付き合うより、人体錬成の方がきっとたやすい。

 周りが恋愛に興味をもち始めた頃に、僕が言うようになった言葉がある。

「誰かと付き合うより、人体錬成の方がまだ現実味ある」

 理系でもあった僕を知る人は、表立っては反論してこなかった。当時の僕がそんなことも実現してしまいそうなほど成績優秀に見えていたのかもしれないし、恋愛を望んでいないことが伝わっていたのかもしれない。

 いいや、多分前者だ。後者なら、そもそも僕はそんなことを言って、自己防衛する必要なんかなかったはずだ。前者だったら、僕が優秀に見えていたってことだから、それは嬉しい。


 僕にとって、「付き合う」は今も未知数だ。気の合う友人と頻繁に映画や食事に行っていたら、周囲に「付き合っている」と誤解され、大変面倒な思いをした。映画や食事に行く相手が男性で、僕が女性と判断されていて、二人きりだったら、なぜ付き合っていることになるのか。

 僕が女性の友人と同じことをしていても、それどころか朝帰りしたって、そういうことにはならないのに。

 異性愛前提の仮説を立てられるのも、そもそも他人のことに仮説を立てられるのも、うんざりだ。

 何をしたら、「付き合う」になるのか、よくわからない。三日通えば、とか、和歌に返歌があれば、とか、明確な基準があれば、「そうではないから付き合っていない」と言えるのに。

 いや、判断基準なんてものがあっても、それはそれで迷惑だ。付き合っているかどうかなんて、当人達が決めればいい。


 でも、付き合っているかどうかは当人達が決めることにしてしまうと、内縁や事実婚をどこからどう定義するかという法的な問題も発生するのだろうか。

 ただ、人が好きに過ごしているだけなのに、窮屈にできている世界だな。関係を定義しないことだって、必要なのに。


 僕は誰も求めていないから、「付き合う」もしないし、人体錬成もしない。人体錬成は、取り戻したい人や欲しい人があってこその禁忌だから。僕にはそれがない。

 それでも、僕にとっては人体錬成を試みる方が、「付き合う」を試すより実現可能性があるのも、多分真実だ。

 そして、「付き合う」を僕は試さない。

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