X1―1 ヤンデレと大敵 その1

【まえがき】

「55 選択」の続きで、武永が答えられなかった場合のお話です。


(以下本文)



「ダメだ。誰も思いつかねえわ」


 目を閉じて10秒ほどじっくり考えてみたが、未来で俺の隣に立つその人は、モヤがかかったように姿が見えなかった。


 俺の返答を聞いた諸星は、深く頷いて嘆息した。

 どこにそこまで納得したのかはわからないが、どうも奴なりに思うところがあったらしい。


「まあ焦るこっちゃねえよなあ。お前が誰を大切にしたいかはよく考えた方がいい」


「大切と言えばみんな大切だけどな」


「だから全員と付き合えって言ってんだがなあ」


「そこまで極端に振り切れるのはお前くらいだっての」


 その後は諸星と他愛の無い会話を続け、ほどほどのところで解散となった。


 帰り道、諸星の問いを何度も反芻する。俺にとって隣にいてほしい人……

 どうして俺はあの質問に答えられなかったんだろう。


 あの瞬間、俺は誰を選ぶべきかハッキリ表明するべきだったのかも。

 なんとなく、曖昧な自分の態度が情けなく思えてきた。

 「二兎を追う者、一兎も得ず」なんて言うが、俺は四方八方に逃げ去る兎たちの背を黙って見ているだけなのだ。

 指一本動かせず立ちすくむ理由は……何なんだろうな、本当。






 その夜、俺は真っ暗な空間で目を覚ました。


 目を覚ました? いいや、きっとこれまだ夢の中なのだろう。

 明晰夢ってやつだろうか。意識ははっきりしてるのに、ここが夢の世界であることだけはわかる。


 俺はいま、一糸まとわぬ姿で真っ暗な海に浮かんでいる。クラゲにでもなったような気分だ。

 重力の薄い空間では上下左右の区別も曖昧だ。ただ自分の身体がそこに在ることだけが認識できる、寂しくて侘しい世界。


 出口もわからないのでぼんやり漂っていると、正面から薄暗い影が迫ってきた。

 明かりもない空間で影を認識できるなんて不思議なものだが、もっと奇妙なことに、俺はその影をよく知っているような気がした。


 目を凝らしてじっくり見ると、その細い影は口を開いていた。何かをこちらに訴えようとしているのか?


 生ぬるい空気震動とともに「影」の声が聞こえてくる。

 耳を塞ぎたかったが、この空間では無駄な抵抗だとわかっていた。


「先輩……いい夢見れましたか?」


「やっぱりお前か……」


 声が聞こえてくると同時に、影がだんだん鮮明に形を成してきた。


 俺のよく知るヤンデレ幽霊、本庄椿が全裸で向かいに漂っている。


「良かったですねえ先輩。色んなヒロインと幸せな行く末を堪能できて」


「何の話だ」


「しかしですね、先輩。それらは夢幻でしかなかったのですよ。理由はもうおわかりですね」


「何のことかわかんねえって言ってんだが」


「そう、先輩が結ばれる相手はこの本庄椿ただ一人なんですよ。あれらはすべて偽史でしかありません」


「……」


 椿の主張は少しも理解できなかったが、何故か俺はヤツの言葉を無視することができなかった。

 別に椿の話に説得力があったわけじゃない。どちらかと言えば問題は俺の方にあるのだ。

 いや……「問題」というより「心当たり」と言った方が適切か。


 俺は知っている。「彼女ら」と過ごした幸せな日々を。

 頭でもなく、心でもなく、魂が記憶しているのだ。

 今ここにいる俺は、誰も選べなかった半端者のはずなのに。


「腑抜けた表情ですね。あんな連中に惑乱されたばっかりに」


「やめろ、近寄るな……」


「でももう大丈夫ですよ。私が救ってあげますから。要らないものは全部切ってしまいますから」


 どこから取り出したのか、椿は両手持ちの剪定バサミを構えてどんどんこちらに向かってくる。

 身をよじって逃げ出そうにも、無重力空間では進行方向が定まらない。


「や、やめ……」


「大丈夫、痛いのは一瞬ですよ。力抜いてくださいね」


 椿が俺のヘソ下にハサミを添える。柄の真っ赤なハサミから伝わる、金属特有の冷たさが身に染みた。


 よくよく目を凝らすと、ヘソから半透明の管が数本伸びていることがわかる。

 これらを切られてはならない、直感的にそう感じた。


 自由の利かない身体でなんとか椿の腹に蹴りを入れると、ヤツは悶絶してハサミを取り落としかけた。

 どうせここは夢の世界だ。このまま畳み掛けて、再起不能にしてしまえ。


 もう一発をヤツのみぞおちにお見舞いしようと爪先を溜めた瞬間、足の甲に圧迫感を覚えた。


 俺の足が椿の手で押さえつけられている?

 バカな。ヤツの両手は剪定バサミで塞がっているはずなのに。 


 まさかコイツ……手が、4本あるのか……?


 驚愕しているのも束の間、腹部に鋭い痛みが走った。


 まずい。切られた。逃げないと。


 頭ではわかっているのだが、痛みで身体が動かせない。

 悶えているうちに半透明の管が次々と切られていき、管は残り一本となってしまった。


 そこで椿の動きが止まる。俺はといえば、すさまじい痛みに意識が朦朧としてきていた。


「邪魔な枝は全部切れましたねえ。これで先輩は……」


 意識が遠くなっていく。俺はこのまま死ぬんだろうか。最期に見た光景が椿の薄気味悪いニヤケ面だなんて、我ながらあまりに不幸だが……






「んはぁっ!」


 自分の大声に驚いて目が覚めてしまった。背中にぐっしょりと汗を感じる。

 今はまだ朝の4時か。全身にひどい倦怠感があるものの、二度寝をする気にはなれなかった。


 それにしてもひどい夢を見たものだ。今でも下腹部に妙な違和感がある。


 ぼんやりした頭で朝食の準備を進めていると、「ピンポーン」とチャイムの音が聞こえた。こんな朝早くに呼び出し音を鳴らす非常識なやつは一人しかいない。


「帰れ」


「まあまあそう言わずに。今朝は素敵な夢を見たんです。聞きたいですか? 聞きたいですよね?」


「聞きたくない」


「私と先輩が宇宙空間のような場所に漂っていてですね……」


「それ以上しゃべるな!」


 玄関口に鳴り響いた俺の怒声に、椿は目を丸くして固まっていた。

 尋常でない俺の態度に、ヤツも異変を感じたのだろう。


「すまん。今日は虫の居所が悪くてな」


「いえ、そういう日もありますよね。また大学で会いましょう」


「ああ。気をつけて帰れ」


 俺からいたわりの言葉を受けると思っていなかったのだろう。椿はまた驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直して去っていった。


 部屋に戻り、下腹部を触るとジクジクと痛みが蘇ってきた。

 椿の顔を見てしまったからだろうか、どうにも不吉な気分だ。


 しかしその煩悶は一時的なもので、コーヒーの用意ができる頃にはもう痛みを忘れていた。






 疲れていても大学を休むわけにはいかない。今日は必修のゼミがあるのだ。


 寝不足の重い頭を働かせ、どうにか玄関ドアをくぐる。

 すると、玄関を出た右脇に真っ赤な剪定バサミが置いてあった。


「ヒッ……」


 あまりの事態に息が詰まり、喉から声とも音ともつかない何かが漏れ出た。


 あわてて目をこすり、再度その位置を確かめると、そこには消火器がぽつんと置いてあるだけ。


 見間違えにしては極端だな……どうも俺は相当参っているようだ……


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