第5章 命は巡るもの

110 夜風を信じて①

 玉響たまゆらはバケツをひっくり返したようなどしゃ降りの雨の中、幼い女の子の手を引き走っていた。一歩後ろからまだ一歳にも満たない息子を抱えてついてくる若い母親の子どもだった。

 頭上でひっきりなしに野犬の大量出没と港島への避難を告げる市中放送に急かされて、自宅を飛び出した矢先にこの母子おやこと出会った。赤ん坊が雨に濡れないよう手間取る母親を見かねて、その横で不安そうに佇む長女のめんどうを引き受けたのだ。

 近所を散歩中、何度かあいさつを交わしただけのおばあさんに手を握られても、人見知りしない良い子だった。


「だいじょうぶ。もうすぐ橋よ」


 玉響はふくれ上がる不安と焦燥を抑えつつ、母子を励ました。

 豪雨で白くけぶる視界に自分たち以外の人影は見当たらない。ひざが悪く、遠い港島まで行くよりは家に閉じこもっていたほうが安全かと悩んでいた時間を悔やむ。

 他の住人はもう先に中ノ島へ渡ったか、老人の多い旧市街島民は留まることを選択したのかもしれない。

 だけど中ノ島に着きさえすれば、橋にほど近い診療所で働く夜風ときっと会えるはず。あの子がいてくれたら多少無理をしても港島まで辿り着ける勇気が持てた。

 雨音に混じって恐ろしいうなり声は聞こえないか。白いもやの向こうに地を這う影は見えないか。玉響はドクドクと胸を叩く鼓動を感じながら周囲を警戒し、橋に差しかかる。


「おばあちゃん……!」


 突然、手を繋いだ女の子がぎゅっと強く握り返してきた。玉響はハッと目を見開き足を止める。


「なんてこと……」


 後ろで若い母親が息を呑んだ。

 橋の中腹、ぷくりと曲線を描く広場付近に二匹の野犬がいた。いや、奥――中ノ島方面からのそりともう一匹が姿を現す。

 もうこんなところまで入り込んでいたのか。そもそも、どこかにねぐらと繋がる穴でもあって街中に直接侵入したのかもしれない。

 玉響は女の子を背にかばいゆっくりと後退しつつ、まだこちらに気づいていない三匹の野犬をつぶさに観察した。


「妙だわ」

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