27 産業医・鏡花⑤

 髪を掻き上げ落ち着きを取り戻した鏡花に夜風はうなずき返す。赤毛と聞いて思い当たる節は昨日のこと、野犬に襲われたその日の夜に泥酔していた男くらいだ。しかしまさかエリートと言われている人があんな失態を犯すはずがない。「朝陽くん」とは別人だろう。


「そう。まああたしはエンジョイ勢だったからいいけど、ガチ勢はひどい誤解するからその話は無闇にしないほうがいいわ」

「すみません。共通語で話してくれますか?」


 耳慣れない単語がふたつも急に飛び出してきて、夜風は思わず目をしばたかせた。


「ガチ勢は本気で朝陽くんを狙ってるのこと。もしくは熱狂的ファン。信者ね。エンジョイ勢は良心的なファンやにわか。イケメン拝めてラッキーって思ってるくらいの娘よ」

「はあ」


 ファンだのアイドルだのとは無縁で育ち、生返事になる夜風を鏡花はくすりと笑う。しっかり切りそろえてありながらも美しい光沢を放つ爪先で夜風の頬をつつき、いたずらっぽく目を細める。


「夜風ちゃんみたいに興味ない娘に限って、朝陽くんにハマッちゃうかもよん」

「なっ。ないです! イケメンより責任感のある誠実な人がいいです!」


 思いきり否定しようと立ち上がった拍子に、夜風は勢い余りイスを蹴飛ばしてしまった。キャスターで滑りドアにぶつかって跳ねたそれを慌てて回収しにいく。

 その姿が鏡花には動揺と映っているんだろうと思うと居た堪れなかった。


「もうっ、鏡花さん仕事しましょう! このままじゃ給料ドロボーです!」

「あら。なにがいけないの?」


 机にひじをつき、ゆったりと足を組んだ鏡花はまだ楽しげな光を目に湛えていた。


「あたしたちのお仕事がないっていいことじゃない?」


 その言葉に小さく息を呑み、夜風は左手の指にはまる魔装具たちに触れた。誰かを助けられる力がある。それは誇らしいことだけれど、その力を使わないで済むことのほうが幸せだ。

 今日はまだ一度も活躍していない魔装具を思って、夜風の胸にささやかな喜びがにじむ。


「でもねえ。そう言ってると向こうから来ちゃうのよねえ」

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