D5―5 涸沢之蛇 その5

 外に助けを求めることはできない。ひとまず椿を突き飛ばして逃げるべきか?


 だが、ここで逃げたところで明日も明後日もしつこく侵入されたら意味が無い。

 もっと厳重な鍵つきの部屋に替えてもらうか。いや、でも鍵ぐらい簡単に突破されるだろうし……

 いっそ椿を再起不能なまでに痛めつけるか。うーん、被害者面されて逆に利用されかねないし……


「照れてるんですか、先輩。来ないならこちらからいきますよ……!」


 椿が両手を広げて近づいてくる。俺は反射的に両腕で身体をガードしたが……!


 飛びかかって、こない……?


 一気に椿の全体重がのしかかってくるかと思ったが、その気配は無さそうだ。

 奇妙な沈黙の中おそるおそる目を開けると、椿は手を広げたまま硬直していた。


「先輩、何ですかそれ」


「何って……」


「後ろにいるのは何ですか、と訊いてるんです」


 後ろ? 首だけ振り返って背後を確認するが、真っ暗で何も見えない。

 なんだよ、本物の幽霊でもいるってのか……?


 視線を前に戻すと、椿は未だ俺の後ろの空間とにらみ合いを続けている。

 置いてきぼりを食らった気分だが、ぼーっとしてる場合じゃない。

 状況を把握して、最善策を打たねば……


 俺が再度後ろを向いた瞬間、黒く長い影が椿に向かって飛びかかった。


「いたっ……!痛たたたたた!」


 薄暗闇の中、椿が腕を振り回し暴れる姿が見える。なんかあの動き、前にも見た覚えがあるような……


「先輩、見てないで助けてください! もう何もしませんから、この子本当に痛くて!」


「知らねえよ! さっきから一人で暴れてんじゃねえか!」


「一人じゃなくて! 一人と一匹です!」


 椿の言葉でようやく事態を察した。姿はハッキリ見えないが、どうも奴の腕に黒い蛇が食いついているらしい。


 しかし誰の蛇だ? 椿が屋敷の人たちに薬を盛ったのであれば、俺を助けてくれる人なんて誰も……


 椿が抵抗するのをやめて膝から倒れると、黒い蛇は腕から離れ、俺の足元に寄ってきた。そのままとぐろを巻いて、いつでも飛びかかれる臨戦態勢を崩さない。


「ハァ、ハァ……やりますね先輩。私を欺く隠し玉とは……」


 どうも椿は俺が黒蛇をけしかけたと思い込んでいるらしい。俺はそんな器用な芸当できないのだが。

 警戒している椿から完全に姿を隠すこの隠密性……おそらくこの黒い蛇は千佳直属の従者「ショコラ」だろう。


 ということは、この蛇を仕掛けたのは……





「満足した? 幽霊さん」


 俺のスマホから千佳な電話をかけると、スピーカー越しに怜悧な声が聞こえてきた。

 深夜なのに起きていたということは、千佳はショコラを通して事の一部始終をずっと見ていたのだろう。


 これまでも千佳は距離を厭わずレアを使役していたのだ。ショコラも同じように操れても不思議ではない。

 それでもいくつか疑問は残るのだが……


「蛇娘……! どうやってその黒い害獣を使ったんですか。今日の先輩には蛇の見張りはついてないはずで、その隙を狙ったのに……」


「よく知ってるね。確かにお兄の警護は今日だけいない。太一くんも出張でいないし、いつもより守りは薄かったかも」


「それならどうして邪魔できたんですか……! 私は、何度も先輩の周囲を確認したのに!」


「うん。お兄の周りには誰もいなかったよ。だから」


 わずかな溜めを挟み、千佳はタネ明かしを行った。


「幽霊さんにずっとショコラをつけてたの」






 椿はもう闘う気力を失ったのだろう。座り込んで「ありえない」、「いけるはずだったのに」などとブツブツ文句を垂れている。

 ぺたんこ座りのまま首をだらんと横に傾けている姿は、ほとんど廃人のようだ。


「ありがとう千佳、助かったよ。コイツを出し抜くなんてやるな」


「そうでもないよ。ここが加々美邸じゃなきゃもうちょっと不利だったかも。ショコラはレアほど柔軟に動けないし」


「しかしいつからショコラを椿の監視につけてたんだ?」


「幽霊さんが和歌山に来た4月からずっと」


「ずっと、って……」


「文字通り、四六時中。幽霊さんが寝てる間もずっと」


「えっ!? でも、嫌いな人間を24時間監視するだなんて……」


「無理って思うでしょ。だからこそやるの。ウチはお兄のためなら泥だって飲み干せるよ」


 ……千佳のヤンデレはやっぱり治ってなかったのかもしれない。

 まあ、そのお陰で俺も九死に一生を得たわけで、文句を言える立場にないのだが。


「あえて椿にショコラをつけるとはな。てっきり俺に護衛をつけてくれただけと思ってたぞ」


「裏をかいた方が幽霊さんには堪えるでしょ。しかも得意の尾行ですら負けてるわけだし」


「まったくだ」


「ちなみに幽霊さんが屋敷の皆に薬を盛ったって話はたぶん嘘。そんな古典的な罠にかかるほど皆ばかじゃないし」


「えっ、じゃあもうちょっと騒いだら誰か助けに来てくれたかもってことか?」


「うん。お兄は人が良いから、言葉通り受け取っちゃうんだろうね」


 自分ではお人好しを通り越して間抜けなだけに思えたが。

 まあ非常時に冷静な判断を下せるとは限らないのだ……という言い訳を千佳に聞かせるでもなく心のなかで呟く。


 さて椿の奴をどうしてくれようか。とりあえずさっさと出ていってほしいのだが。

 俯いたままひとりごちる亡霊と化した椿に俺たちの会話が聞こえているかはわからないが、とにかくダメージがあったことだけはわかる。


 千佳との通話を繋げたまま椿の様子を眺めていると、ヤツは突如スイッチが入ったかのように飛び起きた。


「ふん……チャンスはこれからだっていくらでもあるんです。さっきの一撃で私を殺しきらなかったこと、後悔してもらうわよ」


「はあ……アナタは本当に恩知らずなんだね」


「恩? 貴女に何か恩を受けた覚えはありませんが?」


「ウチじゃなくて。他にいるでしょ」


 他だって? この場にいる他の人間って……キョロキョロ周りを見渡すとショコラが不思議そうに首をかしげた。


 そうだよな。俺しかいないか。


「私が先輩から恩を受けている、という意味ですか? そりゃあ私は先輩の全存在、足の指の一本にいたるまで感謝をしていますが」


「発想がいちいち気持ち悪いんだよお前は」


 椿のニチャついた笑みを睨んでいると、電話越しにまた千佳のため息が聞こえた。どうも心底椿に呆れているらしい。


「まだわからないの? アナタが未だに五体満足でいられるのはお兄のお陰なんだよ」


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