X1―2 ヤンデレと大敵 その2

 今日のバイトは最悪だった。

 数学の証明問題で初めから計算を間違っていたり、国語の読解も設問とまったく逆の解釈を教えそうになったり。

 アタフタしすぎて生徒には笑われ塾長には心配され、格好悪いことこの上なかった。


 不調の原因はわかりきっている。今朝見た悪夢が、未だに頭を離れないのだ。

 さすがに明日になれば忘れていると願いたいが、夜になってもこの調子だとそれすら怪しい。

 剪定バサミを持った椿の不吉な笑みが脳裏にちらついて消えない。


 なんとか授業をすべて終え、講師控え室でため息をつくとふいに背中から声をかけられた。


「武永先生、どうしたの? 今日はずっと顔色が悪いみたいだけど……」


 どうやら浅井先生にため息を聞かれていたらしい。部屋には自分しかいないつもりだったが、死角に浅井先生がいたのか。

 人の気配にも気づかないくらい今の俺は弱っているようだ。


「ひどい夢を見てな。どうも朝から不調なんだ」


「あら……きっと疲れてるのよ、ゆっくり休んで」


「肉体的には疲れるほどのことしてないんだけどな……なんでだろ」


「それなら、ストレスとか?」


 ストレス……確かにそうかもしれない。椿のことはもちろんだが、それ以外にも心当たりはある。

 喜多村さんや諸星と話してから将来のことを色々考えるが、展望がぼやけていつも不完全燃焼で終わるのだ。


「ちょっと現実逃避とかしたい気分かもな」


「それなら私も付き合うわ。どこに行きたいとか、何か食べたいとかあるかしら」


「そうだな……自然の豊かなところがいい。肉とか……刺身もいいな」


 我ながらとりとめのない希望だったが、浅井先生は大真面目に聞いてくれていた。

 彼女は少し考えた後、パンッと両手を叩き合わせた。


「じゃあ今週の日曜日、ドライブにでも行かない? いい場所、探しておくわ」


「本当か? ありがてえ話だ」


 力なく笑う俺を浅井先生は心配そうな目で見ていたが、いくらか肩の力が抜けたのは事実だった。

 浅井先生に対する下心というより、彼女の真心に対して深く感じ入ったからだ。


 どこに連れていってもらえるのかはわからないが、日帰りでも遠くに行けることが嬉しい。

 とりあえず、当日は誰かに椿を引き留めといてもらわないとな……




 そして迎えた当日。実はまだ以前の夢を忘れられずにいるが、今日に限っては期待の方が勝っている。

 六甲駅のロータリーでぼんやり待っていると、以前にも乗せてもらったミニバンが姿を現した。

 運転席には浅井先生。後部座席に椿の影が無いかとさりげなく確認するが、どうやら大丈夫そうだ。


 椿に目立った動きが無いかはモアちゃんに監視してもらっている。

 お酒で買収した彼女に任せておけば、ある程度は安心して良いだろう。

 彼女がああ見えて義理堅いタイプなのを俺は知っているのだ。


「さあ武永先生、乗って」


「悪いな、日曜なのに付き合わせて」


「ううん。私もちょっと遠出したいと思ってたから」


「今さらだけど、これからどこに向かうんだ?」


「淡路島よ。景色もいいし、お肉もお魚もあるからきっと楽しいわ!」


 淡路島。その単語を聞いた瞬間、頭に鋭い痛みが走った。

 俺は以前、浅井先生や椿と淡路島に行ったことがある……?


 いや、そんなわけがない。過去に行ったことがあるならきっと記憶しているはずだ。

 きっと何かの勘違い、あるいはデジャヴとかいうやつだろう。


「大丈夫? 体調が悪いなら延期してもいいのだけれど……」


 助手席で考え込んでいた俺の顔を、浅井先生が心配そうに覗き込む。

 彼女の凛とした美しい顔が間近に見えて、ようやく俺はハッと我に返った。


「単に寝不足だけだよ。心配かけてすまん。いやー、それにしても楽しみだな!」


 無理に明るく振る舞う俺を見て、浅井先生はわずかに微笑み、車を発進させた。

 色々と言いたいことはあったろうが、あえてそれを呑み込んでくれる度量の広さ。


 彼女のそういった誠実な人柄は、外面の美しさ以上に気高いものだった。

 俺はそんな浅井先生に惹かれている。惹かれているはずなのだ。それなのに……





 車で明石海峡大橋を渡ると、穏やかな波を受け止める岩屋港が見えてきた。

 休日だけあってそれなりに人混みもできている様子。

 こういう観光地だと、いくらか人が集まっている方がなぜか安心できる。


「じゃあまずは、絵島を見に行きましょうか。せっかく近くまで来てるのだし」


「絵島?」


「イザナギ・イザナミ両神にゆかりのある小島……というか岩ね」


「なんで岩……?」


「霊力のある岩だっておばあちゃんから聞いたことがあって。武永先生は興味ない?」


「そりゃ気になるな! 行こう行こう!」


 正直に言えば岩なんぞにまったく興味は無かったが、浅井先生が楽しんでくれるならそれで良かった。

 スマホで調べてみるとそこはパワースポットらしいし、俺の沈んだ気分もいくらか晴れるかもしれない。


 それに浅井先生のことだから、俺を励ますために絵島に連れて行きたいのだろう。

 やり方はちょっとズレてるような気もするが、その気持ちだけで嬉しいものだ。


 車を駐車場に止め、歩くこと数分。目的の島(というか岩)はすぐに見えてきた。

 それにしても、この場所は……


「どうしたの? 武永先生」


「なんかここ、前にも来たことがあるような……」


「子どもの頃に来たとか?」


「いや……もっと最近。でもそれなら覚えてないはずがないし……」


 自分でも奇妙な感覚だった。来たことが無いはずなのに記憶だけがあるなんて。


「とりあえず近づいてみましょう。立派な岩だし、グルッと一周してもいいかも」


「そうだな。じゃあ右回りで……」


「私は左回りで行くから、向こうで鉢合わせるわね。ふふ」


「それも楽しそうだな」


 浅井先生と別れ、ゴツゴツした岩肌を撫でながら慎重に進む。

 足を滑らすと海に落ちそうだな。まあ、落ちたところですぐに上がってこれるだろうが。


 しかし妙な感覚だ。俺はやはりこの岩の感触を知っている。

 肌触りだけじゃない。色も、匂いも、空気感すら覚えがあるのだ。

 デジャヴや勘違いにしてはあまりに鮮明すぎる記憶。

 俺はいったい、どこでこれを……


 ぼんやり考えながら進むうち、もう外周の半分くらいに到達したようだ。元来た側の景色がすっかり見えなくなった。

 そろそろ浅井先生の姿が見えてもおかしくないのだが。


 数分待ってみたが、まだ浅井先生の姿は見えない。もしかして彼女の身に何かあったのか?

 ひとまず連絡してみようとスマホを操作しだすと、目の前に人の気配を感じた。


 なんだ、やっぱり近くにいたのか。


「遅かったな、浅井せん……」


「ばあ」


 顔を上げた瞬間、とてつもない絶望感に襲われた。

 おかしい。こんなことあり得ないはずなのに。


「なんで、お前がここに……」


 俺の目の前に現れたのは憎き悪辣変態ストーカー、本庄椿だったのだ。



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