38 急病人②
夜風はさっと左手に収まる魔装具の指輪を確認して、女性を伴い駆け出した。
朝陽は動かない。自分にできることはないと弁えているようだった。本当に夜風をからかいに来ただけのようだし、すぐに帰るだろう。
「一番奥の個室です!」
後ろを走る女性研究員の案内に従って夜風は手洗い場を突っ切り、一目散に奥の個室へ向かう。
「失礼します! 治癒師です!」
相手を驚かせないように声をかけながら踏み込んだ夜風は、目をまるめて固まった。
「え……」
誰もいない。トイレットペーパーは先端が三角に折り畳まれ、使った痕跡すらない。
「あっ」
次の瞬間、夜風は突き飛ばされた。便器を抱えるようにして倒れ込みながらも、とっさに振り返る。助けを求めてきた女性研究員の冷たい微笑みがドアの向こうに消えた。
そして一拍の間もなく、大量の水が頭に降りかかった。わけもわからず、声も出ず、ただ身をまるめて頭をかばう夜風の背中になにかがぶつかった。
床を打つ軽い音。プラスチック製の、たぶんバケツだ。ふたり分の女性の甲高い笑い声が壁に反響する。
「ブスが調子に乗ってんじゃねえよ」
「ほんと、臭くて堪んないわ」
悪意に満ちた言葉と足音がやむ時を、夜風はただ待つことしかできなかった。
「……人って、見かけによらないものだね」
ようやく声に出せたのは、そんなどこか他人事めいた言葉だった。
床に転がったバケツを直し、ドアを閉めて鍵をかける。便器のふたを下ろしてそこに腰かけるまで、夜風は淡々とこなした。
ひざを抱えてうつむき、毛先から垂れる水滴がバケツの底を打つ音に耳を傾ける。水溜まりになった床はどうするんだろう。制服、乾くのかな。そんなどうでもいいことばかりが頭を過った。
瞬きも忘れて、ただ落ちていく水滴の行方を見つめる。
「夜風……?」
どれくらいの時間が経ったのだろう。ドアのすぐ向こうから男性の声に呼ばれた。夜風は顔も起こさず、朝陽だと思うだけ。いっそう強く自分を抱き締めた。
「戻ろう。着替えないと……。濡れたままはよくない」
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