X5―2 本庄椿と武永宗介 その2
「5」
カウントダウンが続く。何とかこれを止めないと。
椿が4を言い始めるより先に、急いで婚姻届をもぎとった。
もちろん書くつもりなんてない。ただの時間稼ぎだ。
「あら先輩、やっとその気になってくれましたか。一人で書けます? 手を添えましょうか?」
「机までガソリンまみれなせいで書けないんだが」
「そう仰ると思って」
椿はカバンからバインダーを取り出した。用意周到なことだ。
机が無いことでゴネてもう少し時間を稼げると思ったが。
「自分から紙を受け取るなんて、先輩も本当は私と結婚したかったんじゃないですか? かわいい照れ隠しですねえ」
「焼死したくないだけに決まってんだろアホが。それより椿、書く前に聞いときたいことがある」
「何でしょう? まさか時間稼ぎのつもりじゃないでしょうね」
……さすがにお見通しか。まあいい、どんな手を使ってでも躱し続けないと。
コイツと心中するのはゴメンだが、婚姻だって絶対にしたくないのだ。籍を入れたが最後、離婚なんてさせてもらえないだろうしな。
「まあ時間稼ぎでもいいですよ。すぐにガソリンを除却する方法なんてありませんし、助けが来た瞬間に手元の着火装置を押すだけですから」
「いいのか? お前は二人きりで心中したいんじゃないのか?」
「そこは妥協しますよ。死人が増えた場合は、地獄で仲人でもやってもらいましょう」
椿が地獄に堕ちるのは当然として、俺や助っ人まで引きずり込むつもりかよ。
コイツの場合、地獄の淵まで実際に引きずり込んできそうだから困る。
「それで、訊きたいこととは」
「お前が入学してくる前に、どっかで会った気がするんだ。でもどこかは思い出せなくてな」
「あら、あら、あら」
椿は左手で口元を隠してクスクス笑った。右手は相変わらず着火装置のトリガーに掛かっており、隙は見せてくれそうもない。
「そこまでいけばもう少し。もし思い出してくれたら、たとえ火事になっても先輩が苦しまないよう一息で逝かせてあげますね」
「なぶり殺しにするつもりだったのか……」
ちなみに「どこかで会った気がする」というのは真っ赤な嘘だ。
椿の気を逸らすためだけにデタラメを言ってみたのだが、案外的はずれでもなかったらしい。
しかしそうなると、俺はどこでコイツと会ったんだろう。
「じゃあまた10秒カウントしますので、その間に思い出してくださいね。無理ならDEATH or MARRIAGEということで。はいスタート」
「ちょっ、待っ……!」
時間稼ぎどころか墓穴を掘ってしまった!
手がかりすらないのに、どうやって思い出せというのか。物心もついてない幼少期の出来事なら即刻アウトだぞコレ。
「待て待て! せめてヒントくれよ!」
「3秒経過」
話し合いの通じる相手じゃなかった。自力で考えるしかなさそうだ。
椿と会った? いつだ? 俺が高校生の頃とか? 中学生か? もっと前?
わからんわからん。もし椿が今と全然違う容姿ならわかる訳ないだろ。
「6秒経過」
「無理だって無理無理」
「9秒経過」
「ああー!!」
俺が大声で叫ぶと、ようやく椿はカウントを止めた。
そう、窮地に立ってこそ俺の閃きは冴え渡るのだ。これまでだって椿の横暴に応えてきた俺だ。こんなところで死んでたまるか。
「思い出しました?」
「わかったぞ椿、お前の狙いが。本当は俺たち会ってなかったんだろ。もっともらしいことを言って、俺の気を引こうと……」
「違います」
違った。結構自信あったんだけどな……
まったく思い出せる気がしない。そもそも俺は記憶力がいい方じゃないんだよな。
「すまん、忘れてたことは謝る。ここまで思い出せないとちょっと罪悪感出てきたわ」
「別に謝らなくていいですよ。先輩にとっては人助けが日常茶飯事なんでしょうし」
「そんな大層なもんじゃねえよ。暇がなきゃ誰かを助けたりしないしな」
「ハァ……嘘ばっかり。先輩はどうしようもない人ですね。どうしようもないお人好し」
「えっ……」
「どうしようもないお人好し」。そのフレーズを俺はどこかで聞いたことがある。それもずっと昔ではない。比較的、近い昔に言われたような。
「お前、もしかしてあの時の……」
「だからそういうのはもういいです」
「あの時の受験生か……!」
椿の細い目が力いっぱい見開かれる。どうやら当たりだったようだ。
そして安堵したような、寂しそうな目で微笑む椿。初めて見たその表情の意味は俺にはわからなかった。
「やっと思い出しましたか……」
椿の笑みは一瞬で、すぐに呆れたような顔に戻った。
コイツ、俺に惚れてるとかぬかす割にはちょっと俺のこと見下してんだよな……
「たった4年前のことを忘れてるなんて驚きです。いくら先輩がニブちんだからって」
「うるせえな。あの時は急いでたんだから仕方ねえだろ」
「本当にバカな人」
おぼろげだった記憶がどんどん鮮明になってくる。
そうだ、あれは俺がもうすぐ二回生になろうという2月の出来事。今から数えて3年以上前だから忘れていた。
ちょうど大学入試の日だった。朝からバイト先へ急いでいた俺は、駅の近くで不安げにキョロキョロ辺りを見回す受験生を見かけたのだ。
うちの大学は駅から少し歩かないとたどり着けないが、今時ならスマホの地図があれば迷わないはず。
しかし彼女はスマホを持たず入試案内の紙を持ってオロオロしているだけだった。
その姿を見て俺は直感的に悟った。「きっとこの子はスマホを家に置き忘れたのだな」と。
バス停には長蛇の列。入試が何時からスタートするか知らないが、今から並んではギリギリの到着になるかもしれない。
ただでさえ不安な入試当日に、余計な心労は避けたいものだ。歩いて大学へ向かうに越したことはない。
あの子の道案内をしてやるべきか? でも俺も早くバイトに行かないと。今日は入試応援で人員が手薄なのだ。遅れるわけにはいかない。
よし、見なかったことにしよう。他の受験生に着いていけば大学まで行けるだろうしな。
それかタクシーでも使えばいい。タクシー乗り場も並んではいるが、相乗りでも何でも手段はあるはずだ。
わざわざ俺が助けてやる義理は無い、そう思って彼女の前を通り過ぎようとした。
だが、俺は愚かにもその受験生の前で足を止めてしまった。彼女の目尻に、透明な雫が浮かんでいるのを見てしまったからだ。
「あの、もしかして迷ってる? もし良ければ道案内しようか?」
その受験生は長い髪をかきあげて俺の顔を見上げた。
彼女の目は潤みきっており、涙の堰はほとんど決壊寸前の様子。
「い、いいんですか……?」
「俺もバイトで急いでるから早足だけど、それでも良ければ」
「えっ、でもそんなご迷惑じゃ……」
「ああもう、しゃべってる時間がもったいないな。早く行こう」
その受験生、高校生だった頃の本庄椿の手を引いて、俺は大学へ続く坂道を急いだ。
その途中、彼女が文学部を志望していると聞いてホッとしたものだ。文学部のキャンパスなら10分もあればたどり着く。
無事入試会場である文学部の玄関までたどり着いたのだが、バイトの始業時間まで10分を切っていた。
遅れそうだと焦る俺を見て、その高校生はお礼の後に「どうしようもないお人好しですね」と呟いてようやく笑顔を見せた。
今さらになって、涙を拭きながら笑うその姿をようやく思い出した。
その後俺は大急ぎでバイト先へ向かい、ギリギリ間に合った記憶がある。
当時の塾長は今より厳しい人だったため、間に合った安堵感で受験生を送った出来事をすっかり忘れていた。
ガソリンの臭いが立ち込める部屋。椿は着火装置を睨みながら、深く長いため息をついた。
にぶくて忘れっぽい俺に、心底呆れているのだろうか。それとも……
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