X5―4 本庄椿と武永宗介 その4

 カチリ、とスイッチ音が響く。


 反射的に目を閉じてしまった。もしも「賭け」に負けたら俺の人生はここまでか。

 やり残したことなら腐るほどあるが、今は自らの無事を祈ることしかできない。





 周囲は虚しいほどに静かで、火の上がる気配はなかった。

 物質が燃える時に特有の、周囲の温度まで上がるあの感覚は襲ってこない。


 おそるおそる目を開けると、着火装置を眺めて椿が呆然と立ちすくんでいる。


「な、なんで……」


 カチカチカチカチカチ、と何度もスイッチを押し続ける椿。

 しかし着火装置は炎どころかガス一つ吐き出す気配は無い。

 

「おかしい、おかしい、おかしい……だってこれ新品で、使用テストもして、点かないはずが……」


 椿の呟きとスイッチの乾いた音だけが部屋にこだまする。

 思わず安堵の息を漏らしそうになったが、もう少しだけ堪えないと。椿のダメージを最大化するためにも。


「なんで、だって、そんな……」


 椿は着火装置を投げ捨て、キッチンのコンロに飛びついた。

 点火スイッチを押すが、そちらもカチカチと音を立てるだけでやはりガスは出てこない。

 まあ、コンロに関しては元栓を閉めてあるので点火するわけがないのだが。


 そんなことにも気づかず、椿はスイッチを執拗に押し続けた。カチカチカチカチカチと。その額にはうっすら汗が滲んでいる。


「おかしい、おかしい、こんなはずは……」


 危うい賭けだったが、読み通り火事は起きなかったようだ。

 「彼女」だけが生き残って俺と椿が焼死する最悪のパターンも考えていたが、なんとか命拾いしたようだ。


 ようやくスイッチを押す手を止めた椿が、だらんと首を下げる。

 やっと諦めたのか、あるいは……


「先輩、何かしましたね?」


 垂れ下がった首をゆらりと横に向け、不気味な角度で睨んでくる椿。

 怖くないと言えば嘘になるが、今はこちらが優位のはず。ここは毅然と立ち向かわないと。


「さあな。『俺は』何もしてねえよ」


「そんな小癪な嘘で……」


 途中まで言いかけた椿は、はたと口を噤んだ。そして俺のいる位置とは逆方向にある玄関を睨む。


「まさか……!」


 突然走り出した椿。その勢いのまま玄関ドアを開くと、そこには。


「わっ……! 本当にやったのね、本庄さん」


 ガソリンまみれの部屋に驚く浅井先生の姿があった。







「うぅ……卑怯です……卑劣です……二人がかりなんて」


 村瀬のマンションのエントランスで、椿は体育座りでべソをかいていた。

 一世一代の大勝負に完敗したのだ。落胆もひとしお、といったところだろう。


 ちなみにガソリンまみれの部屋は、あらかじめ手配してあった清掃業者に依頼して清掃中だ。

 村瀬に被害報告をすると、「汚れが血じゃなくて良かったよ。ラッキーだったね」と笑えないメッセージが返ってきた。


 ちなみに清掃代は椿持ち、汚した家具・調度類は村瀬が立て替えて椿の借金扱いとすることになった。

 これでもかなり寛大な処置だ。村瀬の懐の深さに椿は感謝すべきだと思う。


 俺としては椿を放火未遂で警察に突き出してやりたかったが、浅井先生や村瀬たちに止められて断念することにした。

 彼女ら曰く「同じ男性に惚れた情け」というやつらしい。

 「立場が違えば私たちも似たようなことしてたかもだし……」とはにかんだのは浅井先生。これと同レベルの事件が起きるなんて怖すぎるし、そんな照れながら言うことじゃないんだが……


「ちなみに椿、二人がかりじゃないぞ。五人がかりだ」


「なおさら卑怯じゃないですか! ずるいずるいずるい」


「お前もモアちゃんや伊坂をけしかけて俺を襲ってただろうが……」


 自らの行いを棚に上げる椿に呆れつつ浅井先生の方を振り返ると、彼女も苦笑していた。

 清々しいほどに悪辣な椿を相手にしているのだ、複数でかかるくらいは許してほしい。




 実のところ、作戦は前々から立てていたのだ。


 椿が派手なことを仕掛けてくるとすれば、おそらく村瀬の不在時。それも旅行中であれば椿にとってはなおさら好機であろう。

 そこで俺は、この三連休より前の週に浅井先生、リーちゃん、村瀬、千佳を集めて作戦会議を開いたのだった。


 リーちゃんと千佳には交代で椿の見張りをしてもらい、怪しい動きがないか浅井先生に連絡を取ってもらっていた。

 彼女らの助力が無ければ浅井先生は間に合わず、俺は今ごろお陀仏だったかもしれない。


 村瀬には家とその近辺に防犯カメラを設置してもらった。

 椿の今回の凶行はバッチリ録画されているので、今後椿が無茶した時は脅しの材料になるだろう。


 そして今回の作戦の要は浅井先生。彼女の持つ、自らの身を守る不思議な力なくしては被害を防げなかっただろう。

 彼女が俺と椿の間に割って入れば、物理的な攻撃は無効化してくれるはず。その想定通りの結果となった。


 椿のやり方次第では俺と椿だけが死ぬ危惧もあったが、無茶な広範囲攻撃を仕掛けてくれたお陰でかえって助かったわけだ。


 椿がいくら怪物じみているからといって、本物の特殊技能を持つ浅井先生や千佳、それから機転の利くリーちゃんや村瀬まで相手にするとなれば流石に敵わないとわかった点も良かった。


 ちなみに俺は囮役である。ほとんど他人の力頼りで、自分の身を賭ける事ぐらいしかできないのが俺だ。

 椿の奴は俺を「主人公」だと言ったが、こんな情けない主人公いてたまるか。


「で、浅井先生。コイツ本当に警察に突き出さなくて大丈夫か?」


「うーん……大丈夫ではないかもだけど、今回は人的被害も無いから。姫子ちゃんへの弁償で許してあげましょ」


「前から思ってたけど、浅井先生は椿に対して甘くないか?」


「それは否定できないわね、自分でも不思議だけど。本庄さんと私も、何かしらの縁が繋がっているのかも」


「気持ち悪いこと言わないでください」


 椿が顔を上げ、恨みがましい目で浅井先生を睨む。

 容赦してもらった側の態度じゃねえな、まったく……


「私の縁は先輩としか繋がっていませんし、先輩だってきっとそのはず……」


「そうでもないわよ。おばあちゃん曰く、私たち5人とも武永先生と縁は繋がっているらしいわ。どこかでボタンの掛け違いがあれば、誰が結ばれていてもおかしくないんだって」


「信じません……信じませんよそんなこと……」


 椿がブツブツと呻いてる間に、リーちゃんが物陰から寄ってきた。

 千佳の白蛇、レアも近くにいるので間もなく千佳も到着するだろう。

 このタイミングで村瀬も電話をかけてきたので、ビデオ通話で参加してもらおう。


 そういえば、全員が勢揃いするのは初めてかもな。


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