87 緊急増援要請②
だからこそはじめて見た彼の苛立ったような顔が網膜に焼きついた。そしてそれは悲痛を湛えた色へと変わり、紡がれる。
あいつ、と――。
まるで他人事のような口振りだった。野犬騒動で再会し、酔った男たちや嫌がらせする女たちから助けてもらい、ビクフィファームでデートをしたのも全部朝陽だ。他の誰かだったなんてあり得ない。
悩んだ末に出した二重人格という答えも違うとなると、いよいよ手詰まりだった。
「あ、待って。それってもしかして――」
「夜風。遠慮はするな。お前さんには断る権利がある」
なにごとか言いかけた氷人の言葉を遮って響いたのは上司の声だった。「悪いが聞かせてもらった」と言いながら裏口から出てきた上司は、夜風を背にかばうように氷人の前に立ち塞がる。
ローレライ治癒団服のロングテールがはみ出す黒い上着を羽織った背中が、いつもより大きく見えた。
「うちの治癒師はなにがあっても自己責任です、っつう誓約書にサインした戦士じゃない。上司の俺を通さずいきなり本人を連れていこうとするのはやめてくれないか」
「確かに正式な手順通りじゃない。だけど緊急性の高い場合のみ、ローレライの治癒師は本人の意思確認の上実動隊の要請に応じることとされています」
上司の指摘にも氷人はまったく動じた素振りを見せなかった。だが判断を委ねるように一歩、二歩と距離を置き、目だけで夜風に問う。
その視線を追うように振り返った上司は憮然と唇を曲げていた。
唐突に理解する。マネージャーは夜風に逃げ道を示してくれたのだ。それと同時に、氷人が持ってきた話はローレライ治癒団の仕事とはわけが違うことを改めて教えてくれた。
下手をすれば命を落とすことになる。それが実動隊の、朝陽がいる場所だ。
氷人がちらと腕時計を見た。
「夜風。増援部隊はあと四十五分で離陸する。すべてはきみ次第だ」
時間制限を口にする氷人を上司は咳払いで咎めた。だが時間がいつまでも止まって待ってくれないものだと夜風も理解している。すべての気持ちに整理をつけるまで立ち尽くしていたら、人生はなにもせずに終わってしまう。
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