39 急病人③

 水浸しの床を見て察したのか、朝陽の声は幼子に語りかけるようにやわらかい。それなら放っておいてくれたらいいのに。


「夜風? もしかして怪我してる? 気分悪い? なあ。ここ開けてくれ」


 カタカタとドアを揺らされるが、夜風の心は鉛でも流し込まれたかのように重く、指先ひとつ動かしたくなかった。じっとしていれば朝陽もそのうち去るに違いない。


「なあ夜風、頼む。ドア開けて。返事して」


 ところがドアを揺らす音は激しくなり、蝶番がミシリと悲鳴を上げはじめた。耳に障る煩わしさに夜風は顔を起こす。


「……出てってください。扉壊れますよ。それにここ、女子トイレですけど」


 ドアがぴたりと騒ぐのをやめ、最後にひとつカタンッと夜風に向かってわずかに傾いた。


「壊したっていい。誰に見られても構わない。夜風の無事を確認するまで俺はここにいる」

「そうやって女の子の心を弄ぶんですね」


 ドアはつかえがなくなったようにそっと姿勢を正した。


「誰にでも思わせぶりな態度を取るあなたもどうかと思います。ご自分の容姿端麗さを自覚しているなら、見合った女性とおつき合いしたらどうですか」


 朝陽は女性を大切に扱うフェミニストなのかもしれない。みんなと仲よくしたいだけなのかもしれない。そんな彼に女性たちが盲目になってしまっている。わかっている。

 だけど、握り締めた手首に爪を立てても夜風の心は止まれなかった。


「あなたがっ、こんなつまらない私なんかを構うから迷惑してるんです! わた、しだってわかってますよ……! あなたと釣り合わないことくらい!」

「夜風下がってて」


 口早に言われたそれは、自分の声の残響がひどくてよく聞き取れなかった。夜風が内心首をひねった時、目の前の扉がけたたましい音を立てて開いた。

 壁にぶつかってついに蝶番がひとつ外れたドアを押しやり、朝陽が踏み込んでくる。むすりとした彼を呆然と見上げていた夜風は、手首を取られてとっさに手すりを掴んで抵抗した。


「離してください! 誰からも好かれるあなたといるのは辛いんです……!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る