犬のパブロフ

福田 吹太朗

犬のパブロフ




・・・パブロフ氏は、犬であった。

しかしながら、肝心の彼自身は、その事実には全く気が付いてはいなかった。

また、皆さんが良く見聞きしているであろう、犬を用いて研究をした博士の事などでは決して無く、彼、その犬の名前が、パブロフ、なのである。

しかも厄介な事に、彼は見掛けは、二本足で立って歩き、スーツを着て毎日決まった時間に出社し、デスクの前に行儀良く着席すると、他の人間の同僚たちと全く同じ様に、オフィスワークをこなすのであった。

そしてさらにまずい事に、彼は見掛けは全く周りの人間と同じ外観をしていたばかりか、性格はとても高慢で高飛車であり、毎日同僚や部下たちに向かって、やれ隣の課まで行って書類を取って来い、だとか、例の郵便物はまだ届いていないのか、ちょっと確認して来い、だとか、インクジェットプリンタのマゼンタのインクが無くなりそうだから、ちょっと行って買って来い、だとか・・・とにかく、まるで人を家畜か何かの様に使うのであった。

しかしながら、同僚たちは、パブロフ氏自身が犬である事はとうの昔から知ってはいたし、何せ、採用の際の面接の時点で、人事課長も部長も、それを知った上で採用したのである。

そもそも、どこか上の方から、障害者枠と同じ扱いとするものだといった様な通達があったものだから(あくまでも憶測の域は出ないのだが・・・)会社としても、採用を断わる理由など特に見当たらず、さらには何よりもまず、パブロフ氏自身、学校での成績が・・・これは、一見、普通の高学歴、高偏差値の学校ではあったのだが、一部の人々からは秘かに、犬支援特別学校、などと呼ばれていて・・・彼はそこを一番の優秀な成績で卒業したばかりか、普通のサラリーマンでも持っていない様な、取得するのでさえ大変難しい、資格を三つも持っていたのであった。・・・ので、会社としてはむしろ、いい人材を採用したぞと、喜んで諸手を挙げて彼を迎え、さらには、彼自身その期待通り、いや、それをはるかに上回る仕事振りで、あれよあれよという間に昇進を重ねて行ったのであった。

・・・などという事もあったので、会社の人間はじめ、彼の事を知っている者たちは、何か彼に対しては特別な、というか、まるで迂闊に触れて壊してしまってはいけない様な、高価な壺か何かの様に、余所余所しく振る舞うのが常なのであった。

しかしそれは決して、前述の通り、彼に特別気を遣っているとか、あるいは、恐れをなしているとか、決してそういった事では無かったのである。

・・・何しろ、彼は犬なのだ。

所詮は犬コロ、人間以下の、動物、獣なのである。

いくら昨今の風潮というか、ライフスタイルとして犬を飼って可愛がる事はあったにせよ(セラピードッグなどというものまで存在する)それはあくまでも主人とペット、としての関係であり、自分自身がそれに、命令される事など、あってはならない筈なのだ。

ところが・・・そういった事実が実際、あったのである。

どういった心理状態なのかは皆目見当が付かぬというか、まるで暗闇の中を手探りで進んでいるかの様な、そんな有り様ではあったのだが、実際、その、犬コロ、に命令とまではいかないまでも、いろいろとうるさく指示を出されたり、時に叱られたり、まるで人生、いや、犬生の先輩として諭されたり、あるいは指図をされたりするのが、この会社、少なくともこの中のこの課では、ごく日常的に起こっていた事なのであった。

そうしていつしか、パブロフ氏は入社して僅か四、五年のうちに、部長補佐、という所まで昇りつめたのであった。

 しかし、彼も所詮は人の子、いや、犬の子・・・僅かばかりではあるが、増長して、いい気分になって、少々ハイになって・・・いや、実のところ、ならなかったのである。

ほんの少しばかり、機嫌が良くなったのは確かなのだが、しかしそれが却って、人当たりの良い・・・ではなく犬当たりの良い、陽気でフレンドリィな人物、犬となって・・・おそらくそれは、彼自身が、この人間界、というものの中に身を置くにあたって、自ら身に付けた、処世術、とでも言おうか?・・・あるいは、犬特有の嗅覚の様なものが人一倍、ではなく犬一倍働いて・・・彼は一層、慎重になり、性格も前よりも穏やかになっていったのである・・・。


 ・・・彼はその日は、珍しい事に外回りの業務の為、とある住宅街を歩いていたのであった。

その日は天気が良く、昼下がりの坂道を歩いていて・・・陽光を浴びて、呑気に上機嫌になりながら、鼻歌交じりに・・・それもその筈、彼は商談を一つ、いや二つも一気にまとめて、その辣腕振りを発揮して、存分に得意先にも見せ付けてから、帰社する途中なのであった。

多少腹を空かせてはいたものの、スキップとまではいかないまでも、軽快な足取りで、その緩やかだが、とても長い坂道を下って行ったのである・・・。

 ・・・すると、その彼の足元に、一匹の・・・要するに彼と全く同じ生き物である筈の、仔犬が・・・何の犬種だかは彼にも分からなかったのだが、一、二回キャンキャン、と鳴きながら、飛び出して来たのであった。

彼は正直少し驚いて、思わず一瞬、いや数十秒程は立ち止まってしまったのだが・・・実のところ、不可思議な事に、彼自身が犬であるのに、彼自身が実際に、犬、という生き物を間近で見た事がなかったのである。

彼の実生活においては、鏡をもし見たとしても・・・実際毎朝人間の男たちと同じ様に髭を剃る為に、洗面所に向かうのだが・・・そこには全くと言っていい程に、ごく普通の、人間の姿をしたアラサーの男性しかいなかったのである。

・・・なので、まずこの大都会では・・・TVではなぜか彼はアフリカの大平原に暮らす、ライオンやらインパラやらシマウマやらのサバイバルとかいう名の、生存競争という名の殺し合いやら殺戮の様子を眺めると、なぜか野生の血が騒ぐのか・・・そもそも犬は人間にペットとして飼われているもので、野生ですらなかったのだが・・・彼は例えほんの短い間でも、野生の頃の本能というか、とても心地の良い気分に浸れるのであった・・・。

・・・ともあれ、その時は、彼は実際に仔犬というものを、目の当たりにして・・・しかしなぜなのか、彼はその愛くるしい姿を見ても、可愛いと感じるどころか、さらには、同胞愛、といったものすら一切感じる事はなく・・・キョトンとしてしまい・・・正直なところ、そもそもなぜその仔犬が、自分の事をじっと見つめているのかさえ、皆目見当が付かなかったのである。

その仔犬は・・・じっと、犬の、パブロフ氏をそのつぶらな瞳で見つめていて・・・むしろその仔犬の方が、もしかしたら何かを感じ取っていたのかもしれない。・・・そんな状況となり、二人、いや、二匹が見つめ合っていたのは、時間にすればほんの数十秒の事であったろう。しかし・・・しかしだ。

彼、パブロフ氏は、その時になって初めて、それはつまり産まれてから、この世に生を受けてから、初めて、という事なのであったが・・・自分自身の存在を・・・彼は見掛けは全くの人間であったので、どうしてそれが本来は犬であり、見た目や思考趣味嗜好行動までが人間となったのかは、全くの闇の中なのであったのだが・・・ともかく、彼は、その時になって初めて自分の存在を、自分自身が果たして今まで思っていた様に、人間であるのか?・・・関心というか、疑問を持ってしまったのであった・・・。

しかしながら・・・彼の両親、つまりはそれは人間の両親であったので、おそらく育ての親、という事になるのであろうが・・・すでに他界をしていて、確かめようにも確かめようが無かったので・・・翌日・・・。


 翌日の事。

パブロフ総務部長補佐は、その日も誰よりも早く出勤し、事務椅子に腰掛け、パソコンを立ち上げ・・・しかしながら、その日のパブロフ氏は、いつもとどこかが違っていた・・・。

彼にしては珍しく、ソワソワと落ち着きが無く、着席したかと思うと、すぐに立ち上がり、ウロウロと歩き回り・・・そうしてまた座り、マウスに手を掛けてはみるものの、また立ち上がり、まるで野良犬の様にあちらこちらを歩き回り・・・実際彼は犬なのであったが・・・そうして始業時間が近付いた頃、ようやく彼の部下の社員たちが大勢出勤して来たのであった・・・。

 彼は・・・まずはすぐ目の前に座る、つまりはただ単に一番最初に目に付いた、若い女子社員に、思い切って、

「・・・あの。・・・◯◯さん? ・・・私は人間でしょうか・・・?」

その様なことを訊かれて、戸惑わずにいられない社員などいよう筈が無い。・・・筈が無いのだ。

何しろ、彼が犬である事は、その部や課の者ら、いや、ほぼほぼ会社中には知れ渡っていたので・・・しかしながらその様な質問をされたとなると戸惑ってしまうのは、実際のところ、彼の日頃の言動から、彼自身が、彼のみが、自分自身を犬でなく、人間である事を信じて疑っていないのは、火を見るより明らかであったからなのである。

・・・なので、その気の毒な女子社員も、少し言い淀んでしまい・・・「・・・もちろんですよ。」と、返答をするのに、ほんの一瞬の間が空いてしまったのであった・・・。

 すると人間、いや、犬にしてみたところで、余計に疑念を抱くのは当然の事である。

・・・なので、彼は別の社員、今度は若い入社したての男性社員に同じ質問をぶつけてみたのであった・・・。

すると、返って来た答えは全く同じで・・・おそらく入社して早々、あの部長代理は実は犬なんだよ・・・などと、誰かが、いや、否が応にもその様な話題が出て来たのは、当然の成り行きであったに違いない。

しかしやはりその若い男性社員も、やや口籠もりながら、言いずらそうに、返答をしたので、パブロフ氏としては、自分は人間であるとの確信を持つどころか・・・余計に思考は袋小路に迷い込んでしまったのであった・・・。

・・・と、そこで、その部署ではかなりの古株になる、いやむしろ、パブロフ氏よりは遥かに先輩で、後から入社した、しかも犬である後輩にあっという間に追いつかれ追い抜かれてしまった事になる・・・ドロゴノフだかドミトリエフスキだか・・・ともかく、つまるところ、彼がまだ部長補佐に昇進する前の、意地悪でモラハラパワハラぽかった頃のパブロフ氏を知る数少ない、生き証人、である彼は、その時の逆恨みからなのか、はたまたそういった事を元々根に持つタイプの、人間、なのか・・・ともかく、しかも彼はとても狡猾に、自分では肝心な事は全ては話さず、ただ臭わすだけで、少し嬉しそうな抜け目の無い表情でパブロフ氏の目をじっと見て、

「・・・それなら、ペトロフ部長に・・・部長ならば全ての事をご存知なのじゃないですか・・・? 実際、あなたの上司なのですから。」

と、それだけ言ったきり、自分の席にまた戻って、パソコンに向かってしまったのであった・・・。

 パブロフ氏は・・・これはやはり何かあるな・・・? ・・・と、取り敢えずは再び自分の席へと戻って、パソコンの入力やら未決裁の書類やらに取り掛かるのであった・・・。


 その様な事があってから・・・おおよそ一時間程後の事・・・まるで判で押したかの様に、重役出勤、でその、ペトロフ部長、は大柄な、妊娠したかの様な腹を左右に揺らしながら、のっそりとした動きで現れたのだった。

「おはようございます・・・!」

と、いつもの恒例の行事の如く、その場の社員が一斉に立ち上がり、部長がゆっくりと、まるでスローモーションの様に席に着くと、他の社員たちも、又自分の席に着いて、業務を再開するのであった・・・。

 パブロフ氏は・・・頃合いを見計らっていたのだが・・・実のところ、先程から彼と三人の社員たちとのやり取りの一部始終を見聞きしていた、他の社員たちは、自分の作業の手は止めずに、固唾を飲んでその成り行きを窺っていたのであった・・・。

 そして・・・パブロフ氏はゆっくりと自分の席から立ち上がると・・・ペトロフ部長のデスクへと近付いて行ったのであるが・・・。


「・・・あの、部長。」

ペトロフ部長はてっきり仕事に関する話かと思い、それでも、なぜだかキョトンとした顔をしていたのだが・・・、

「・・・あの部長。わたくしは人間でしょうか・・・?」

唐突な質問であったので、やはり上司と言っても、人間である部長ですら、その質問にはやや戸惑ってしまい・・・しかしながら、彼の正面、つまりはパブロフ氏からしたら背後になるのであるが、おそらく先程のド・・・ナントカ氏が目配せでもしたのであろう? ・・・部長はそこで、おおよその事は察して、今度は正反対に、やけに落ち着き払った態度で、

「それは・・・私には解りかねるが・・・もし、そういった事がどうしても気になるのならば、役所に行くのが一番いい。・・・そうして、戸籍を扱う・・・あれは何と言う部所だったかね? ・・・まあいい。ともかく、だ。もし気になるのならば、明日の朝一番にでも、仕事の前に行って来たらいいさ。・・・なに、少しぐらいの遅刻は全く構わないからね。何せ・・・それはとても大切な事だからね。それでもし、仕事が手につかない事があったりしたのならば・・・それこそ一大事だ。」

普通の人間、いや、犬にしてみたところで、おそらくその様な上司の落ち着き払った態度を前にしたら、却って疑心暗鬼に陥ってしまうところなのであろうが・・・その時のパブロフ氏はそれどころではなく、その様な考えに到る余裕すらなく、

「あ、はい・・・ありがとうございます・・・」

とだけ言って、自分の席に戻りかけたのだが、その背中に向かって部長が、

「あ・・・それから。・・・もし、もしかしたら、の話だがね。もし上手く行かなかった時は、・・・その時は戸籍課、ではなく、環境衛生課、か、庶務課だかにも行ってみるといい。・・・もしも、の話だけどね。だってさ、人生には、もし、って事があったりするじゃぁないか。・・・実際、そうじゃないかね? なぁ、パブロフくん。」

「ええ、まぁ・・・そうです! そうですね部長。・・・ありがとうございます!」

と、その時は素直に喜んだというか、その好意に甘えたというか・・・しかしながら、つまりはその老練な部長は、先を見越して、おそらく人間の戸籍の部所には彼の書類は無いと考えたので・・・動物、を扱う部門をあらかじめ紹介しておいたという訳だったのだ。

しかし、その時のパブロフ氏には・・・その様な考えは全く思い浮かばず・・・これっぽっちも、頭の中には無く・・・。


 翌日。

・・・やはり昨日部長に言われた通りに、朝一番で役所の前に、パブロフ氏は立って待っていた。

何しろ気になり過ぎて、前の晩はほとんど一睡も出来ず・・・それなのにいつもの習慣からなのか、まだ夜が明けるか明けきらぬかのうちに・・・もしかしたらそれは、犬としての習性だったのかも知れぬのだが・・・ベッドから起き出して、いつもの様に活動を始め、そうして役所までやって来たのだが・・・生憎、来るのが早過ぎたのか、役所はまだ開いてはいないのであった・・・。

そして・・・待つ事おおよそ三十分あまり・・・ようやく役所の正面の入り口が開いて、パブロフ氏はおずおずと、中へとまるで吸い込まれるかの様にして・・・入って行ったのであった・・・。

 彼が向かった先は、『住民戸籍課』という所であった。

彼がその窓口まで行くと、驚いた事に、かなり長い時間、外で待っていた筈であるのに・・・もうすでに十数名が並ぶ列となっていたのであった・・・。

・・・なので、仕方なく彼もその列の最後尾に並んで待つ他はなく、そうしてそこで立ち、待つ事おおよそ二十分あまり、ようやく彼の番が回って来て・・・たった一名の担当者は小柄な、いかにもこういった場所にはお似合いの、まるでこれが映画か何かのセットであったとしたならば、それと一緒に梱包されて運ばれて来た様な、そんな雰囲気すら漂っている中年の男性職員で、まるで沢山ある紙の束の一枚だけをめくるかの様な、そんな無機質な目でパブロフ氏を一瞥したまま、ただ黙っていたので、普段はとても冷静な筈のパブロフ氏自身が、却って少し戸惑ってしまったのだが、

「・・・あのぅ・・・すみません。」

それでもこのおそらく‘有能な’職員は黙ったままで、

「・・・わたくしの・・・戸籍というか・・・調べたいものでして・・・」

と、おそるおそる訊いたのだが、その職員は、ますますこわばった様な顔となって、

「・・・それでしたら、何か名前と住所が分かる物をお持ちでしょうか? ・・・それと、出来ましたならば、個人番号はお分かりでしょうかね?」

「ああ・・・はい・・・。」

と、保険証と、『個人識別番号』とやらの書かれたカードを取り出して、

「・・・これで大丈夫でしょうか?」

と、その職員の目の前にほんの一瞬差し出すと、

「・・・それでしたら、こちらの書類に全てご記入下さい。」

と、一枚の薄っぺらい紙を取り出したのであった。

なんだ、それならば初めっからその書類を寄越せば良いではないか、などと、パブロフ氏ならずとも思ってしまうところなのであろうが、実のところ、彼自身普段から、まるでどうでもいい、などと言うと少し語弊があるのかもしれないのだが、ともかく、たくさんの書類に目を通し、サインをしたりハンコをついたり、間違いを・・・これが無いと思って、ついうっかり油断をしている時に限って、たまに有ったりするのでまるで気が抜けないのだが・・・ともかく、無数の紙束の類いを処理する者の気持ちは分からない事も無いので、

「・・・あ、ハイ・・・。」

とだけ言って、その書類を受け取ると、大人しくすごすごと列からは離れて、真後ろにあった、筆記台、とでも言うのだろうか? ・・・で、その書類の必要と思われる箇所に、書き込んでいたのであった・・・。

彼の『個人識別番号』は「D―4208105723989671」などという、とても長ったらしいものではあったのだが、数字などというものには特には意味は無いので、まるで気にはしなかったのだが、パブロフ氏が少し気になったのは・・・彼はふと、いけない事とは思いつつも、すぐ隣で同じ様に書類を書き込んでいた、一人の老婆の、書類を思わず一瞬、一瞬だけ覗き込んでしまったのであるが・・・その人物の『個人識別番号』は、「D〜」ではなく、「H〜」で始まっていて・・・後はやはり全く同じ様に、12〜8桁ぐらいの数字が並んでいる所は、全く同じなのであった・・・。

パブロフ氏は、これはきっと、住んでいる地域か、もしくは年齢か性別でも表しているんだろう? ・・・と、ほんの若干気になりはしたものの、どっちみちお役所のやる事など・・・取り立てて意味などは無く、ただ機械的に割り振っているのであろうと・・・その時は思ったものなのであった・・・。

そうしてその書類の必要事項と思われる、箇所には全て書き込んで、また例の、小柄な無愛想な職員へと提出をしたのであるが・・・その職員は、彼の記入した書類を一目見るなり、ほんの一瞬だけ眉をしかめて・・・しかしすぐに書類を手にしたまま、奥へと下がって行ってしまったのであった・・・。そして・・・何やら、見るからに上役と思われる恰幅の良い上司らしき人物と二言三言、協議をしていたのだが・・・やがて戻って来て、パブロフ氏に向かって、

「・・・あの、申し訳ございません。・・・あなた様の戸籍はあいにくとこちらには御座いませんでして・・・生活衛生課、の方へとご足労願いませんでしょうか? ・・・誠に申し訳ございません・・・」

と、先程までとの態度とは打って変わって、深々とお辞儀までしたものだから、パブロフ氏は、何だか薄気味悪くすらなったのであるが・・・ともかく、その『生活衛生課』へと向かってみることにしたのであった・・・。


 ・・・パブロフ氏は、役所の中の・・・その日はどんよりと曇っていて、吹き抜けやら、ガラス窓は割と大き目で、陽光が眩しいほどに差し込む様に設計されてはいるのであろうが、残念な事に、その日はもうとっくに太陽の昇っている時刻であるというのに、屋内は薄暗く、電気を付けなければ、おそらくは文字を読むことさえ困難な状況ではあったであろう。・・・その様な、一見薄暗く、寒々とした、しかしひたすら長い廊下というか通路を歩きつつ、パブロフ氏はやや首を傾げつつ・・・つまりはなぜ自分だけが『住民戸籍課』ではなく、『生活衛生課』などという、一見戸籍などとは無縁そうな部署に案内されたのであろうか・・・?

・・・生活!? ・・・衛生!? ・・・大方、お役所仕事には良く有りがちな事で、彼の書類だけが一枚、そちらの方へと紛れ込んでしまったのであろう・・・? ・・・まあ、ままある事だな・・・などと、その廊下を歩きつつ、一人結論づけてしまったパブロフ氏は、その時も特には不安になる事も無く、堂々とした足取りで、ズンズン進んで行ったのであった・・・。


 そしてその『生活衛生課』とやらに、ようやく到着したのであった。そこは・・・長い距離を歩いて来た事もあって・・・この役所のまるで片隅に追いやられたかの様な、ただでさえ薄暗い通路の奥に、押し込められたかの様に、一層陰気で、まるで深夜1時のキオスクの様な・・・今時、キオスクなどというものが存在するのかさえ謎なのであったのだが・・・この『生活衛生課』の存在、あるいは役割でさえも謎であり、しかしながら、パブロフ氏にしてみれば早いとこ、この問題にケリをつけて、一刻も早く出勤したいと若干焦りかけていたので、お役所の書類のミスにはまあ目を瞑るとして、とにもかくにも用件だけを、その入り口に暇そうに立っていた、分厚い黒縁眼鏡を掛けた、少々横幅の広い女性の職員に、先程の部所と同じ様な事を訊いてみたのであった。

・・・すると、やはり彼の思った通り、まるでコピペされたかの様な答えが返って来て・・・パブロフ氏は再び、全く同じ様な書類に記入させられる羽目となったのであった・・・。

そして・・・だいいち先程とは全く対照的に、その課の近辺には、彼の他には人っ子ひとり見当たらず・・・しかしそんな事には全くお構いなしに、彼は書類に記入していたのだが・・・ふと、とある文章、というか文言が、彼の目に留まり、それがどうしても気になって仕方が無かったのだった・・・。

それは・・『保護者記入向け』・・・などと書かれた一文というか、まあちょっとした、特に目立つ訳でも無いのだが、四角く囲われて、左上の隅っこに何となく書かれていたので・・・彼は記入する手を途中で止めて、思い切ってその、大欠伸をしていた係の女性に、尋ねてみたのであるが・・・。

その女性は、少しだけ驚いた表情をして見せ、

「・・・あ! ・・・これは失礼致しました・・・! ・・・もしかして、ご本人様でしたか・・・?」

などと言って、その途中まで記入された書類は、無理矢理彼の手からは奪い取られて・・・無論の事、パブロフ氏には何の事かは全く分からず・・・今度は試しに、彼の『個人識別番号』の書かれたカードを提示すると・・・それを持って、その女性はたまらず奥へと引っ込んでしまい・・・しかしそれは決して職場を放棄した訳でも、又、上司を呼びに行った訳でもなかった様で・・・奥から一枚の紙切れを手にして、少しばかり息を切らせて、若干青ざめた顔になりながら、その書類、をパブロフ氏に手渡すのであった・・・。

しかしながら、新たにその女性から受け取った書類の左上の隅っこには今度は・・・『被飼育者』と書かれていたのであった・・・。

「こ、これは・・・一体、どういう意味です・・・? ひ!? ・・・飼育者?」

すると今度はその女性は、おそらく度重なるパブロフ氏の質問責めに、開き直りでもしたのであろう・・・? ずり落ちそうになっていた眼鏡を、元の定位置、に押し上げて戻してから、

「・・・どういうって・・・大変失礼ですが、お宅様は・・・犬ですよね・・・?」

・・・え? ・・・犬? ・・・パブロフ氏には一体なんの事だか・・・しかしながら、それはつまるところ、彼が予感していた方の、悪い方が的中してしまったワケで・・・そうなると、昨日の上司の言葉や、つい先程の番号の、Dのマーク・・・ドッグ・・・Hはヒューマン、という事なのか・・・?

・・・などと、様々な、これまでの人生における、数多くのエピソードなどもそのほんの僅かな時間、おそらく時間にしたら十四、五秒程の事であったろう・・・グルグルグルと、頭の中を駆け巡っていたのであった・・・。

そんな事とは露知らず、眼鏡の女性は、無慈悲にも彼に追い打ちをかける様な言葉を投げ掛けたのであった。

「・・・こちらが、戸籍謄本になります。・・・あなた様の。・・・あ。こちらはお返しいたします。」

・・・と、カードと共に、一枚の書類が・・・そしてそこには・・・やはり、彼の予感通り『犬種:ゴールデンレトリーバーとコーギーのミックス犬。□△□△年生まれ。姓名:イワン・パブロフ ××××年に人間へと改良済。』・・・と、彼の名前がしっかりと、書き込まれていたのであった・・・。

 パブロフ氏は・・・その一枚の・・・紙切れ・・・を力の抜けた手で受け取ると・・・『生活衛生課』にはクルリと背を向けて、トボトボと、来た時とは正反対に、まるで床に吸い込まれてしまうのでないかというぐらいの沈みようで・・・それとは全く対照的に、無情にも、今頃になって太陽の強く眩しい光が、役所の大きな窓から差し込んできて・・・背をかがめて前のめりに歩く・・・まるでそれは、にわか雨に降られてずぶ濡れになった野良犬のようでもあった・・・パブロフ氏の背中へと、降り注ぐのであった・・・。


 ・・・その日は・・・おそらく彼の人生では初めてであろう・・・会社に電話をして、体調が悪いと言って・・・実際、家にたどり着くと、ベッドから起き上がれない程に調子を崩してしまったのだが・・・それはむしろ、おそらくはメンタルから来ている事は、彼にも自覚があったのであった・・・そして結局、その日は仕事を休み、夜まで寝込んでいたのであった。


・・・真夜中になった頃、どこからか、遠くの方で「ワォ〜〜〜ン・・・!」とかいう、犬の遠吠えが幽かに聴こえてきた。パブロフ氏はその声を聴きながら、自分もあれと同じ動物なのかと、ますます気が重たくなるのであった・・・。

しかしながら・・・やはり本能というか、自然の摂理と生理現象には勝てず、トイレに行きたくなったのと、無性にお腹が空いて、真夜中に起き出して、キッチンをガサゴソと漁り始めたのであった。

冷蔵庫やら、戸棚やら、プラ容器の中とか・・・とにかくそこいら辺にある、食べられそうな物をかき集めて、ムシャムシャと、モグモグと食べていたのであったが・・・ふと、壁に掛けてあったカレンダーに何気なく目がいったのであるが・・・それは彼の記憶が間違っていなければ、確か会社で得意先から貰った物で・・・日付の数字の並んだ上にイラストが描かれていて・・・「ズーフィー」とか言う、なぜだか犬のくせに人間の様に服を着て、二本足で立っているキャラクターが、確か「トゥルート」とか言う、それは全くの犬の姿をしていて、四つ脚で、首輪で繋がれて、「ズーフィー」と一緒に散歩をしているというイラストだったのだが・・・つまりは、犬が犬を散歩させているのであった・・・。・・・そこでふと、パブロフ氏の頭の中には、とある閃きというか、決意の様なものが・・・去来したのだが・・・。・・・その考えも、翌日になると、すっかり頭の片隅に追いやられ、やがてすぐに忘れ去られてしまったのであった・・・。


 翌日となり、その日はパブロフ氏はまるで何事も無かったかの様に、出社したのであった。

彼が普段通りの業務をこなしていると・・・いつも通り遅れて現れた、部長が彼の所へ来て、なぜかほんの少しニヤニヤとしながら、

「・・・やあ、パブロフくん。体調はどうだね? ・・・もういいのかい? 何だったら・・・もう少し休養を取ったっていいんじゃないのかね?」

パブロフ氏は、もうすっかり、仕事モード、になっていたのでキッパリと、

「・・・いえ、部長。わたくしならばもうすっかり。・・・ご迷惑をおかけして済みませんでした。」

するとペトロフ部長は、いかにも嬉しそうに、その何段あるんだか‘外側’からは判別のつかない、腹をうねうねとさせながら、

「いや何・・・キミがね・・・」

と、そこでまた、少しおかしそうに笑うと、

「・・・戸籍は確認したんだろう? ・・・で、どうだった? それでキミが・・・」

「・・・私が? ・・・何です?」

「いやキミがさぁ・・・それを見て、もしかしてショックを受けて、それで昨日は、出て来れなかったんじゃないかと・・・」

パブロフ氏は、これはおそらく、このコネだけを使って出世した無能な部長と、なぜか自分の事を逆恨みしている、ドロ・・・ナントカの挑発であろうと・・・咄嗟に勘付いたというか悟ったのであるが・・・ここはあくまでも冷静にと・・・しかしその様な事などわざわざ自らに言い聞かせずとも、キーボードを叩きながら、自然と頭の中は‘無の境地’の様な状態になっていたのであった・・・。

「・・・いえ。」

「・・・そうかね。・・・まあいい。まあ・・・キミも何かとお疲れだろう? たまには、有給でも取ったらどうだね?」

「・・・ありがとうございます・・・。」

しかしそれ以上の反応が無かったのが、この‘何かと補佐して貰っている’部長には退屈というか、気に食わなかったのか・・・ブラブラと歩きながら・・・社員たちの仕事振りをチェックする様な仕草をしつつ・・・最終的にはあの、ドミ・・・ナンチャラの席へと向かったのであった・・・。


 結局その日は、それ以外には特に何事も無いまま、定刻になると、パブロフ氏は家路へと着いたのであった・・・。

そして、独身どころか、もういい歳になるというのに、恋人の一人も作った事のない・・・それは彼が犬だからだろうか・・・?・・・いや。見掛けは完全に立派な人間であるし、話し方も、身のこなしも、そしておそらく・・・彼自身には全く判別のしようが無かったのだが・・・匂いもおそらく、犬臭い、などとは一度も他人からは言われた事は無かったので・・・それが原因だとも思えなかったのだった・・・。

まあ、しいて挙げるのならば、彼自身が多忙過ぎて、恋人を作っている時間がなかった事だろうか・・・? ・・・しかしながら、実のところ、彼自身、心の奥底で、無意識的にではあるが、人間を恋愛対象と見ていなかったのか? ・・・はたまた、本能的に犬である自分と、人間とが、上手くやっていける筈がない、と、勝手に思い込んでしまったのではないのだろうか・・・? ・・・少なくとも、昨日の時点までは、彼は自分の事を人間であると、信じて疑わなかった訳なのだから、あくまでも無意識的に、の話なのだが・・・。


 ともかく、彼はたった一人のマンションの一室で、いつもの如く夕御飯の支度をし、洗濯物が少し溜まっていたので、洗濯機の中へと放り込み・・・その時に彼は、やはり少し気になったのか、自分の着た衣類を匂ってみたのだが・・・特に犬臭い感じでもなかった、のであった・・・。

そして、ごくありきたりな料理が出来・・・もちろん、ドッグフードなどではない・・・もう、こう一人暮らしが長くなると、手慣れたもので、ササっと、短時間で出来てしまうのだ。

彼はそれを皿に盛り付け、何気なくTVのリモコンを手に取って・・・しかしながら彼が期待した様な、アフリカの大草原での弱肉強食、的な番組はやってはおらず・・・適当にチャンネルを回していると・・・『909匹ワンコちゃん』などという・・・よく訳の分からないアニメをやっていたので、しばらくそれを観ながら食事をしつつ・・・自分も、こんな大家族だったら良かったな・・・などと一瞬思ったりもしたのだが・・・よくよく考えてみると、907人も子供を作ることも、育てる事もかなり無理がある話であると、何だか馬鹿馬鹿しくなってきたので・・・チャンネルを変えたのだが・・・始めパブロフ氏には、そこに映っているものの正体がつかめず・・・薄暗い浜辺の様な所に、何艘もの粗末な船があって・・・その中からは、ゾロゾロと大勢の、よく見るとかなり汚いボロの様な服を着た人間たちが・・・這い出て来たのだが・・・それを画面の反対側から現れた、警棒を持った警官たちだろうか? ・・・が、船の方へ押しやったり、船内へと無理矢理押し込んだり、中には、警棒で殴り付けている警官もいて・・・殴られている側には、女性や子供もいた・・・。

彼の右手はそこでハタと止まり・・・これがいわゆる、移民、もしくは難民、それも一部の人々から、不法移民、などと呼ばれている、その光景なのだと・・・。

彼は日頃、忙しいせいもあってか、朝TVのニュースを観る時間すら殆ど無く・・・その様な・・・話だけは聴いてはいたのだが・・・。

・・・彼、パブロフ氏の目の前には、無数の、おそらく50頭、いや1,000頭余りの、鎖やリードに繋がれていない犬たちがいて・・・すべての犬が、じっと立ち止まったまま、彼の方を舌を出しながら見ていたのだが・・・ふと、彼が真後ろを振り返ると・・・今度は人間の、それもその犬たちよりも痩せて、薄汚れたボロ着だけを身にまとった・・・群集がいて・・・パブロフ氏は、ちょうどそのど真ん中、そこはどこだかは分からぬが、舗装されていない道路なのであったが・・・二つの集団の間に挟まれて、身動きしようにも、一歩でもどちらかに動こうものなら、両側から一斉に襲い掛かられる様な気配が、辺りに立ち籠めており・・・パブロフ氏は・・・動きようにも一歩も動けず・・・ただオロオロと・・・狼狽えながら・・・手だけが震えてきて・・・彼は思わず「・・・グングッ・・・!」という言葉にならない様な大声を発して・・・そこで自らの声で目が覚めたのであった・・・。

彼は箸を持ったまま・・・おそらく仕事の疲れのせいなのだろうか? どうやら食事をしながら、ウトウトとしてしまった様なのであった・・・。

 ふと、TVの画面を見ると・・・もう先程の映像はとっくに終わっていた様で・・・株価のニュースの後、明日のお天気情報が流れていたのであった・・・。

・・・彼は皿にまだ少しだけ残っていた料理を平らげ・・・それはまだほんのりと温かかった・・・そしてまた一人空しく、食事の終わった食器類を自ら片付けるのであった・・・。


 翌日は休日であった。

パブロフ氏がちょっと近所のコンビニまで、少しばかりの食料品を買いに行き・・・戻って来ると、空き部屋になっている筈の、彼の隣室では、引っ越し業者が、家具やら何やらを運び入れているのであった・・・。

すると・・・自分の部屋に戻ったパブロフ氏がガサゴソと今買ってきた物を、冷蔵庫や何やらに入れていると・・・突然、トントンと、玄関のドアを叩く音が聞こえたのであった。

彼がドアを開けると・・・そこには見知らぬ若い女性が立っていた。

彼女は、一つのキレイに包装された箱を彼の目の前に差し出すと、

「・・・初めまして。・・・隣に越して来た、コーシュカ、という者です。あのこれ・・・つまらないモノですが・・・」

と、おそらくはこの階に住む住人全員に配っているのであろう・・・? ・・・しかしパブロフ氏がそれを受け取ると、彼女は、ニッコリと、今まで彼が目にした事の無い様な満面の笑みを浮かべ、

「どうか・・・よろしくお願いしますね?」

「あ・・・ハイ・・・。」

とだけしか返す事の出来なかった彼は、そのまま特に何も会話を交わす事なく、ドアを閉め・・・なぜかとても不可思議な心持ちというか、奇妙な感じで、その箱を・・・そこには『おさかなパイ』・・・などと書かれており・・・彼女は魚好きなのかな・・・? ・・・などと、その時は特に気にもせず、無造作にキッチンのテーブルの上へと、置いたのであった・・・。


 翌日はまた仕事。

パブロフ氏はその日もまた、いつものごとく朝一番で出勤し、パソコンの前へと向かい・・・しかし、おそらく彼がこんな朝早くから出社しているとは知らない、別の課の女性の従業員二人が、たまたま彼のいる課の前を通りかかり・・・彼はその時、デスクの下に落としてしまった書類を拾おうと、かがみ込んでいて・・・おそらくここには誰もいないとでも思ったのだろうか? ・・・何やら普段あまり大勢のいる前では話せない様な内容の話をしながら、通り過ぎて行ったのであった・・・。

「・・・ねぇ、知ってた? ここの部長補佐だかっていう人・・・人間・・・じゃなくて、犬、なんですってね?」

「・・・え、ウソ!? ・・・犬? 犬が我々人間に指図してるの・・・? それって・・・まあ、それ以上は考えたくはないわね・・・」

二人はそう言ってまるでせせら笑うかの様に、しかし彼女たちにしてみれば、あくまでも他人、ではなくて、他犬、の事であったので、ただのおいしい蜜の様なモノを味わいながら・・・歩き去って行ったのであったのだが・・・デスクの下から‘まるで犬の様に’這い出て来たパブロフ氏にしてみれば・・・その日は全くと言っていい程、仕事の方が手につかず・・・しかし側から見れば・・・彼はいつもの様にテキパキと業務ををこなしている様には見えたであろう・・・?

・・・そうして・・・その日一日は特にそれ以外には特段変わった事も無く・・・仕事が終わると、彼もまた、他の従業員たちとともに、家路へと着いたのであった・・・。


・・・パブロフ氏は、自分のマンションに帰り着くと・・・朝の件が相当精神的に応えていたのか・・・彼にしては珍しく、トボトボとした足取りで・・・マンションの廊下を・・・。

・・・すると向こうから、先日のコーシュカ、という若い女性が現れて・・・すれ違い様、振り向いたかと思うと、

「・・・あ! 昨日はどうも。一瞬、誰だか分かりませんでした・・・。昨日は、普段着でしたので・・・。何のお仕事をされているんですか・・・?」

パブロフ氏は、一瞬誰から話し掛けられたのかが分からず、

「・・・え?」

と、思わずグルグルと廊下の真ん中で回ってしまったのだが・・・それを見て彼女が、おかしそうに笑うと、

「・・・私ですよ、ここです、ここ。・・・なんか犬みたいに回ってる・・・フフ・・・。私、ほら、あなたのお隣に越して来た・・・」

彼はようやく、その存在に気が付いたのか、

「ああ・・・はい。」

とだけ言い、

「・・・『おさかなパイ』どうでした?」

「・・・エ?」

実は彼はまだその包装すら開けてはいなかったのだが、

「あ・・・はい。・・・もちろん! おいしかったです! もしかして・・・ええと・・・」

「・・・コーシュカです。」

「・・・ああ、はい、すみません、コーシュカさん。もしかして・・・魚が好きだとか?・・・まさかね、アハハハ・・・」

彼としては今はそれが精一杯の、空元気、ではあったのだが・・・

「好きですよ? ・・・魚。・・・あなたは?」

彼はそこで、黙ってしまったのだが、

「・・・あ! そういえば、まだお名前を伺っていませんでしたっけ? あ、こんな所で立ち話もあれですし・・・私の部屋に・・・来ません?」

「・・・エッ!?」

彼としては実のところ、一人暮らしの女性の部屋になど、今まで一度も上がった事は皆無であったので、とても驚いたのであるが、

「・・・実は、引越しの後片付けが・・・重たい物が棚の上まで持ち上がらなくって・・・私、腕力がないから・・・出来れば手伝っていただけると・・・」

「・・・ああ。・・・はい。」

パブロフ氏としては、その時はとても、人間不信、に陥ってしまっていたので、渋々というか・・・特に緊張するとか、‘何か’を期待するとか・・・その様な考えは全く無く、

「・・・はい、じゃあ・・・スーツから着替えたら、すぐに行きます。ええと・・・あ、すぐお隣でしたっけね。」

彼女はその最後の言葉を聞くと、またおかしそうに笑って、昨日彼の所にも持って来たおそらく『おさかなパイ』の箱を二つ三つ持って・・・どうやらまだ配り切れていないのであろう・・・? 一旦、自分の部屋とは反対の方向へと、去って行ったのであった・・・。


 それからおおよそ15分程後の事・・・コーシュカの部屋の中は・・・当然のごとくというか、散らかっていて・・・あちらこちらに段ボールの空き箱やら、食器類やら、本やら、小物類やら、化粧品やら・・・とにかく、所狭しと並んでいるのであった・・・ただでさえ、所狭し、だというのに・・・。

彼女、コーシュカは、もうお手上げ、といった感じで、

「・・・引っ越しって・・・大変なんですね? 私・・・初めてで・・・正直、少し舐めてたかも。」

パブロフ氏は雑誌と雑誌の山の間に縮こまる様に正座していて、

「・・・いやいや、僕の時も、こんな感じだったよ。焦らず一つ一つ片付けていけば大丈夫だよ。」

そこで彼女は、フゥ、と一つ大きな溜息をついてから、

「・・・ここに住んで、どれくらいなんですか?」

「ウ〜ン・・・確か・・・五年、いや、六年だったかな?」

「じゃあ、だいぶ先輩ですね。・・・あ、ところで、お仕事は何をなさってるんですか? ・・・あ。私ばっかり質問しちゃってゴメンなさい。」

「いやいや、いいんだよ。・・・しがない商社で働いてるよ。」

「へぇ〜・・・まだ入社したてとか?」

「あ・・・いや・・・一応、今は部長補佐、っていう肩書きなんだけど・・・まぁ、あんまり大した会社じゃないからね。」

そこで彼女は、エラく驚いて見せ、

「すご〜い・・・それって、管理職、ってやつですよね? ・・・重役ですよね? すごーい・・・!」

パブロフ氏は、彼にしては珍しい事に、照れながら、

「いやまあ・・・まだ、補佐、だからね。ところで・・・キミは何をしてるの? この春から就職とか?」

「一応大学生なんです。・・・あ、でも、これで二校目っていうか・・・入り直したんです。前の所は、途中で辞めちゃって・・・」

そこでしばらく、その部屋の中には、ほんの僅かの間なのだが、奇妙な沈黙が流れたのだった・・・。

「あ、ところで・・・!」

「そういえば・・・!」

二人同時に、思わずその沈黙を破ってしまったのだが、そこは、先輩、であるパブロフ氏が譲ったのだった。

「・・・そういえば・・・まだお名前を・・・」

「・・・ああ、そうだった・・・! ・・・パブロフ、って言います。・・・どうかよろしく。あ、ところで・・・」

彼女はそこで呑気に背伸びなどをし、

「・・・ハイ?」

「重たい物を・・・棚の上に・・・上げるんじゃ・・・」

今度は欠伸を堪えつつも、堪えきらずに、それでも一応手で開いた口は隠して、

「・・・あぁ、ハイ、そうでした。・・・何かでも・・・今日はやめにしよっかな? なんか・・・疲れてきちゃった。」

パブロフ氏はやや呆れそうになりつつも、しかしながら、なぜか急にこの、人間、に興味が湧いてきたのか、

「・・・キミって、マイペースだね。」

彼女はしかし、あくまでものんびりとした風に、

「・・・そうですかぁ? ・・・初めて人からそんな事言われましたよ?」

「まぁ、それはその・・・」

やはりまだ人間の女性には慣れぬのか、急にモジモジとしてしまい、それを見てコーシュカは、少しおかしそうに笑い、

「・・・あなただって、十分変ですよ? なんか・・・まるで人間じゃないみたい。」

パブロフ氏は、そこでまた、その日の朝の事を思い出してしまい、思わず沈黙してしまったのだが、その反応を見て慌てて彼女が、

「・・・あ、ごめんなさい・・・! 私・・・何か気に障る事を言っちゃいました?」

パブロフ氏も少し慌て、

「あ、いや・・・! そうじゃないんだ・・・。 ・・・今日職場で、ちょっと嫌な事があったものだから・・・キミのせいじゃないよ。」

彼女は少しホッとしたような表情になり、しかしながら、次の瞬間、疲れた様な表情にもなり、

「・・・そうなんですか・・・部長さんも、大変なんですね?」

「部長、補佐だけどね。」

「あ・・・そうでしたね。」

彼女はそこで笑い、立ち上がると、

「あのぅ・・・やっぱり今日は、やめておきます。・・・ごめんなさい。わざわざ来て頂いたのに・・・」

パブロフ氏もやや窮屈そうに立ち上がると、

「・・・いやいや、すぐ隣だから。何かあったら、気軽に呼んでね?」

「ありがとうございます・・・! ・・・あ! 私、飲み物を出すのも忘れてました・・・!」

パブロフ氏は、玄関の方向へと向かいながら、

「・・・いやいや、いいんだよ。・・・別に気にしないでね。」

と、ドアノブに手を掛けて、その日はとりあえず、退散する事にしたのであった・・・。

「・・・ありがとうございます・・・!」

「・・・いえいえ、こちらこそ・・・じゃあまた。・・・重たい物はちゃんと残しておいてね?」

パブロフ氏がドアを静かに閉めると・・・その向こう側では微かに笑い声が聴こえていたのだった。それにしても・・・。


 ・・・それにしても、何だか彼女、コーシュカと初めて面と向かった時から、何か奇妙な、不思議な感覚が・・・襲ってきて・・・それはデジャブとも・・・犬である彼が、霊能力などという‘人間特有の’ものも信じてはいなかったので、そういったものでも恐らく無く・・・しかしその時の彼には、それが全く何なのかは、結局分からず仕舞いなのであった・・・。


 翌日もパブロフ氏は普段通りに出勤し、業務をそれとなくこなしていると・・・しかしながら、いつもの‘重役出勤’の時間になっても、部長はまだ現れないのであった・・・。

「・・・あれ? ・・・今日は・・・部長は外で誰かと会うアポとか、あったっけ・・・?」

しかしながら・・・どの社員も、その件に関しては把握はしていない様で・・・皆狐につままれた様な表情をしているのであった・・・。

そうこうしているうちに、壁にかけられた、いまだにアナログの時計の針と針は真上でちょうど垂直に重なって・・・お昼休憩の時間が来てしまったのであった・・・。

「・・・部長に連絡を入れておいた方がいいかな・・・?」

・・・などと、補佐、の立場であるパブロフ氏は、ポツリと呟いたのだが・・・そこへ、例のドロミエトリスキ・・・とやらが近付いて来て・・・それもなぜだか、用心深そうに辺りを少し気にしながら、声のボリュームを落としてパブロフ氏に、

「・・・部長は今日は来ませんよ?」

「え? ・・・何だって・・・!?」

パブロフ氏が思わず少し大きな声を出すと、シッと、人差し指を口に当てて、

「・・・それがですね・・・体調を崩して今、病院で精密検査を受けているそうなんです・・・」

「・・・なんでキミが知っているのかね・・・?」

おそらくメールか何かでやり取りでもしていたのであろう・・・? しかしながらパブロフ氏にしてみれば、直属の部下である自分ではなく、腰巾着、の様なこの冴えない部下へと先に情報が入った事が、少しばかり人間としての、ではなく犬としての、でもなく、高度な知性を持った生物としてのプライドというか、癇に障ったのであった・・・。

「・・・どこか具合が悪いのかね?」

するとドミロ・・・何とか氏は、ますます声量を落として、

「・・・それがですね・・・誰にも言わないでくださいよ・・・? ・・・ここだけの話ですよ? 実は・・・愛人の家でですね・・・」

「・・・愛人がいるのか・・・?」

「ええ・・・まあ・・・よくある事ですよ・・・。むしろ、いない人間なんていますか? とにかく・・・そこでホラ、いわゆる・・・アレの最中に、体調を急に崩して・・・まぁ、いわゆる、腹上死、ってやつにならなかっただけでもまぁ、ラッキーといえば、ラッキーでしたね。」

・・・などと、その、ド・・・氏は平然と言ってのけたのだが・・・犬であるパブロフ氏としては・・・人間という奴は何て強欲で愚かで浅はかなんだろう・・・? ・・・と、ただただ呆れるだけなのであった・・・。

彼はこの時ばかりは・・・犬で生まれて来て幸いであったと・・・しかしながらどういった経緯でなのかは皆目見当が付かないのだが、人間になってしまった事を、少しばかり後悔というか・・・ともかくそんな気分になったのであった・・・。

ともかくも・・・部長が復帰するまでは早くても二、三週間はかかるという事なので・・・彼がその職務を・・・と、言っても、殆んどやる事は通常通り、いつもと何も変わらないのであった・・・。


 その日も自宅であるマンションへと帰ると・・・もしかしたら今日も、あのコーシュカの部屋へとお呼ばれするのではないのかと、淡い期待を抱いたのであったが・・・彼女の部屋の前を通ると・・・何やら賑やかな大勢の声が聴こえていて・・・大方、友人たちと、引っ越しのお祝いパーティーでもやっているんだろう? ・・・そう考えるとなぜだか、友人などほぼほぼ存在しないパブロフ氏は、何だか少し虚しい気分になって、彼女の部屋の前を横切ったのであった・・・。

自分の部屋へと入り、ドアや窓を閉め切っていても、隣室の賑やかな声は聴こえてきた。

彼はその声を聴きながら・・・と、いうか、否が応でも聴こえてきてしまうので、とりあえずTVをつけて・・・その日はちょうどたまたま、彼が観たかった、アフリカの、ゴリラだろうか? ジャングルの中でメスを取り合う様子を眺めながら、食事に取り掛かるのであった・・・。


翌朝・・・その日は燃やせないゴミの日だったので、その地域で指定されている、ビニール袋を二つ三つ持って、マンションのゴミ置き場へと向かうと・・・ちょうど一階の廊下で、コーシュカと鉢合わせしたのであった。

コーシュカは、早朝だというのに、相変わらずの爽やかな笑顔で、

「・・・アラ? ゴミ出しですかぁ? ・・・私もでした。」

しかしパブロフ氏はそれには答えず、

「昨日は・・・賑やかでしたね?」

パブロフ氏は、おそらく特別不機嫌だったというよりも、ごく普通の人間・・・彼は犬ではあったのだが・・・の寝起きのテンションだったのだろうが、彼女は彼が何か、で怒っていると、勘違いしたらしく、

「・・・少し・・・騒がしかったですか? ・・・ごめんなさい・・・」

いきなり謝られたので、これにはパブロフ氏の方が少し慌ててしまい、

「・・・いやいや! そうじゃなくて・・・友達が沢山いて・・・ちょっと羨ましいなぁ、って。・・・あ、それ以外の意味とかはないですよ? もちろん、うるさいとかも。」

彼女はそれを聞くと、表情が再びパッと明るくなって、

「・・・そうなんですか? 私、早とちりなもんで。ごめんなさい。」

「あ、また謝ってる。」

「あ、ほんとだ。」

二人はマンションの狭い通路で、朝から笑い合っていたのであった。その内の一人は・・・ゴミ袋を両手にぶら下げたまま・・・一人の同じマンションの名も知らぬ住人、おばちゃんが、その横をやや迷惑顔で、縫う様にすり抜けて行ったのだった・・・。

コーシュカは、なぜか少しモジモジと言いづらそうに、

「実は・・・ちょっとワケありの・・・友人たちなんです。」

「ワケあり?」

「・・・えぇ。もしいつかその内、そのワケを・・・話せればいいんですけど・・・じゃあ、私はこれで・・・!」

「あ・・・じゃあまたね・・・」

いろいろと頭の中がこんがらがりながら、ほんの僅かの間、ビニール袋を持って立ち尽くしていたパブロフ氏なのであったが・・・やがておずおずと・・・ゴミ置き場へと、向かうのであった・・・。


 その日も仕事だったのだが・・・特にこれといって特記する様な事は無く・・・ただ、部長が押さなければならないハンコを、パブロフ氏が自分の分とも合わせて、押さなければならなかったので・・・当然の事ながらいつもより倍近くの時間がかかってしまい・・・彼にしては珍しい事に、残業をして、そうしてようやく、辺りがすっかり真っ暗になった頃、自宅であるマンションの部屋へと着いたのであった・・・。

「ふぅ・・・」

彼にしては滅多に無い事で、ため息などをつきながら、ネクタイを外し、スーツ姿から部屋着へと着替えていると・・・玄関チャイムが不意に、鳴り響いたのであった・・・。

彼がボサボサ頭のまま、ドアを開けると・・・そこに立っていたのは、あの、コーシュカなのであった・・・。

彼は慌てて髪を整え、腰の辺りからはみ出していたシャツを、大急ぎでパンツの中へとしまうと・・・それを取り繕うかの様に愛想笑いをしたのであった・・・。

しかしコーシュカは、その様な事には全く構わないというか、気に留めている様子すらなく・・・何か、彼女にしては少し、思い詰めている様なのであった・・・。

彼女は、伏し目がちに、

「・・・あの、部屋の明かりがついたもので・・・今お帰りですか? 今日は・・・少し遅いんですね・・・?」

「・・・ああ、まあ・・・入院している部長の分の仕事まで、あったもんで・・・まぁ、しょうがないね。」

「・・・大変なんですね。」

「あ・・・まあ・・・もしかして・・・その・・・」

「その・・・もしかして、なんですが・・・」

パブロフ氏は、その日は恐ろしいほどに疲れていたので、軽く食事だけ済ませて、早々に床に入るつもりであったので・・・重たい物など・・・とても・・・。

彼女もその状況は分かっていた様だったので、

「・・・あ。・・・じゃあ、また出直します・・・! ごめんなさい・・・!」

しかしパブロフ氏は、彼女が少し落胆気味なのと、朝のゴミ置き場での会話の所々で、気になる事もあったので・・・

「・・・ちょっと待って・・・! 少しぐらいなら・・・大丈夫ですよ?」

と、無理矢理作り笑いをして見せ、おそらくそれは、全くの第三者である人間が見たとしたら、かなり薄気味の悪い顔に・・・犬は大概、笑わない生き物なのだ・・・しかしながら、その言葉を聞くと彼女は、途端にいつもの、ややハイテンションな明るい表情に戻って、

「・・・え? ありがとうございます・・・! じゃあ・・・その代わり・・・と言っては何ですが、夜御飯は私が作りますね? ・・・あまり自信は無いんですけど・・・」

「いやいや・・・僕が作るよりははるかにマシだと思うよ? ・・・あ。マシだなんて・・・ごめんね。」

「あなたも・・・謝るんですね?」

一瞬の沈黙が流れた・・・パブロフ氏は正直、これは言ってはいけない事を言ってしまったと・・・後悔したのであるが・・・ナントカ先に立たずで・・・しかし次の瞬間、彼女は堪え切れなくなり、吹き出して爆笑したのであった・・・。

「・・・おいおい・・・ちょっと・・・! キミは、意地が悪いなぁ・・・」

彼女はとても嬉しそうに、

「・・・私、こう見えてもイタズラ好きなんです。・・・あ。どう見えました?」

「イタズラじゃなくて・・・イジメだね、これは。」

コーシュカはその言葉を聞くと、ますます乗ってきて、ケタケタと笑い転げるのであった・・・。

パブロフ氏も、それに釣られたのか・・・一緒になって笑い・・・


・・・そしてそれからおおよそ、三十分程後の事・・・コーシュカの部屋では・・・パブロフ氏は最後の‘重たい物’である、何かの辞典だろうか・・・? それを棚の一番上の段まで、運び上げているところなのであった・・・。

彼の・・・本来は人間の数十倍だか数百倍だか、いや、聞くところによると、一億倍はあるという・・・臭覚は今ではすっかり‘人間並み’になっていて・・・しかしながらその彼の鼻でさえ、部屋中に立ち込めるいい香りを・・・彼は自分のお腹が鳴るのを堪えられずに、

「・・・何を作ってるの・・・?」

「・・・出来るまで、ナイショです・・・!」

「・・・いいじゃないか・・・僕はこう見えても、鼻はいいんだからね? ・・・何せ、元は、犬・・・」

彼は思わず、その言葉は声に出すべきではなかったと・・・しかしながら、後の祭り、とはこの事で・・・彼女はしっかりと、聞き漏らしてはいない様なのであった・・・。

「・・・今・・・私・・・それって・・・本当に・・・?」

コーシュカは、なぜかオタマとさい箸を持ったまま、その場に固まってしまい・・・そして、静かにエプロンを脱いだかと思うと、一旦、奥の部屋へと入って行ってしまったのであった・・・。

「・・・おいおい・・・」

パブロフ氏には、正直どうしていいのかも、彼女が何を考えているのかも・・・良く分からず・・・ただ呆然としていて・・・。

・・・すると、すぐに一分ほどで、彼女は奥の部屋から出てきたのであった・・・。手には、一枚の、書類を持って・・・。

それをただ黙って、パブロフ氏へと差し出し、彼がそれを受け取って読むと、そこには・・・

『姓名:コーシュカ・コトロノフ ☆☆☆☆年生まれ 生誕地:▽▽市 シャム猫とペルシャ猫のミックス。 ◎◎◎◎年に人間へと改良済。』・・・と、その書類には記載されていたのであった・・・。それはつまり・・・。

「・・・これって・・・」

パブロフ氏は、言葉に詰まって・・・しかしながら、

「ちょっと待ってて・・・!」

と、その部屋を出て、すぐ隣の部屋、つまりは自分の部屋へと取って返し・・・すぐに例の、先日役所で手に入れた、書類を持って来て、彼女に見せたのであった・・・。

「・・・犬・・・ゴールデンレトリーバーとコーギーのミックス犬・・・?」

・・・すると唖然とした彼女は・・・涙を堪えているのか、肩がだんだんと震えて来て・・・しかしながら突然、吹き出して大笑いしたのであった・・・ケタケタと、いつもの様に・・・。

「・・・ゴールデンレトリーバーとコーギーって・・・有り得ないですよ・・・!」

パブロフ氏は、一瞬何が起きたのかが理解出来ず・・・しかし、いくら空気を読むのが不得意な彼にでも、この状況が、滑稽で微笑ましい事だけは容易に肌で感じられたので・・・またしても一緒になって、二人して、笑い転げたのであった・・・。

「・・・キミだって・・・シャム猫と・・・ペルシャって・・・とても高級そうには・・・見えないけど・・・」

「・・・あなただって・・・コーギーって、足が物凄く短いんですよ・・・? ・・・見た事あります・・・?」

「・・・エ? ・・・無いけど。」

「やっぱり。」

「キミはやっぱり、」

「何です?」

「・・・失礼な人、いや、失礼な猫ちゃんだなぁ・・・」

「・・・あなたこそ・・・とっても鈍感な、ゴールデ・・・コー・・・」

彼女はそこでまた、盛大に吹き出したのであった・・・。

二人がそうしている間にも・・・キッチンの中の鍋の中のホワイトシチューは、コトコトと・・・どんどん煮詰まっていっているのであった・・・。

それでも・・・部屋の中では・・・二人の人間、になったばかりの、犬と猫、の笑い声と・・・シチューのいい香りが・・・充満していたのであった・・・。


 ・・・それからおおよそ一時間程経った頃・・・その日の晩御飯を食べ終えて、二匹、いや、二人は大変満足していたところなのであった・・・。

「いやぁ・・・キミ、料理の才能あるよ。・・・とっても美味しかった。」

「ホントですかぁ・・・さっきはあんなにけなしていたのに・・・」

「けなしてなんかいないよぉ・・・ただ、疑っていたんだよ。」

「もう〜・・・同じじゃない・・・案外イジワルなんですね。」

「・・・そうかなぁ? 意地悪だったら、引っ越しの手伝いなんかしないよ?」

彼女はそこで、少しだけ真面目な表情になり、

「・・・昨日の友人たちは皆・・・元猫たちの、仲間なんです。」

パブロフ氏は少々驚き、

「へぇ・・・そんな繋がりというか、ネットワークがあったのか?」

「そんな大げさなものじゃないですよ・・・? ・・・元犬の仲間だって探せば・・・結構いるんじゃ・・・」

パブロフ氏も、なぜか少し沈んだ様な表情となり、

「・・・いや、僕は・・・」

「一匹狼、ってわけですか?」

「いや、そうじゃないんだ・・・ただ・・・」

「・・・ただ?」

「・・・そういう学校ってあるのかな・・・? 元、犬とか猫とか、動物が、人間になる為に、特別に教育を受ける様な・・・」

「あるって聞きますケドね。あ、噂ですけどね。」

「ふぅん・・・ま、それだけ、だけどね。」

「・・・何です? もう、隠さないでくださいよぉ・・・これからは、お互い、隠し事はナシ、にしましょう。」

「・・・え?」

彼女に少し強めに、半ば強引に言われたので、思わずパブロフ氏は、一瞬固まってしまったのだが・・・

「・・・え? ・・・だって、まだ知り合ったばかりだし・・・」

しかしコーシュカは、猫気質、からなのか、全くお構い無し、といった風に、

「そんなの・・・関係あります?」

彼、パブロフ氏は、そこでなぜだか何も言葉は返せず・・・そもそもただでさえ人間の女性でさえ苦手だというのに・・・よりにもよって、猫、とは・・・。

「・・・私、昔から、パッと思い付きで行動しちゃうんです。元、猫だからかなぁ・・・。」

「・・・だろうねえ・・・」

と、パブロフ氏は半ば呆れ気味にではあるが、しかしながら、こんな子も、物珍しくていいなぁ・・・などと、勝手に想像を膨らましているのであった・・・。

「・・・付き合いましょ?」

「・・・エ?」

突然の事で、彼の頭の中は真っ白になり・・・。・・・気が付くと・・・お花畑の中に・・・白い濃いもやがかかっていて・・・辺り一面、ボゥっとした光の様なものに包まれて・・・大きな風車がただ回っていて・・・ギコギコという音と・・・その音に重なるかの様に・・・何かのテンポの良い曲が聴こえて来て・・・そこでパブロフ氏は、突然身体がガクンッと大きく揺れ・・・マンションの部屋の天井が徐々に見えてきて・・・どうやら彼は、眠りこけていた様なのであった・・・。

「・・・あ、やっとお目覚めですか? 私・・・この曲好きなんですよ?」

パブロフ氏は、いったいどこからどこまでが夢で、現実なのかが全く思い出せず・・・

「・・・あの、さっき、キミ、何か言ったっけ・・・?」

「さあ・・・」

コーシュカは、あくまでもとぼけているのか、はたまた真面目になのか、そのアップテンポな曲のリズムに合わせて、鼻歌をフフゥゥン・・・と、奏でていたのであった・・・そして不意に、

「・・・明日から、あなたのお部屋に行きますね?」

「・・・エェ!?」

「・・・あとそれから、これからは、イワンさん、とかでいいですか? さん、はつけない方がいいのかなぁ・・・? ねぇ、どう思います? どっちが良いですか?」

やはり先程の事は、現実の世界、夢の中のお話などでは決して無かったのだ。

「・・・えぇと・・・おいおい、僕はまだ・・・返事はしてない・・・ケド・・・」

「・・・やっぱりダメ、って事ですか?」

「ああ、まあ・・・いいよ。」

と意外にもあっさりそこは覚悟を決めて承諾し、

「あ・・・でも、部屋はわざわざ二つ借りなくとも・・・その方が、経済的だし・・・」

「一日おきに、お互いの部屋を行き来すれば良いじゃないですか。・・・ダメですか?」

「ウ〜〜ン・・・まあいいか。」

「あとそれから・・・」

「まだあるの?」

「・・・だから。・・・さん、は付けた方がいいですか? 付けない方がいいですか?」

「どっちでもいいよ。・・・キミの好きな方で。」

「じゃあ・・・イワちゃんにしよっと。・・・あ。ちゃんと名前で呼んでくださいね? ・・・私の事も。」

イワン・パブロフ氏は、少し面倒臭くなってきて、

「ああああ・・・分かったよ、コーシュカちゃん。」

「なんか・・・愛情っていうか・・・こもってない気がするなぁ・・・」

パブロフ氏は、おそらくこの世に生を受けてから、一番の甘ったるい声で、

「ああ、ハイハイ。コーシュカちゃん? ・・・これでいいのかい?」

コーシュカは途端に、嬉しそうにうなずき・・・彼女がそこで、まるで猫の様な、ゴロニャンだか、ニャ〜ンだかミャ〜だか・・・もしかしたら人間の声だったかも知れないのだが・・・出した様な気がしたパブロフ氏ではあったのだが、無論の事、彼は、ワン!・・・などとは吠えず・・・しかしながら、二匹、いや、二人の男女は・・・夜はどんどん更けていって・・・しかしながら、それ以上の事は書くまい。・・・あえて記さぬ事とする。・・・全ては・・・ご想像にお任せするのであるが・・・少なくとも、いきなり『909匹ワンコちゃん、ニャンコちゃん』・・・にならなかった事だけは、記しておかねばなるまい・・・。

あれは・・・お話の、話なのだ・・・。


そして・・・今度は本当の・・・犬の遠吠えがどこかで聴こえて・・・どうやらまたしても恒例の、あの、朝、とういうヤツが来てしまったらしいのだ・・・。

二人は無論の事、同じベッドから目覚めて起き上がると・・・パブロフ氏はその日も仕事であったので、一旦自分の部屋へと戻ると、スーツに着替え、そうしてなぜか朝御飯は、彼女の部屋で食べてから、出掛けるのであった・・・。

「いってらっしゃ〜い・・・イワちゃ〜ん・・・!」

パブロフ氏は、ご近所に聞こえやしないかと、少しヒヤヒヤとしながら、会社へと向かったのであった・・・。


 ・・・当初二、三週間ぐらいは退院にかかると言われていたペトロフ部長なのであったが・・・僅か五日程で、職場に戻って来てしまったのであった・・・。

その体力もさることながら、自分の地位を守る為の、執念深さ、には、ただただ脱帽するしかないのであったが・・・。

いつも通り‘重役出勤’で現れると・・・まずはあの、腰巾着、の所ではなく、パブロフ氏の方へと・・・彼はその事にまず正直なところ、驚いてしまったのだが・・・部長は彼の肩を、ポン、と軽く叩くと、

「・・・どうだね? 私のいない間に、何か変わった事はなかったかね・・・? ・・・大丈夫かね?」

と、なぜだかとても嬉しそうに、尋ねるのであった。

パブロフ氏は、

「いえ。特には。全て・・・上手く行っています・・・全て、部長のおられた時と同じ・・・これもひとえに・・・」

・・・と、そこまで言ってしまったパブロフ氏は、その後の言葉、つまりはおべっか、または上司の機嫌取り、を慌てて飲み込もうとしたのであるが・・・

「・・・いやあ、結構、結構・・・」

と、部長がさらに上機嫌になって自分のデスクへと去って行くのを見ながら・・・さらに、彼は思わず、今の出来事を同じ課の、他の誰かが見ていやしなかったかと、気になって・・・思わず課全体を、見渡したのであったのだが・・・。

・・・彼はどうやら、この人間社会、というものに‘順応’しつつあり、つまりは、徐々にではあるのだが、取り込まれ、つつあるのだと・・・自分自身でもその様な事を、肌で感じ取っていたのであった・・・。


 そして・・・彼が自分のマンションの部屋へと、帰って来ると・・・そこにはエプロン姿の、コーシュカが、どうやら料理を作り始めていた様で・・・見た目には、幸せなラブラブのカップルではあったのだが・・・パブロフ氏が少し沈んでいるのを、コーシュカもすぐに察して、

「・・・また、会社で何かあったの・・・?」

と、聞くので・・・彼は彼自身の今の感情、自分が人間社会にすっかり溶けんでしまう事への、不安・・・それとなぜか、以前見た、夢の話などを・・・つまりそれは、犬の群れと、人の群れとの間に挟まれて、身動きが取れなくなってしまっている自分がいる・・・その話を・・・。

・・・すると彼女は、意外にもいつもはおどけている様子とは打って変わって、真剣な表情で、

「・・・私の、元猫友達の中にも、そんな様な事で悩んでいる子がいるわ・・・やっぱり、皆考えちゃう事は同じなのね。」

パブロフ氏がスーツから家着に着替えて、彼女の部屋へと向かうと・・・ドアを開けた瞬間、エプロン姿になぜかフライパンを持ったコーシュカが、満面の笑みで立っていて、

「・・・アラ? いらっしゃいませ〜。」

と、明るく出迎えたのであった・・・。

彼、パブロフ氏は、その底抜けの明るさを見るにつけ、いつも救われるというか、癒されるというか・・・ともかく、そんな気分になるのであった・・・。


 そして翌日。

彼はいつもの様に出勤し・・・するとなぜだかその日に限って、珍しい事に朝から出勤していた、ペトロフ部長が、彼の方へとやって来て、

「・・・いやあ、調子はどうだね?」

パブロフ氏は、部長が早い時間に出勤している事が不思議であったので、キョトンとした表情のまま、

「・・・おはようございます・・・! ・・・部長こそ、どうされたのですか? この様な時間に・・・」

ペトロフ部長はあくまでも穏やかに、

「この私が、朝一番でいるのがそんなに珍しいかね・・・?」

「いえいえ・・・! 決して、そう言った意味では・・・」

部長は、なぜかその時ばかりは、重役の風格、らしきものを醸し出していて、

「・・・いや何、この私が・・・次期常務に、内定したものでね・・・」

パブロフ氏は、思わず椅子から勢いよく立ち上がり、

「・・・そ、それは、おめでとうございます・・・!」

と、もうすでに、すっかり人間の部下、になってしまっていたのだが・・・

「・・・それでなんだが・・・後任の、部長のポストにはだね・・・」

・・・と、部長は、パブロフ氏の顔のすぐそばへと、自らの三重四重アゴの顔を寄せて来て・・・。


・・・そうしてその日も、いつもの様に、太陽はいったん、真上へと昇ってから、西の地面へと吸い込まれる様に・・・低い位置へと・・・移動して行き・・・そうして・・・。


 ・・・またいつもの様に、終業の時間となり、殆どの従業員たちは家路へと、帰って行ったのだが・・・総務部総務課では、部長と、部長補佐、だけがなぜか居残っていて・・・二人して、やや真剣な話をしている様なのであった・・・。

「・・・どうしても、キミの気持ちは変わらんのかね・・・?」

と、部長がしかめっ面で尋ねると、パブロフ氏は、意外にもあっけらかんとした表情で、

「・・・はい。申し訳ございません・・・。」

「・・・せっかく、次の私の後任にキミを推したんだがねぇ・・・辞退するならまだしも・・・会社を辞める、などとは・・・」

「・・・誠に申し訳ございません・・・しかし・・・よくよく熟考して、考えに考えて、決めた事です。」

部長は、眉毛を、への字にしたまま、

「それで・・・辞めたはいいが、その後はどうするんだね・・・?」

「・・・ああ、はい。教師に・・・なろうかと考えております・・・突然の事ではありますが・・・」

この普段は良い意味でも悪い意味でも、悠然としている部長にしては珍しく、ウロウロと歩き回りながら・・・

「・・・確かにキミは・・・教員の資格を持っているのは・・・承知してはいたが・・・なぜ今になって?」

パブロフ氏は、この、心の底では秘かに軽蔑していた筈の人物が、意外と自分の事を気にかけてくれていた様であったので、驚くと同時に、今更ではあるが、ほんの若干、後悔の念もこみ上げて来たのだったが・・・しかし、そこは良き助言者でもある、コーシュカともよく話し合って決めた事でもあり、

「・・・申し訳ありません・・・今になって突然・・・という訳ではありません・・・ただ・・・言い出すタイミングが、無かったものでして・・・」

部長は、やや気まずそうに頭をポリポリと掻きながら、

「まあ・・・キミの様な優秀な人材を失う事は・・・我が社にとってみても、非常にダメージなのだがね・・・。」

「ああ・・・はい。そのお言葉は大変ありがたいのですが・・・ですが、わたくしの気持ちは、今申し上げました通りでして・・・」

「・・・そうなのかね。」

「あ、ハイ・・・突然の事で・・・ご迷惑をおかけして・・・済みません。」

部長のデスクの上には・・・『辞表』と書かれた、封筒が一つ置かれていて・・・実のところ、ペトロフ部長自身は陰ではパブロフ氏の事をからかいつつも、自分の後任にはパブロフ氏しかいないものと、以前から考えていたので・・・これで又、後継者を育てなくてはならなくなるな、やれやれ・・・などと、内心気が重くなるのであった・・・。

「・・・教師になる?・・・のかね?」

「ああ、はい・・・」

「そうか・・・」

「・・・この会社にも・・・自信を持って推薦出来る人材を、きっと育ててみせますので・・・」


 夕陽で綺麗なオレンジ色に染まった会社帰りの大通りを歩きながら・・・パブロフ氏はボンヤリと、考え事をしながら歩いていたのであった・・・。

彼は・・・会社員などは辞めて、彼自身が卒業した、いわゆる『犬支援特別学校』で教鞭を取る事を考えていたのである。

彼は・・・全く数字などは把握はしてはいなかったのだが、彼の様に犬やあるいは他の動物から人間となり、社会に出て・・・それはつまり、人間社会、という事なのだが・・・ちゃんと適応出来ている者もいたのであろうが・・・彼自身が、出世街道をあれよあれよと突き進んでいた、パブロフ氏自身が何より、居心地の悪さというか、生き辛さを感じていたので・・・それはおそらく人間だったとしても同じ事ではあったのだろうが・・・。彼としては、彼自身のつたない経験も生かして、もし人間社会に出たとしても、居心地の悪さを感じさせない様な、あるいは、上手い事、他人と付き合っていける様な・・・そんな動物、いや、人間を育てたいと・・・そういった思いへと、至ったのであった・・・。


やがていつの間にやら、気が付くとあっという間に辺りは真っ暗になっていて・・・ネオンサインやら街の灯りがチカチカと妙に眩しく・・・パブロフ氏は肩の荷が下りて、ほんの少しばかり気が楽になったからであろうか・・・? ・・・鼻歌などでメロディーを奏でながら、繁華街を・・・その歩みは・・・段々と早く・・・一層速くなって、愛おしいコーシュカの待つ、自分の住処へと・・・まるで今はもう生えてはいない・・・尻尾を振りながら・・・その様な足取りで、歩んで行くのであった・・・。


 ・・・彼の足元で、一匹の小犬が、キャンッ、と一声上げた・・・。


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犬のパブロフ 福田 吹太朗 @fukutarro

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