86 緊急増援要請①

 夜風は戸惑い、上司の顔色をうかがった。上司は軽く手を上げ「さっぱりわからん」という仕草をしつつも、休憩時間内ならいいと夜風に道をゆずる。午後の往診時間まで十分を切っていた。


「氷人さん。私に用ってなんでしょうか」


 足早にあとを追って診療所の裏手に出ると、氷人は水路を泳ぐ上司の愛ビクフィをなでていた。夜風に気づいたビクフィがそちらにすり寄っていくのに合わせ、氷人も距離も詰め夜風をひたと見据える。

 口を開くせつな、彼はすばやく周囲を警戒したようだった。


「野犬がまた出たんだ。朝陽は今、それの対処に向かってる」

「野犬……! 今度はどこですか」

「本土の山裾にある畜産農家の集落だ。すでに負傷者が多数出てる。犬種の特定が難航してるのと厄介な毒に手こずって、増援要請が出た」


 そこで氷人がいったん言葉を切った時、上司のビクフィはちゃぷんと音を立て深く水に潜っていった。


「夜風。あいつを助けに行ってくれないか。調べたらきみは一度野犬に襲われた怪我人を治療してる。俺を治療した技術とその経験からきみが適任だと判断した。俺の部下といっしょに現場に行って欲しい」

「朝陽さんを、助けに……」


 赤髪を海風に揺らす朝陽の笑顔を思い浮かべると胸が切なく締めつけられた。それは彼がまた負傷するかもしれないという不安か。想いが独り善がりでしかないと知った時の痛みか。

 治癒魔装具ではけして治らない傷口に手をあて、苦しむ夜風はいつも朝陽が残していったひとつの謎に迷い込む。


「ひとつ聞きたいことがあるんです。朝陽さんって、その、二重人格だったりしますか?」


 氷人は目をまるくしてぱちくりと瞬かせた。


「いや、そんな記録は見たことないな。俺は養成学校からの仲だけど、そういう様子も感じたことない」

「そう、ですよね。すみません、急に……」


――夜風ちゃんが本当に好きになったのは、俺じゃない。


 朝陽の声がよみがえる。あの時夜風を掴んだ力強さも表情も、真剣だった。冗談を言う朝陽はいつも笑みを浮かべているからすぐそれと気づける。

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