62 ビク丸に乗って③

 夜風は手綱を返却しようと試みたが、腕組みした朝陽はまったく取り合おうとしなかった。どんどん沖へ流れていく景色と「教えるから」という言葉に押しきられ、夜風は半ばやけそくで手綱を握る。

 その手にふわりと朝陽のぬくもりが重なった。


「いいか? 行きたい方向に手綱を引くんだ。軽くでいい。右なら右へ、左なら左の綱を」


 夜風の手ごとやさしく手綱を持った朝陽は言った通りにやってみせる。ビク丸は朝陽の手綱に合わせて、ゆったりと体を右へ左へ揺らした。


「曲がる角度はビク丸の動きを見て、引く長さと強さで調節できる。ま、そのへんは実際にやってみたほうが早い。ここまではいいかな? ……夜風ちゃーん?」

「……は、はい!? わかりました!」


 勢いで答えてから夜風はしまったと思った。説明は聞いていたのだがまったく頭に入っていない。朝陽が触れた手は日焼けしたかのようにジンジンとうずく。心臓の音が寄り添う背中から伝わってしまいそうだ。

 思わず前に逃げようとした時、トンッと軽い衝撃が背中にぶつかった。


「夜風ちゃんてほんとかわいいね」


 くつくつと背中で笑う朝陽の振動が夜風の心まで揺さぶる。そっと触れて確かめた耳はやっぱり熱かった。ドキドキすると耳が火照るだなんて自分でも知らなかったことなのに。


「そんじゃ飛ばしますか!」

「え。え。え?」


 朝陽がこぶ型の背中を軽く打つと、ビク丸は高い声で応えた。次の瞬間、夜風の握った手綱は勢いよく引っ張られて体が後方へ置き去りにされる。夏の湿った風がゴオと吹きつけてきた。


「ほらほら! 向き整えないと水上バスとぶつかるぞ!」


 乗ってきたバスが今度は中ノ島を目指して出港していた。ぽつぽつと乗っている帰りの客たちは、周遊――ならぬ暴走ビクフィが突っ込んでくるのを見て手すりからあとずさっていく。


「そんなこと言われてもおおおっ!」


 夜風は無我夢中で手綱を引きなんとか衝突を回避した。だが力が強過ぎて進行方向が九十度も折れ曲がる。それを直そうとしてまた引っ張り水上バスの運転手に冷や汗をかかせた夜風は、けたたましい汽笛に追い払われた。

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