恋愛模様も楽しいよ、フィクションならね。

 僕にとって、恋愛はフィクションだ。物語のなかにだけあり、現実には存在しないもの。

 今となっては、そうではないことくらい、わかっている。

 僕の友人も恋愛をするし、結婚をする。僕の親が恋愛して結婚して、そういうことをしたから、僕はここに生きている。

 でも、僕にとっては、恋愛が現実にあることも、性欲が現実に存在していることも、その行為の結実として自分が生を受けていることも、ひどくおぞましく、気持ち悪い。

 この感覚は、僕がAro/Ace(アロマンティック/アセクシュアルの略称)であるからだけではなく、性嫌悪とでも呼べる感情が絡んでいるのではないかと思う。

 友人の恋愛話も、微笑ましいと思えることもあれば、友人がその一瞬だけとはいえ、おぞましい生き物に見えて、表情がひきつることもある。

 僕が友人と思っている人に、パートナーや想い人がいたと判明したときに感じる落胆は、いったい何だというのだろう。

 それは、尊敬する相手にも俗な部分があると知ったときの落胆に近いのかもしれない。


 現実(ノンフィクション)においては、これほどまでに恋愛も性欲も遠ざけて、逃げるように生きているのに、僕は、漫画や小説、映画で恋愛にふれるのは平気だ。

 もちろん、好みはあるのだけど、恋愛ものすべてがダメ、ということではない。少女漫画がダメということでもない。『赤髪の白雪姫』とか、『夏目友人帳』とか、好きな少女漫画はある。

 好きな作品から、本編に描かれていないキャラクターの関係性を妄想することさえあるオタクだ。腐るという言い草や、性別を規定されるのが好きではないから、言葉は使わないが、つまりそういうことだ。

 僕がそうして生きていて楽しいのは、キャラクターが抱く感情について、自分不在の解釈を積み重ねられるところだ。逆につらいのは、そういうオタクならば、キャラクターの性的な話、いわゆるエロも好むだろうと仮定されることだ。僕は、エロは好まない。

 いつだって僕は、他人事でいたいのだ。その舞台に僕を引っ張り出さないでくれ。そう思っているから、読者であれるならば、恋愛模様や関係性について解釈を重ねるのは楽しいのだ。

 そういうことを友人に話していたら、「試験管の中身を眺める研究者のよう」という言葉が出てきて、僕のなかではそれが一番しっくりきた。僕は、いつだって、観測するだけでいたい。恋愛も性欲も、僕と接続しないでくれ。

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