるだろうし、そういう気にもなるだろ。今は子供が小さいから難しいって、孝も前に言ってたじゃないか」
孝のところの男の子は、まだ一歳半だ。いつかは家族旅行で海外にでも行くだろう。今は、その時期じゃない。
ぼうっと空を見上げた孝が「お前、調子は」と聞いていた。「元気だな、余命四か月の割には」と俺は答える。それから、俺も同じように空を見上げた。桜も満開の季節、つかの間の青空が綺麗だった。
予定では夏ごろ命が尽きるはずなのだが、俺は不自然なほど元気だった。時折ある呼吸苦も、花粉症より辛くはない。
「お前、実は死なないだろ」
「それは俺も考えた。これだけ大風呂敷広げて『死にませんでした』も結構恥ずかしいものがある」
「煙草やめろよ」
「ここまで来て?」
「意味がわからんよ至くん」
言いながら孝は、ガムをパッケージごと渡してきた。どうやら煙草なんかの代わりにガムでも噛んでいろ、ということらしい。俺はそれを一枚口に入れて、噛んだ。何とも形容しがたい、甘ったるいにおいがした。パッケージを見ると、どこにも味は書いていない。控えめにさくらんぼの絵が描かれているあたり恐らくチェリーの香料を使っているのだろう。そう思うとさくらんぼの味に感じられてくるから不思議だ。
「これ、どこで売ってるんだ?」
「僕はコストコで買った」
「ああ……俺、会員じゃないからな」
「ドンキにも売ってたぞ」
へえ、と俺は呟いてガムを膨らませる。「それ風船ガムだったのか」と隣で孝が驚いていた。ガムは膨らみ、ぱちんと心地いい音で割れた。
口の周りについたガムをはがしながら、「ありがとな」と俺は言う。
「ガム?」
「ああ。それと、」
孝の顔を見ないまま、俺は「昔お前にさ、『洋楽はモテる』とか言われてさ、俺の人生は面白くなったよ。別にモテなかったけどな。……まあ、あと色々」と目を細めて笑った。孝は何も言わない。
ガムを噛みながら、俺は歩き出した。孝をその場において。
それから振り返り、「でも俺がマイケル歌った後で『洋楽はないよね、狙いすぎだよね』ってお前が言ったのは絶対に許さないからな。あーあ、大勢のまえでお前にもマイケルジャクソンを歌わせてやればよかった。俺の人生の後悔と言えば、それだよ。来世まで覚えてろよ、絶対やらせるからな」とデカい声で言ってやった。
しばらく何とも言えない表情をしていた孝が、一歩踏み出して「至っ」と呼んできた。
「死ぬなよ。なあ、死ぬなよ、お前……」
俺は驚いてしまって、「死ぬよ」と答えてしまった。それからすぐに笑顔になって、「馬鹿だな、『死ぬな』って言われて死ぬのやめられるんなら俺もとっくにそうしてるよ」と言い返す。そして踵を返し、今度こそ孝を置いてその場を去った。
「そういうこと言うなよ、お前もさぁ」と、聞こえているはずもないのに呟く。声が震えた。笑顔を上手く、作れなかった。
5
それから四か月、俺は普通に仕事をして、飯を食って、寝て、起きて、とにかく普通に生活をしていた。病院に行けば医者から「元気ですね」と言われる始末で、余命が半年伸びた。「余命って伸びるんですね」と俺はまた感心した。
それから一か月後、俺は倒れて病院に運ばれた。
その日は朝から体調が思わしくなかった。走った後のような息苦しさと、二日酔いのような気持ち悪さがあった。俺は大人しく机に向かって仕事をしながら、ガムを噛んでいた。するとガムが思いのほか綺麗に大きく膨らむもので、どこまで膨らむものかとワクワクしながら息を吹き込み続けた。そのあと吐いた。
今まで感じたことのない立ち眩みで床に這いつくばり、気道が狭くなっていくのを感じた。呼吸の仕方を忘れたようになって、力いっぱい床を叩いた。その手にも力が入らなくなり、何も殴れないのを我ながらぞっとして見た。
薄れゆく意識の中で、異変に気付いた果が部屋に入ってくるのが見えた。
目が覚めた時、自分が生きていることにびっくりしながら『死因が風船ガムの限界に挑戦したことになるところだった』と本気で思った。本気で思ったし、医者にも「風船ガム膨らましすぎたのがいけなかったんですかね」と聞いた。医者は淡々と、「関係ないですね」と言った。関係ないらしかった。
そのまま入院が決まり、病状悪化を抑える程度の治療が始まった。俺はまさかそのまま入院しっぱなしだとは思わず、看護師さんに「着替えって一応五日分ぐらい持ってきてもらった方がいいですか」と聞いた。「毎日来てくれるご家族がいるのなら何日分でもいいと思いますよ」との返答を聞いて、どうやら長期戦らしいことを察した。正直に言って、俺は六日以上毎日違う服を着られるほどのバリエーションは持っていない。果に「悪いけど俺の服、持ち帰って洗ってもう一回持ってきてくれる?」と頼むしかなかった。
果と孝が一緒に面会に来た。二人はとにかく俺に厳しかった。「普通、倒れるまで呑気にガムは噛まない」とか、「朝から調子が悪かったのならすぐに言え、自分の立場をわかっているのか」だとか言っていた。『風船ガムの限界に挑戦していた』とは口が裂けても言えない雰囲気だった。
俺は場の空気を変えようと、果に「彼氏とはどう?」と聞いた。
「は? 今、そんなのどうでもいいよね」
「どうでもよくないだろ。むしろ全然どうでもよくない。お前が兄貴にばかり気を取られて彼氏に逃げられたなんてことになったら俺だっておちおち……まあとにかく、上手くやるんだぞ」
「兄貴は自分のこと気にした方がいいって。いいの? 独身のままで」
「相手がいないんだなぁ……。いいんだよ、俺のことは」
ため息をついて、「俺はお前のウエディングドレス姿を見るのが夢だったのに」と呟いた。それは冗談でなく、本気だったし本心だった。
果はじっと俺の顔を見てから、荷物をその場において踵を返す。
「私、ちょっと彼氏に結婚しようって言ってくるね」
そう言って、本当に病室を出て行った。俺はそれを見ながら「誰に似たんだろうね」と孝に尋ねる。孝は苦笑して、「いや果ちゃんはお前にそっくりだよ」と言った。
入院生活は概ねずっと暇だった。毎朝決まった時間に起こされては体温計と顔を拭くタオルを渡され、寝ぼけているうちに血圧を測られる。覚醒しない頭でぼんやりと運ばれてくる朝食を見て、『なんでこうも食欲のわかない盛り付けなんだろう』と思う。その後はずっと暇だ。何もやることがない。談話室にあった漫画は全て読んだし、特別に許可をもらって持ってきたパソコンで仕事も終わらせた。
「暇だなぁ、ハタケヤマさん」と、担当の看護師さんによく愚痴った。看護師さんは笑って、「幸田さんは元気ですね!」とベッドの横のゴミ箱を片付ける。
「そういえば、この病院って屋上とかあるんですか?」
「ありますよー。階段で上がれます。でも、」
朗らかに笑いながら、しかし半分本気の顔で看護師さんは「飛び降りないでくださいね」と言った。
俺は煙草とライターを持って、屋上へ行ってみることにした。もちろん、バレたらお説教のうえ看護師さんたちのブラックリストに載ることだろう。屋上に煙感知器などついていたらどうしようかとも思ったが、もともと職員の喫煙所であったのか、むしろ灰皿など置いてあるぐらいだった。
屋上の戸を開けると、そこには先客がいた。まだ十代ぐらいの女の子だ。こちらに気付き、おっかなびっくりという感じで頭を下げた。俺も、軽く会釈をする。怖がられたくはないので、少し離れたところで空を見た。少女はどうしていいかわからないという顔をして、その場を後にした。
場所を奪ってしまったうしろめたさを感じながら、俺はその場に腰を下ろす。屋上には金網が張り巡らされていた。飛び降りることなど元から不可能だ。あの看護師さんは、冗談でそんなことを言ったのだろう。
俺はその日、久しぶりに煙草を吸った。何のためになのか、自分でもわからないが。
それから毎日、屋上へ行った。空を見て、煙草を吸った。
俺は入院してからというもの、自分が存外精神をやられていることに気付いていた。周りには老人しかおらず、誰もが死に向かっているようだった。毎日辞世の句を考えては発表するじいさんと同じ部屋だ。それを『すごいすごい』と言いながら、
酷なほど空が綺麗だ。
看護師さんから『飛び降りないでくださいね』と言われた時、なぜもうすぐ死ぬだろうにわざわざ飛び降りてまで死ななければならないのかわからなかった。少しずつ、少しずつ身に染みてしまう。
死にたいわけじゃない。ただ、ここで終われればその方が綺麗だ。
屋上には金網のフェンスがある。飛び降りることなどできない。それがまるで、死ぬという選択肢すら取り上げられたようで悔しかった。
もちろん、本当に死のうと思えばいくらでも方法はある。俺は難癖をつけて駄々をこねているにすぎない。そんなことは自分が一番よくわかっていた。俺は病室に戻ろうと、青空に背を向けた。
と、俺の目の前にいつか見た少女が立っていた。俺はまさか自分以外の人間がいると思わず、仰天した。
彼女は必死に何か、手ぶりだけで俺に伝えようとしていた。どうやらそれは、『タバコをください』ということらしかったが、どう見てもその子は未成年だ。
喋ることができないのだろうか、とにかくその必死な目に、俺も何か応えなければならないと思った。
かといって煙草を渡すわけにはいかない。俺がここで喫煙しているのが許されているのは――――誰も許していないが――――ひとえに誰にも迷惑をかけていないからだ。この子に悪影響を与えるわけにはいかない。
俺はちょっと手間取りながら、チェリーのガムを一つ差し出した。彼女は首を横に振ったが、俺も負けじと首を振り返した。根負けした様子で、その子がガムを受け取った。俺はほっとして、逃げるようにその場を後にした。
その子は次の日も屋上に来た。俺は用意していた画用紙に、『タバコはよくない』と書いて見せる。その子はそれを読んで、にこにこと笑った。
『私、耳は聞こえます。喋れないだけです。ありがとう』と彼女は、携帯電話の読み上げ機能を使って言う。「ああ、そうなんだ」と俺は納得してうなづいた。
それが、彼女との――――
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