第5話 ほんとうの朱希

朝になり、私は昨夜のことを思い返していた。


朱希ちゃんとの刺激的な…いや、もはや言い訳はしまい。

昨夜のアレは確かにやりすぎたかもしれない。

同性とはいえ、下着姿を晒して、あまつさえ、胸や太ももに近い場所まで拭いてもらった。

だからいくら熱に浮かされていたとしても、また汗で気持ち悪くてどうしても裸になりたかったとしても、朱希ちゃんに肌を晒して拭いてもらう、という行為は、かなり煽情的で刺激的で…。

その行為に、何も期待していなかったと言えば嘘になる。


言うのが途中になってしまったが、その『刺激的』な夜のあと、少し気まずい思いをしつつも、熱も下がり足の痛みも引いた私は、なるべく明るく朱希ちゃんに挨拶しようと思っていた。

そうすれば、照れたあの笑顔をまた向けてくれるはずだ。


そう思っていた。

そして、元気になったことを喜んでくれて、また帰ってきたら、いつものようにいろんな話をしたり、宿題を教えてあげたりできる、と思っていた。


そう。

軽く考えていたのだ。



私は、朱希ちゃんの本当の心の底に、何があるのかを考えていなかった。

私こそ―あの現場を見た私こそ、朱希ちゃんのちょっとした変化に気を配っていなければならなかったのに。


まさか、あんな事が起きるなんて、想像していなかった。



スカートを穿き、着替えを済ませて食堂に行くと、すでにご両親が準備をされていた。


「おはようございます」

「あぁ、朽木さん、どうぞ。朝食ができていますよ」

「すみません、いつも甘えてしまって」

「いいや、いいんですよそんなこと。足の具合はいかがですか?朱希のせいで怪我をさせてしまって本当に申し訳ないですねー」

「いいえ、そんな。私の方こそこんなにいい旅館でお世話になって…。それに具合もだいぶいいので…」

「そうですか…。いやー、それにしても驚きました…」

「…?何がですか?」

「いえ、朱希ですよ。朱希がこんなに他人に興味を示すなんて珍しいんですから。私等にとっても嬉しい驚きですよ」

「え?そうなんですか?」

「えぇ。友達を連れてきたことなんて、もう何年もないですね」


意外だ。

あんなに人懐っこい性格の朱希ちゃんなのに…

単にそういう性格なのかもしれない。

私だってそうだったから…


いや、でも…


そう思い、ちらり、と初めて朱希ちゃんを海で見た時の光景がよみがえる。


暗い海に、無心に歩を進めていた朱希ちゃん―


それと何か関係があるような気がして、もう少し話を聞こうとすると…


「―お父さん。その話は詩音さんにしないでって言ったでしょ!」


朱希ちゃんが制服に着替えて食堂に入ってきたのだが…


私に対して話していた口調とは全く違う、とげを含む、突き刺すような冷たい感じを含む言い方だった。


それを聞いて済まなそうにするお父さん。


「あ、あぁ、ご、ごめんな朱希…」

「お父さんは口出ししないで!詩音さんは私の恩人なの!だから詩音さんには私からいつか話すって言ったのに!」

「だ、だからごめんって…お、お父さん心配でつい…」

「私が心配かけてるのは分かってる!でも…これは、これは私の問題だから…私がどうにかしないとダメだから…」


いつもと違う。なんだ?

どうしたんだろう?


凄く不安でいっぱいな感じがする。

いったい、何があったんだろう…


「…朱希…ちゃん…?」


私の声に、ようやく我に返ったように私を見る朱希ちゃん。

気まずそうに私を見て…


「今のこと…聞かなかったことにしてください、詩音さん。」

「…え…?」

「…ごめんなさい…」


短くこう言って、さっと朝食を食べて学校へ行ってしまった。



訳が…分からない。

お父さんを見ても、かぶりを振るだけで、私は一人取り残されたように感じた。


お礼も―昨夜はちょっぴりやりすぎたと、笑って許してもらうのも、言いそびれてしまった。



いつもと違う、朱希ちゃんの様子。

それが、どうにも私を落ち着かせなかった。

今朝の会話が気になってしまう。

それは、どう考えても、朱希ちゃんが抱える大きな問題と、関係があるはずだから…。


とにかく、朱希ちゃんが帰ってきたら、話をしたい。


ただただそう思い、ギプスをはめた左足を眺めながら、朱希ちゃんの帰りを待った。





「―っ!…寝ていたのか…」


気が付くと寝てしまっていた。

時計を見ると、いつの間にか夕方の6時になっている。


朱希ちゃんの帰りを待つのが、こんなに待ち遠しいなど、考えなかった。

また…同時に、こんなにも心が締め付けられるように苦しいなどと、夢にも思わなかった。


いつもは、朱希ちゃんの帰りは同様に待ち遠しかったけど、それは楽しみが先行していたからだ。


でも―今日は少しだけ、違う。


おそらく、朱希ちゃんにとっても…そして、私にとっても避けて通れない問題を、直視しなければならないだろうから。



でも―


私が、逃げてはいけない。


まだ、私の半分くらいしか生きていない朱希ちゃんが、自らの命を天秤にかけるほどの、深い悩みを抱えているのだ。


それを、私が―


朱希ちゃんに恋する私が、逃げるわけには、絶対に行かないんだ。


そう思った。




様子がおかしいと思ったのは、それからもうしばらく経ってからだ。

8時を過ぎても帰ってくる気配がない。


チク、チク…と動く秒針を見つめる。


いつもはこんなに帰りが遅くなったことはない。

私が病院にいた時も、もっとずっと早く来てくれていた。


いや、でも朱希ちゃんのことだ。

部活動などをずっと私のために我慢していてくれたのかもしれない。

そう思っていると、部屋のふすまの向こうから、ご主人の声がかかった。


「―朽木さん。いらっしゃいますか?」

「は、はいおります、どうぞ」


急には動けないため、ご主人に入ってきてもらう。

どうかしたのだろうか、と思っていると、かなり焦った様子でご主人がこう言った。


「あ、あの、あ、朱希から何か連絡はありませんでしたか?」

「え?あ、朱希ちゃんからですか?いえ、ありませんが…」

「そ、そうですか…おかしいな…」


ひょっとして…


嫌な予感がした。


胸を焦がすような、とても嫌な感じだ。


「あの…朱希ちゃんは部活か何かで遅いんじゃ…?」


念のため確認する。

そう、その可能性の方が高いのだから。

何も心配することはない。


そう思いたかった。


だが…


「いいえ、朱希は高校に入ってから、ずっと部活には入っていないんです。いつも放課後になるとすぐに帰ってきてましたから…こんな時間になるまで帰ってこないなんて在り得ないんです」

「な…」

「携帯に電話をしても一向に出ようとしませんし…本当に何かあったんじゃないかと…」

「…ご主人、今日は学校で何かあると聞いていますか?」

「いえ、特には。いつもより遅くなるときは必ず前もって連絡を入れる子なので…」

「…まさか…」

「朽木さん!あ、朱希は…朱希は…」

「落ち着いてください。まだ何かが起きたと決まったわけではありません。単に帰りが遅れているだけなのかもしれませんので」

「で、でも…」

「ご主人は奥様と一緒に待っていてください。私、少し見てきます」

「で、でもその足じゃ…」

「大丈夫です。松葉づえでも速く走れますから。9時になっても帰ってこなければ警察に連絡してください」

「―け、警察…」

「万が一のためです。私も一生懸命探します。」

「―お、お願いします…」

「はい。では、行ってきます」


松葉づえを持ち、焦りを感じながらも、おちついて行動しようと言い聞かせる。


大丈夫だ。

きっと、なんでもない。


そう思って、全速力で松葉づえをついた。



はぁ、はぁ、はぁ…


単に走るのとは全く違って、二の腕に信じられないくらいの負荷がかかる。


両脚で立ち、歩き、走るとはなんと素晴らしいことなのか、とこんな時にそんなことを考えてしまう。


もう9時過ぎだ。

海も、居酒屋の通りも、駅前も探したが見つからない。


ざわざわとにぎわう駅前通り。

普段なら、何気ない光景だと思うだけだ。


しかし今は、このざわめきの中に、ひょっとしたら朱希ちゃんがいるかもしれない、と思い、気が気ではない。


すると胸で携帯が震えた。


―!!


焦る手つきで電話に出る。


「もしもし、朽木です」

「朽木さんですか!?朱希は、朱希はいましたか!?」

「…いいえ…その様子だとまだ家には…」

「帰ってきていません…」


腕時計をもう一度確認する。

もう9時半だ。


覚悟を決めてご主人に伝える。


「…ご主人。警察に捜索願を出してください」

「…は、はい…」

「私は引き続き朱希ちゃんを探します。見つかったら連絡するので、警察への説明をお願いします!」

「わ、分かりました!あの、今朽木さんはどちらに…?」

「駅前を探しています。もう少しこの辺を探しますので」

「くれぐれも無理をしないでください」

「…ありがとうございます…」


はぁ…。


よし。


絶対に見つける。


待ってて、朱希ちゃん。


話したいことがあるんだから。




それからしばらく探していると、ふとゲームセンターのあたりで、ふと立ち止まった。


何か…聞こえる…


よく耳を澄ますと…かすかに男女が言い争う声が聞こえた。


「―だからあっち行って!」

「ふざけんな!さっきから下手に出てりゃいい気になりやがって!いいからこっちに来い!」

「ちょ、や、やめてよ!」


―朱希ちゃん!!!


間違いない。

この声は朱希ちゃんだ。


なぜこんな場所に一人で?


いいや、今はいい。


とにかく助けなければ。

相手の男も気が立っているし、何をするか分からない。


そう思って、声がする方向を急ごうとしたとき、朱希ちゃんの悲鳴が聞こえた。


「―朱希ちゃん!!!!」


続いて車のドアがバタン、と締まり、急発進する音が聞こえた。



朱希ちゃん、朱希ちゃん、朱希ちゃん!!


一秒が十秒にも百秒にも感じられる中、ようやく声がした場所まで出てみると、すでにそこには二人の姿は、なかった。


しまった!!遅かった…!!!


なんとか手がかりはないか。

目撃していた人を探し、その人から車が去っていった方向や、男の特徴を聞いた。

運がいいことに、ナンバーを控えていた人もいてくれた。

その人たちには警察に連絡してもらい、私はすぐに朱希ちゃんの行方を追うことにした。


祈るような気持ちで、タクシーを捕まえて運転手に頼み込む。

びっくりしていたが、事情を理解した彼は急発進して車を出してくれた。


―間に合って!!―


ひたすら、祈るしかなかった。


車の中で、運転手の彼も私も、血眼になってそのナンバーを探す。


警察にも今頃は連絡が届いている頃だろうか。

しかし警察の捜索が始まるのを待っていられない。


―その間にも、あの男は朱希ちゃんに…


ぎり、と奥歯をかみしめる。


すると、ふとそのナンバーの車が脇の道へ左折するのが見えた。


「―おじさん!!今の交差点左!!」

「―あいよ!!」


ぎゅるるるる、とすごい重力をかけながら交差点を曲がる。

凄まじいエンジン音がたちこめる車内で、まっすぐに前を見る。


―見えた!


あの車だ。間違いない。


とても遠くに、車が見える。

すると、再び曲がるのが見えた。

今度は右折だ。


「姐さん、あの車だね?」

「ええ、このまま行って」

「あぁ任せとけって」


ブゥン、とエンジンを吹かしてさらに距離を詰める。

やがて交差点に差し掛かり、そこを曲がる。


しかし―


「―ど、どっち?」

「しまった…」


右折先のその先は十字路となっていた。


「どっちに行きやがった…?」

「…おじさん、ありがとう。ここでいいわ…はい、お金」

「あ、あぁ…。姐さんはどうするんだい?」

「降りて探すわ。おじさんは警察に連絡して。この辺に違いないって。」

「わ、分かった。姐さん、くれぐれも気ぃ付けよ」

「…ありがとう」


血が、煮えたぎるのが分かった。

ぐつぐつぐつ、と、お腹の奥底で怒りが噴出してきた。


許せない。

車で無理やり連れ去るなんて。


最悪のことが起きる前に、なんとしても探す!


タクシーから降りて探そうとすると…


すぐ近くで、声が聞こえた。


「―めてー!!!」

「はははははー、叫んでもだれもこねーよ!!!」

「いやぁー!!!」


―!!!間違いない!!!


「朱希ちゃーん!!!!」


声の方向へ、力の限り走った。

松葉づえがもどかしい。

己の怪我を今日ほど呪った日は無かった。



「―ここね!!朱希ちゃん!!!!」


たどり着いたのは、もう使われていないアパートだった。

一室だけ明かりがついている。


悲鳴は断続的に響いていた。

朱希ちゃんの、悲痛な叫び声だった。


足が重い。

階段が、うまく登れない。

くそ!!なんのために剣道で鍛えてきた、朽木詩音!


声を頼りに、両手の感覚も無くなっている中でようやく底にたどり着き―


思いっきり、ドアをけ破った。


ドガン、バタン!


派手な音が響き、ついさっきまで響いていた朱希ちゃんの悲鳴と男の下種な笑い声が一瞬止まった。


部屋の中が、だんだん見えてくる。


映ったのは…


制服も、下着もボロボロに引きちぎられ、両手で身体を隠すように小さくなった朱希ちゃんだった。


バッと顔を上げて目が合う。


「朱希ちゃん!!!!」

「―し、詩音さん!!!だ、だめ見ないで!!」


ボロボロの下着。

破れた部分から覗くのは…


『平らな』胸と…少しだけ膨らんだ、股間だった。

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