第1章 どいつもこいつも!

03 野犬騒動①

「逃げろーっ! 野犬だ!」


 夜風よかぜが中ノ島から旧市街島に架かる橋を渡っていると、全身黒い服をまとった男がひとり喚いていた。男は旧市街島のほうから走ってくる。暗い衣服に反して太陽のように燃える長い赤髪をみつあみに結い、肩に流している様が印象的だった。

 ローレライ治癒団の治癒師として旧市街島に往診へ行く途中だった夜風も、橋の欄干でのんびりくつろいでいる大勢の観光客も、そこに混じる地元の通行人も、走ってくる男の言うことが理解できずぽかんと見つめるばかりだった。

 その時ふと、夜風は赤髪の男と目が合った。気のせいだろうか、その瞬間男は目を見開いて陽光に煌めく水色の眼差しを夜風に注ぐ。逃げろ、と再び言われた気がした。しかし混乱と緊張で夜風の五感は固まり、背後を振り返った男に合わせて踊る火の鳥の尾羽のような赤髪をただ見つめていた。

 すると、男の体越しにぬっと黒い影が現れた。それは男の肩に噛みついて、石畳の地面に押し倒す。

 女性の甲高い悲鳴が空気をつんざいた。


「野犬だ! 野犬が出たぞ! 逃げろお!」


 赤髪の男ともみ合う野犬から皆一斉に身を引き、一拍の緊張の間を置いて叫び、走り出す。ぐるぐるとうなりを上げ、男の肩を食いちぎらんと激しく頭を振る野犬の獰猛どうもうな姿が、人々を恐怖に駆り立てた。

 それは夜風も例外ではなかった。手が震え足がすくみ、目の前の恐ろしい光景から目を背けたいはずなのに眼球ひとつ動かせない。しかし夜風をその場に縫いとめるものは恐怖ばかりではなく、胸の奥底で心は治癒師としての使命感に奮い立っていた。


「た、助けます! きっと助けますから!」


 セキュリティ部の実動隊員じゃあるまいし、と頭の片隅では自分の非力さを理解していたが、とても黙って見ていることなどできなかった。

 肩にかけた往診かばんを下ろして、それを手に赤髪の男を襲う野犬に迫る。しかし次の瞬間、男の両足が犬の胴体に絡まり動きを封じた。その隙をついて男は身を入れ替え野犬を下敷きにする。噛みつこうと跳ねる体とのど元を押さえつけて数秒、野犬は動かなくなった。

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