X1―3 ヤンデレと大敵 その3

「先輩こそ、なんでこんなところにいるんですか? 不倫旅行なんて感心しませんねえ」


「ゴチャゴチャうるせえ。それより浅井先生はどうした? 返答次第じゃタダじゃおかねえぞ」


 不安定な足場に注意しつつ椿に詰め寄ると、ヤツはいやらしい笑みを浮かべた。

 寄せては返す波の音がやけにうるさく聞こえて不愉快だ。

 秋に入り始めたこの頃では、水しぶきが少し冷たく感じる。


「物騒ですねえ。私があの女に手を出せないのはよくご存知でしょう?」


「だったらなんで彼女はいないんだ」


「先輩が海に落ちたって伝えたら、車の方へ走っていきましたよ。タオルでも持ってきてくれるんじゃないですか?」


「よくもまあ、そんな嘘を……」


「これが嘘でもないんですよねえ」


 椿の手の動きに気づいた時にはもう遅かった。

 視界がぐらつく。ふわりと身体が浮くような、バランスを崩す時特有のあの感覚。


 バシャアン! と派手な音がした後、俺の視界は半透明の世界に染まった。

 塩水が喉に入りこんでむせ返りそうだ。


 アイツめ、いきなり海へ突き落とすなんて……俺が泳げなかったらどうするつもりだったんだろう。

 まあ、俺が泳ぎの得意なことを知ってるからこその凶行なんだろうが。


 いくら泳げるといっても、いきなり水中に落とされてはさすがに苦しい。

 ほうほうの体で岩場に登ると、そこには心配そうな浅井先生が待っていた。

 彼女の差し出してくれたタオルで全身を拭いてはみるが、服ごとびしょ濡れでどうにも気持ち悪い。


「大丈夫? 武永先生」


「あ、ああ……それより椿は」


「私が戻った時にはもういなかったわ。どうしてここがわかったのかしらね」


「さあな……モアちゃんが裏切ったか、あるいは……くしゅん!」


 言いかけた言葉もくしゃみで遮られてしまった。

 こりゃデートどころじゃなさそうだ。まったく、厄介なことしてくれる。


「ごめんなさい、着替えは持ってなくて……」


「謝ることじゃねえよ。そこのコンビニでシャツとか一式買ってきてもらってもいいか?」


「そ、そうね……」






 一応服は着替えたものの、こんな状態でデートを続けられるはずもなく、気を利かせた浅井先生が俺の家まで送ってくれた。

 帰りの車内はなんとなく盛り上がらず、せっかくの遠出も不意に終わってしまった。


「風邪、ひかないようにね」


「ありがとな。風邪ひいたら椿の奴にうつしてやるさ」


「人にうつしたら治るって言うものね。何なら私にうつしてくれてもいいのよ?」


「いやいや! これ以上浅井先生に迷惑かけられないって!」


「そう? 私は、別に……」


「今日は色々迷惑かけちまったな。浅井先生もゆっくり休んでくれ」


「ええ……」


 運転席へ戻った浅井先生の横顔はどこか寂しそうに見えた。

 せっかくのデートがつまらない理由で中断されてしまったしな……

 しかも椿は俺を落とすだけ落として逃げ去るし、本当ハタ迷惑な奴だ。


 まあ俺のことはともかく、浅井先生に無駄足を踏ませてしまったことが悔やまれる。

 落ちこむ俺を励ましてくれようとする彼女の献身を無下にしてしまったのだ。


 椿をぶん殴るのは当然として、なんとか埋め合わせをしないとな……






「なあ浅井先生、今度の日曜日……」


「ごめんなさい、今週は予定があって」


「なら来週は?」


「来週も予定があるような気がして……」


「平日でもいいんだが……」


「そろそろ院試の勉強も始めてるから、ごめんなさいね。本当に」


 心底申し訳なさそうに謝る浅井先生を前に、俺はもうそれ以上言葉を継ぐことができなかった。

 前の一件で嫌われたか? でもその割に、デートの誘い以外では普通に接してくれるんだよな……


 わからん。女心がわからん……

 こういう時は諸星を頼りたいが、アイツも演奏会に向けた練習で忙しそうなんだよな。


 淡路島での件も問いただしたいし、「彼女」に連絡を取ってみるか。






 六甲駅から少し降りた大衆居酒屋。その入口で待っていると目当ての人物が現れた。

 彼女は着くなり不安げな上目遣いで俺を顔色を窺ってくる。


「あー、お疲れっす武永さん。怒ってます?」


「まだ怒ってねえよ。話を聞いてからだな」


「でも話したところで怒られそうなんすよね。帰っていいっすか?」


「……わかった。今日はおごりだ。それなら逃げないよな」


「さっすが武永さん。わかってるっすね!」


 さすがと言いたいのはこちらの方だ。怒られそうな場面でもおごりを要求してくる神経の太さに、皮肉ではなく感心してしまった。


 モアちゃんはスキップでもしそうな足取りで店の戸を開く。

 店を切り盛りするおかあさんに挨拶とかしてるし、すっかり上機嫌の様子だ。




「で、なんで椿を引き留められなかったんだ?」


「それがまったく偶然で。アタシはつばっちを六甲から遠ざけようと思って、淡路島行きを提案したんす。そしたら武永さんたちがいて」


「あー……俺らの行き先伝えてなかったもんな」


「でしょう? アタシは悪くないっす。それはそうとエイヒレ頼んでいいっすか?」


「……好きにしろ」


 ここまで罪悪感ゼロだと、やっぱりモアちゃんは裏切ったわけではなさそうだ。

 しかし偶然にしては出来すぎているような……


 ってことは、いつもの椿の第六感的なやつだろうか。

 しかしそうなると奴の侵攻を止める方法が無いような……


 椿への対策はまた考えるとして、そろそろ本題に入ろうか。


「最近、浅井先生とうまくいってないんだが……」


「は? ノロケっすか?」


「いや違う違う! 本当に悩んでるんだって!」


「曖昧な関係を続けてるからついに愛想尽かされたんじゃないっすか? アハハハ!」


「うっ……それはあるかもしれんが……でも嫌われてるような風でもなくて」


「そっすね。意地悪言ってみたものの、理由もなく浅井さんが武永さんを嫌うとは思えないっす」


 モアちゃんは左右にゆらゆら揺れながら頷く。確信めいた彼女の言葉のお陰で少しだけ安心できた。

 やっぱり嫌われてるわけじゃないよな。本当に仲が険悪になったとしたら、バイト先でも他の講師に何か訊かれるだろうし。


 やはり第三者の意見というのは貴重なものだ。

 ジョッキを持つ手が震えている、こんな酔っぱらいの言を信用していいのかはともかく。


「じゃあなんでデートの誘いに乗ってきてくれないんだろ」


「んー……アタシの勝手な推測っすけど、告られ待ちなんじゃないっすか」


「えっ!?」


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