X5―1 本庄椿と武永宗介 その1

 人と一緒に暮らすというのは、なかなか大変なものだ。村瀬との暮らしでそれを痛感した。

 彼女がこだわりの強い性質だから余計に感じるのだろう。紅茶のポットを片づける位置を間違えただけでキレられた時はどうしようかと思ったものだ。


 もちろん家に帰れば寂しくないし、経済的にもメリットはあるのだが、一人暮らしの気楽さはやはり失われてしまうものだ。

 泊めてもらっている身分なので、村瀬の前でそんな愚痴は言えそうにもないが。


 しかし今日は、村瀬が家族旅行で家を開けている。お陰で久しぶりに一人時間を楽しめているのだ。

 彼女は三連休を利用してバリに行くらしい。まあ俺はバリがどこの国にあるのかすら知らないが。とにかく綺麗なリゾート地らしいので、一度くらいは行ってみたいものだ。


 そう言えば俺と暮らしていることを親御さんは知っているのだろうか。

 村瀬のことだから気にせず話してそうで怖い。

 お父さんあたりに「同棲してるんだから責任は取るよね?」と詰められたらどうしよう。今からでも言い訳を考えておかないとな……


 気楽な気持ちが半分、悩ましい気持ちが半分の状態で昼食のパスタを食べていると、玄関ドアが静かに開く音がした。


 村瀬が帰ってきたか? いや、それは有り得ない。今日は三連休の中日だし、天候不順とかで帰ってくるならさすがに連絡があるだろう。


 いつものパターンだ。侵入者なんてどうせ一人しかいない。

 食器を机に置き、廊下へと続くドアを睨む。閉まっているその扉の先には人の気配。

 椿の奴がいつ押し入ってきてもいいように、こちらも身構えておかないと。


 しかし、3分ほど待ってみてもドアは開かれなかった。

 いつもの椿なら俺の顔を早く見たがって飛び込んでくるところなのに。


 やっぱり村瀬が帰ってきたのか?


 半ば不審に思いながらドアノブに手をかけた瞬間、ドアが勢いよく開いた。


「うわっ!? やっぱりお前か!」


 ドアを開いた人物はやはり椿だった。そのまま抱きついてくるかと思い反射的に構えるが、その素振りはない。

 おそるおそる目を開けると、椿の手には大きなポリタンクが携えられていた。鼻をつくオイル臭でむせ返りそうだ。

 あの濁ったオレンジ色の液体……まさか、ガソリンか?


 椿を制止しようと動いた瞬間にはもう床にガソリンがぶちまけられていた。


「お前……! 冗談で済まねえぞこれ!」


 ガソリンが撒かれているのはこのリビングだけじゃない。

 玄関に近い廊下兼キッチンのあたりもガソリンまみれのようだ。

 なかなか部屋に入ってこないと思ったら、無茶苦茶なことしてやがったなコイツ……


「なに考えてんだバカ! 放火は未遂でも死刑とか無期刑になるんだぞ!」


「それがどうかしましたか? 私はですね、先輩と結ばれるためなら文字通り命を懸ける覚悟なんです。知ってるでしょう?」


「だからってお前……」


 いくら何でもやり過ぎだ。椿の振る舞いはいつもトチ狂っていたが、ここまでぶっ壊れてるのは流石に初めてだ。


 俺や椿の命が危ないだけじゃない。マンションである以上他の住人だって危ないのだ。

 「放火」という罪がテロ行為に近い大罪と定められているのも当然の話。燃えさかる炎は人の生命、財産、尊厳、あらゆるものを蹂躙していく。こんな危険な行為に手を出すなんて、椿もいよいよおかしくなったか。


 遮二無二椿の胸ぐらを掴むと、ジリリリリリ! と耳をつんざくような警報音が聞こえてきた。

 初めて聞いた音だが感覚的にわかる。これは火災報知器のベルだ。


「細工はちゃんと発動しましたね。先輩、これで他の人のことは気にしなくて大丈夫ですよ。今は私だけに集中してください」


「何がしたいんだよお前は……」


「先輩と一つになりたいんです。それだけですよ」


 逃げ遅れた人がいたらどうするんだとか、椿はそこまで考えてないのか?


 ヤツの細い目、その奥には真っ黒な目が薄く見えている。

 その濁った深淵は人を飲み込んでしまいそうなほど暗い。


「お前なあ、これじゃ火をつけた瞬間に即死だぞ。俺もお前も」


「それも素敵ですね。でも先輩は生きたいでしょう? ですからこちらに記名・押印を」


 椿が取り出したのは茶色の字で書かれた届出用紙。

 何度も見せられてきたので、書式を見るだけでその内容はわかった。


「俺が放火魔との婚姻届を書くと思うか?」


「正しくは放火未遂魔ですよ。今のところね」


 紙とボールペンを押しつけてくる椿。俺は両手をポケットに突っ込んだまま椿を睨むことしかできなかった。


 どうにも気分が悪い。ガソリンの臭いでクラクラしてきやがったか。窓が開いていなければ卒倒していたかもしれない。


「書くか、燃えるか、二つに一つですよ。私はどちらでも構いませんが」


「とんでもないアホだなお前。仮に婚姻届を書いたところでお前は塀の中だぞ。何の意味があるんだ」


「そうとは限りませんよ。私には確信があるんです」


 椿はニタニタと嫌らしい笑みを浮かべた。その右手には携帯式着火装置。

 俺が一言でも間違えば直ちに火を放つつもりだろう。

 鼻をつくガソリンの刺激臭が、これは脅しではないと伝えてくる。


「確信って……」


「これはXルート、先輩と私がついに結ばれるグランドフィナーレなのです。AからDルートではずいぶん苦渋を舐めさせられましたが、あれらはすべて夢の出来事。私の、いえ、私たちの現実はここにしかないのです」


「またお得意の妄想か。一人でやってろ」


「いいえ、一人ではできません。主人公がいないと物語は終えられませんから」


 ガソリンの揮発した嫌な臭いが部屋に立ち込める。かつてないほどのピンチだ。

 アイツは以前にも図書館に火を放とうとしていたが、あの時とは本気度が違う。

 撒かれたガソリンはもちろんのこと、椿の目がこれまでにないほど濁りきっているのだ。


 しかしこれはチャンスでもある。椿は越えてはならない一線を越えてしまった。

 ここさえ切り抜ければ、現行犯でアイツを留置所にぶち込める。これだけの危険行為を働きやがったのだ。もう容赦する理由もなくなった。


 椿のくだらない妄想に付き合うのもこれが最後だ。


「ご存知のとおり、私は気が長い方ではありません。10秒以内にお答えください。書きますか? それとも燃えますか?」


 俺が口も開かず椿を睨みつけていると、ヤツはため息をついた。


「猶予はもうありませんよ。10,9,8,7……」


 ついに地獄へのカウントダウンが始まった。


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