X5―3 本庄椿と武永宗介 その3

「あの時思ったんです。私の運命の人はその大学生さんだって」


「そんな程度の出来事で俺に粘着してたのか、お前」


「重大事ですよ。受験は文字通り人生のかかった大勝負ですからね。運命の人に救い出されるなんて、まるでシンデレラのようじゃありませんか?」


「ガソリンまみれのプリンセスか。おぞましすぎて童話にならねえよ」


「それに、あの時助けてもらえなければ先輩と同じ大学には通えませんでしたから。これはやっぱり運命なんですよ」


「無視してればよかった、クソっ……」


 俺の悪態も気にせず椿は満足そうにニヤついた。思い出してもらえたのがよほど嬉しかったらしい。


 かたや俺は、椿を助けたことなんてすっかり忘れていた。というか顔も覚えていなかった。

 困ってる人がいたら助けるのなんて当たり前だし、いちいち覚えてられるかチクショウ。


「まあ、あの出来事がなくても私は先輩に惹かれていましたよ。いつ、どこで出会っていたとしても。何たって私たちは運命の赤い糸で結ばれているのですから」


「ただの白い糸をお前が血染めにしただけだろ……」


 確かに俺と椿の間には何かの縁があるのだろう。それは認めざるを得ない。

 ただし、決して「運命の赤い糸」なんてロマンチックなものじゃない。腐れ縁とかそういう、もっとドロドロした物のはずだ。


 椿は自らの小指をうっとりと眺める。アイツの濁った目で見れば、赤い糸が確かに存在するのだろう。

 俺の目にはまったく見えないし、そんな都合のいいものが存在するとも思わないが。


「お人好しすぎる、というのも難儀なものですね。捨て猫を拾った責任は最後まで果たさないと」


「何が猫だ。残飯漁りのドブネズミめ」


「それだと先輩が残飯ってことになりますね。骨までしゃぶらせていただきます」


 椿は目を細めてニタリと笑うと、着火装置を俺に向けた。

 もうこれ以上猶予はやらない、と言いたげだ。


「さあ、謎も解けてスッキリしたでしょう。後は婚姻届に記入するだけですよ」


「お前なあ……仮にも恩人に対してこんな無礼なマネして心が痛まないのか」


「悲しみのあまり心臓がはち切れそうです。先輩が首を縦に振ってくれれば済む話なのに……私だって辛いんですよ」


「狂ってるよお前」


 紙とバインダーを握りしめて椿を睨みつけると、奴はますます嬉しそうに笑った。

 俺がどれだけ虚勢を張ろうと、椿が圧倒的優位な状況に変わりないのだ。それは誰よりも俺がわかっている。


「最初のカウント、どこまでいきましたっけ? 残り3だったか2だったか……」


「4だよ。わかってて言ってるだろお前」


「そうでしたっけ、うふふ。じゃあ気を取り直して。よーん」


 椿は4本の指を見せつけてニタニタしている。そして、ゆっくりと細い小指が折られていく。


「さーん」


 もう時間が無い。これまでか。俺一人でここから逆転する手立ては無い。

 クソっ、椿と心中なんて死んでもごめんだ。


「にー」


 やむを得ない。婚姻届に記入するか。これを書いたとしても役所に出されなければ良い話だ。

 書くフリだけでは椿はカウントをやめないだろうし、この近距離で誤魔化せるとも思わない。


 用紙に目をやると、ご丁寧に「夫になる人」の名前欄だけ空けてある。

 なんかの奇跡が起きてこの紙だけ燃えてくれないかな。無理か。


 できれば書きたくはなかった。用紙を回収したら椿は即刻役所まで走るだろうし、穏便に止める手段は皆無と言ってもいい。


「いーち……」


 ゆっくりになったカウントに合わせて、俺は「武永宗介」の文字を書ききった。

 隣の「妻になる人」欄には「本庄椿」の名前。

 名前を横並びにされるだけで不愉快だなんて、俺の椿嫌いも筋金入りなのかもしれない。


 記入した用紙を椿に見せると、ヤツの顔が狂気に歪む。かつてないほど上機嫌の様子だ。悪魔が人間を食らう時はきっとあんな表情をするのだろう。

 どんな絵画でもあのグロテスクさは描けまい。


 のんきに椿の顔を眺めている場合じゃない! このままじゃ心も身体も式場まで持ってかれる。

 やってやる、お前の思い通りになってたまるか。


 腰抜かすなよ、ドクズめ。


「ぜー」


 紙を渡すまでカウントは止めないつもりか。椿らしい執念深さだ。

 仕方がないので半歩踏み出し、椿との距離を詰める。


 そして、椿が0カウントを言い終わるより前に、俺はペンとバインダーを投げ捨て、婚姻届に両手をかけた。

 この姿勢から繰り出される動きは一つ。勢いよく、右手を下に、左手は上に!


「あぁーっ!!」


 椿と叫ぶと同時に、バリィッと心地よい音とともに婚姻届が二つに裂けた。

 さらに4つ、8つ、と細かく引きちぎっていくと、胸がすく思いだった。


 呆然とする椿。目の前の光景に処理能力が追いついていないのだろう。

 俺がここまで派手に断ることは想定していなかったか。いい気味だ。


 ビリビリにやぶけた破片を慌てて拾おうとする椿を見下す気分は爽快だった。

 たまには痛い目見てもらわないとな。俺だって黙ってやられているわけじゃない。




「うふ、うふ、うふ。ふふふふふふふふ」


 不気味な声とともに椿がゆらりと身体を起こした。顔の右半分が涙に歪み、左半分が笑みを浮かべる、あまりにもいびつな表情だ。


 ガソリンまみれになった用紙の回収は諦めたらしい。「破れた婚姻届」なんて縁起の悪いもの集めて仕方ないと悟ったか。

 そもそも貼り合わせたところで役所は受理してくれないだろうしな。


「私と一緒に死にたいんですね先輩。分かりました。もういいです。地獄にも式場くらいあるでしょうしね」


「やってみろ疫病神」


「いいんですね。やりますよ。私は本気ですよ」


 椿の呼吸が激しく乱れていく。コイツでもさすがに死ぬのは怖いか。意外なような、そうでもないような。

 ちなみに俺は死ぬのが怖い。今だって本当は泣き叫びたいくらいなのだ。


 それでも、やらねばならない。「彼女」……いや、「彼女ら」だって覚悟しているのだ。

 俺だけ裸足で逃げ出すなんて、できるわけがない。


「さようなら先輩。また地獄で会いましょう」


 椿は目を瞑って天井を見上げ祈るように両手で着火装置のスイッチを押した……!


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