(106〜110)

(106)まだ太陽が昇る前の朝に電車に乗って出発し、釣竿とバケツを持って駅から桟橋まで黙々と歩く。餌をつけた糸を黒いタールのような海に垂らすと、ざざ、ざざと波音が低く腹に響き、ひたすら魚が釣れるのを待つ。生臭く強い風が顔に水滴をぶつけるのがまるで唾だ。


(107)十四歳。私は夜の十時に思い立って自転車で夜中までやっている古本屋を目指し走り出す。長い長い坂道をどんどん登って、一気に滑り降りるのが心地よくてたまらない。何冊か安い本を買って、歓楽街のネオンの隙間を縫うように自転車で走り回り、路肩に止めて客引きの女たちを眺める。


(108)戦争のあった時分、雪山を行軍する兵隊さんのために、上質の毛皮がとれるというので大量に飼われたオバケイタチが、終戦とともに放置され勝手に山間で繁殖し、度々里に降りては子供らをさらっていくので、退治するために男たちが駆り出され山に繰り出していくのを鎮守の木の上から眺めた。


(109)所用あって過疎地に訪れた法主が、請われて長者の屋敷に招かれた。宴がひらかれ、その夜法主は特別に整えられた別室で休んだが、深更、蛙の鳴き声に悩まされていっこうに眠れない。故事では後鳥羽院が「黙れ」と命じそれから七百年沈黙した蛙もいたというが、自分にそのような力はあるまい。


(110)独裁者の煽動に乗せられて、押し寄せた群衆が博士の屋敷を取り囲んだ。門を破って雪崩れ込み、火を放ち、家族使用人ともども皆殺しにする。夜陰に紛れ地下室から逃げ出した博士と書生が丘の上から振り返ると、夜空に炎が立ち上り、惨劇を悲しんでか月は雲に隠れたままだ。わしも人でなしだなと呟く。

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