D5―4 涸沢之蛇 その4
結局、椿は加々美家の関連企業である興信所に就職することとなった。
そのせいで椿がちょくちょく加々美邸を訪れるようになり、会うたびちょっかいをかけられる始末だ。
まあ、直接的に攻撃してこないだけマシなのかもしれないが……
椿と離婚するためにこっそり家庭裁判所に行こうとしたこともあるのだが、何故かそのたび奴が裁判所の入口で待ち構えていたり、電話で邪魔してきたりと毎回阻止されてきた。
いちいち口論するのが面倒で最近では裁判所にすら近寄っていない。
椿と離婚しなくても実害は無いし、放っておく方が楽なのは間違いないのだ。
強いて言うなら戸籍や住民票を見るたび憂鬱になることだけがネックか……
「幽霊さん、来月から興信所に来るんだってね」
「ああ……千佳としては複雑だよな」
「別にもういいよ。あの人が何してこようとお兄はウチのだから。でしょ?」
「ま、まあな……」
屈託の無い笑顔を見せる千佳の姿は、妙に頼もしく見えた。
てっきりヤンデレが発動して椿を始末しにかかるかと危惧していたが、驚くほど彼女は落ち着いている。
色んな面で吹っ切れたのか、最近では俺に対する押しも強くてちょっと戸惑うくらいだ。
寝床や風呂に侵入してくるのは心臓に悪いのでやめてほしいのだが、「でもお兄の身体は嫌がってないよ?」などと言われていつもなし崩し的に……
精神的に成長するのは結構だが、変な方向での成長も見られるので元先生としては複雑な気分だったり。
「とはいえ、お兄を守れる子はつけといた方がいいかもね」
千佳がヒュウ、と口笛を吹くと小さな茶褐色の蛇が軒下からスルスルと這い出てきた。
蛇はそのまま俺の膝に乗っかってきたが、有毒っぽくも見えないし案外怖くはない。
「この子は『ジムグリ』のマロン。種族名の通り地面に潜ったり、隠密行動の得意な子。ウチの直属じゃないけど、優秀だよ」
「護衛をつけてくれるのは有り難いけど、あんまり強そうじゃないような……椿にやられたりしないか?」
「この子は敵意を察知する能力に長けてるから、危なそうなら他の強い蛇を呼んでくれるよ。幽霊さんがお兄に危害を加えそうになったら助けてくれる」
なるほど、斥候の役目を果たしてくれる蛇というわけか。
最初は小さな身体で大丈夫かと心配だったが、むしろ小さいからこそ色んな場所に隠れられるとも言える。
見た目以上に護衛としては有能なのかもしれない。
「毒持ちを護衛にしてもいいけど……お兄が怖いでしょ?」
「悪いな、気を遣ってもらって」
「ううん。お兄のためなら」
千佳はクスクス笑いながら、マロンの乗っていない方の膝に頭を乗せてきた。
甘えたがりな振る舞いを見ていると、千佳の子どもの頃を思い出す。
昔から千佳は俺に懐いてくれてたしなあ。油断している時によく頬をつつかれたのは良い思い出だ。
千佳も家とのわだかまりが融けて少し昔の気質に戻ってように見える。
この笑顔が絶えないよう、俺も努力してきたいものだ。
「お兄の太もも、あったかいね」
千佳の冷たい手が俺の脚を滑らかに撫ぜる。突然の刺激に思わず変な声が出そうになった。
昔と違っていまはお互い大人なので、身体的な接触の意味が違ってくるのだ。
潤んだ瞳が下から俺を見上げてくる。生唾が自らの喉を通っていくのを感じた。
「ね、お兄。いいでしょ」
こうなるともう千佳には敵わない。俺は彼女に身を任せることにした……
そして4月がやってきた。今年度から椿も興信所で働くことになっている。
太一さんの情報によれば、椿は駅前に家を借りているため加々美家に住み込みではないらしい。
それだけでずいぶんと安心できる。あんな奴と四六時中いっしょにいるなんて、ほとんど拷問だからな……
しかも意外なことに、一週間、二週間と過ぎても椿の髪の毛一本すら姿が見えない。
もちろんあの椿が無策ということはないだろうが、奴が仕掛けてくるのはもう少し先なのかもな。
千佳が加々美家に戻ってくる2年後とか……?
ずいぶん気の長い計画ではあるが、あり得ない話ではない。
一応椿の動きは警戒しておくべきなんだろうけど……
それから数ヶ月、やはり椿に目立った気配は無い。
偶然会った時はやたら身体をベタベタくっつけてくるが、そのあたりは大学の頃から変わらないし、不気味なくらい平常運転だ。
気づけば季節は7月になっていた。今年は例年以上の猛暑ではあるが、加々美は木立に囲まれた陽当たり弱い立地なので案外涼しいものだ。
夜であればエアコンなんてつけずとも窓を開け放していれば十分に眠れる。
その快適さがアダになるなんて、この時の俺は考えてすらいなかった。
「こんばんは先輩。今夜は風が気持ちいいですねえ」
「うわっ、お前どこから入った!?」
間借りさせてもらっている俺の部屋は2階にある。
簡単には登ってこれないはずだが、コイツいったいどうやって……
いや、そんなことより。俺の護衛のマロンはどうした? 危険を察知してくれるんじゃないのか?
ついさっきまであの蛇の姿は見ていたし、どこか近くに潜んでいるはずなのだ。
なのにマロンが動く気配が一切見えない。外から木の葉のこすれる音だけが聞こえてくる、恐ろしく静かな夜だ。
「誰か! 助けてくれ! 侵入者が……!」
「残念ですが、助けはきませんよ。皆さんのお茶に少しばかり心を入れさせていただいたので、グッスリお眠りかと」
ニタニタと醜悪な笑みを浮かべた椿が迫ってくる。
「おかしいだろ、お前が危害を加えようとすれば蛇が助けてくれるはずで……」
「危害だなんて! 私は先輩と愛しあうために部屋を訪れただけですから。何も怖がることはないんですよ。ほら、見ての通り丸腰でしょう?」
そう言って椿は大きく両手を開いた。確かにヤツの手には糸くず一つ握られていない。
椿の着ている薄手の浴衣には仕込み武器を隠す隙も無さそうだ。
となれば素手で2階まで登ってきたということになるので、やっぱり不気味ではあるのだが……
危険察知担当のマロンが反応しない理由もわかった。
椿は俺をケガさせたり痛めつけるつもりはさらさらないのだ。
コイツは、ただ俺と肌を重ねるためだけにこの部屋を訪れている。
動物からすればその行為は危害にはカウントされないわけで、蛇は俺を守る必要すら感じていない。
この抜け道を編み出すために椿は何ヵ月も様子を窺っていたわけか。相変わらず厄介な奴だ。
もちろん俺から椿に攻撃することはできるが、いくら痛めつけてもコイツはきっと懲りないだろう。
むしろケガをさせた負い目を利用して、俺に無茶な要求をしてくるかも……
「さあ先輩、夜はこれからですよ。ゆっくり楽しみましょうね」
「バカが……! お互い素手なら条件は互角だろ! ボコボコにぶん殴ってでも抵抗してやるからな!」
「それもいいですねえ。先輩の手で私をめちゃくちゃにしてください」
椿が伸ばしてきた手を強くはたいてやると、ヤツは痛むはずの手を愛おしそうに眺めた。
まずい……一応俺も男だから、腕力だけなら椿に対抗できるが、持久戦に持ち込まれたら厳しい。
コイツの化物じみたタフさを考えると、一晩中はやりあわねばならないかも。
いや……一晩ならまだどうにかなるか。
もしこれを毎晩続けられたら?
その時こそ俺の完敗だろう。根比べでこの悪霊に勝てるわけがない。
「さあ先輩、愛し愛される覚悟はできましたか……?」
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