X4―4 ヤンデレと宿敵 その4

 椿と千佳の諍いから1ヶ月が経ち、俺は四回生になった。

 千佳も無事大学へ入学したので時々会ったりはしているのだが、それから同棲の話が出ることはなかった。





「武永くん、湯加減はどうかな。キミの愛らしい肌がのぼせやしないか心配でね」


「最高だよ。だから入ってくんな」


「本当かい? ならボクも一緒に……」


「だから何で入ろうとしてくるんだよ!」


 浴室を隔てるドア、そのすりガラスの向こうから村瀬の声が聞こえてくる。

 匿ってくれている礼として村瀬の望みを色々聞いてやったのがマズかったかな。なんかだんだん俺への執着が増してるような……


 結局タイミングを逃し逃しで、未だに俺は村瀬と暮らしている。

 日に日に増していくコイツの偏執狂に付き合うのは大変だが、無防備に一人暮らしを再開するのはあまりに危険なのだ。


 何故なら。





「さあ先輩、そろそろ誰が本物のヒロインかわかったでしょう? いい加減覚悟を決めてください」


「何の話だ。それよりお前、最近やけに上機嫌だな」


「うふふふふ。何故だと思います? 当ててみてください」


「知るかよ……」


 またしても村瀬の家の前で椿に捕まってしまった。

 コイツ常にここを張ってるのか? それとも俺が帰る時間を計算して?

 いずれにしても気色悪いことこの上ない。


 椿の機嫌がいい理由なんて知ったことじゃないが、コイツがご機嫌な時はたいていロクでもないことの予兆なのだ。

 詳しく聞くべきか、あるいは素知らぬ顔をしておくべきか……


「仕方ないですねえ、私から説明してあげましょう」


 うわあ……勝手に話し始めやがったよ。


「先輩はもうすぐ私のものになるんです。こんなに嬉しいことがありましょうか」


「意味がわからん。また俺を監禁しようってのか?」


「そんな必要はもうありません。先輩と結ばれる可能性のある人間はすべて排除できましたから」


「また妄想かよ……」


 口では椿の世迷言を切って捨てたが、実際は背中に嫌な汗がつたうのを感じていた。

 妙に確信めいた椿の口調が脳裏にこびりついて離れない。


「まず浅井さんですが、本人以上におばあさんが厄介なんですよね。だからあの人が出張ってくる前に先輩が焦って自爆するよう仕向けたわけです」


「いや、あれは俺が勝手にトチっただけで……」


「自らの意思決定なんて環境やタイミング、些細な歯車のズレで簡単にブレるものなのに、人はそれを『己の意志』だと信じ込む……不思議なものですねえ」


 椿お得意の衒学趣味で俺を惑わすつもりだろうか。

 その手には乗らねえ。コイツと論争なんて時間の無駄なのだ。


「黙っちゃいましたか。じゃあ次。莉依ちゃんも厄介でしたねえ。あの子は周りの人を巻き込む力が強いですから」


 椿はまるで謎解きをする探偵のように、人差し指で自らの額を叩いた。

 わざとらしい仕草がとにかく癇に障る。


「莉依ちゃん自身の不思議な魅力……人徳とでも言いましょうか。それを止めることはできません。ならどうするか」


「まさかお前……」


「そうです。周りの人間の力を失くしてしまえばいい」


 そこで俺の頭に浮かんだのは二人の人物のある表情。

 すっかり気力を失った諸星と麻季ちゃん。「肺積」に取り憑かれた、ゾンビのように青白いあの顔。


「なるほど……対処法に詳しいのも当然だったんだな。だって諸星に『肺積』を憑かせたのはお前なんだから」


「やだなあ先輩、言いがかりですよ。証拠は? 私がやったって証拠を見せてください」


「お前の不遜な態度が何よりの証拠だろうが……」


 呆れたマッチポンプだ。諸星たちを助けたように見せて、そもそも黒幕が椿だったなんて……

 リーちゃんから俺へのアプローチを妨害したうえで、彼女や諸星へ恩を売ったフリまでするとは。

 おそろしく緻密で、陰湿なやり口だ。


「村瀬さんの件は不本意でしたねえ。先輩と村瀬さんをくっつけないために、あえて二人を接近させる必要があるとは」


 椿がこちらに顔を寄せてくる。反射的に両手で押し返してしまったが、なぜか椿は満足そうな表情を浮かべていた。


「男は狩人ですからね。自ら追い求めるのは良くても、寄ってこられると逃げたくなるもの」


「さっきから何の話だよ……」


「嫌だなあ、先輩が一番わかってるくせに。そうそう、村瀬さんとの同棲はどうでしたか? 『コイツと結婚なんて無理だ』と思いませんでした? せめて二人の間を取り持つ人間がいれば別だったのでしょうが、先輩は自らバランサーを跳ねつけてしまいましたからねえ」


 バランサー……その単語を聞いてなぜか伊坂の顔が思い浮かんだ。

 バランス感覚とは程遠い変態のはずなのに、我ながら不思議だ。アイツと、もっと親しくしていれば違う未来もあったのだろうか。


「蛇娘は案外簡単でした。元々不安定なところのある子でしたからねえ。ちょこっとつつけばすぐに崩れる……」


「嫌な奴だな、お前……千佳に謝れよ」


「なぜ? 私は『血は水よりも濃い』というただの事実を述べただけですよ。悪いのはあの子の父親です。気の毒で憐れな娘……」


 椿は嘘泣きのためだけに真っ黒なレースのハンカチを取り出してみせた。

 乾いた目尻を見るまでもなくわかる、コイツは微塵も同情などしていないのだ。


「些事はさておき先輩、自らの置かれた現状が理解できましたか? さあ観念して、私と永遠の契りを……」


「バカなこと言うなよ。だいたい、仮にあの子らが全滅だとしても他の女性と結ばれる可能性だって……」


「それこそあり得ませんね。私のような負債を背負った先輩にわざわざ接近してくるなんて、あの変人たち以外にはいませんよ」


「お前いま自分のこと負債って言った? 本当にそれでいいのか?」


 椿はクスクスと笑いながらこちらに擦り寄ってくる。

 思わずその肩を突き飛ばすと、奴はそのまま倒れ込んだ。

 地面に這いつくばったまま、ニヤケ面を向けてくる椿。


 このまま走って逃げ去るべきなのに、脚が鉛のように重くて動けない。

 まさかこれも椿の妖術か何かなのか……?


 あるいは俺自身がもう諦めてしまってる、とか。


 いやいやいや、このまま椿と結ばれるなんて考えたくもない。想像するだけで吐き気を催す。

 でも、いま逃げたところで何が変わるというのだろう。

 これまでの全部が椿の手のひらの上の出来事だとしたら、俺にはもう逃げ場なんて……


 頭の中で逡巡しているうちに、椿が立ち上がってゆっくりこちらに近づいてきた。


 逃げねば。


 頭ではわかっているのに、身体がついていかない。完全に椿にペースを支配されている。

 椿の細く白い手がこちらに伸びてきた。まるで獲物を搦めとる蜘蛛の糸だ。


 早く、早く逃げないと……


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