D4―3 蛇に見込まれたカエル その3
太一さんは少しのあいだ天を仰ぐと、そのまま部屋から出ていってしまった。
もしかすると、姉さんに渡す薬を取りに行ってくれたのかもしれない。
姉さんは一時的に落ち着いていたようだが、俺が視線を向けるとまたウーウーと唸りだした。
毒が回れば、噛まれた場所だけでなく全身が痛むと聞いたことがある。
一刻も早く解毒薬を持ってきてほしいものだが。
長い長い数分間を焦れながら待っていると、再び太一さんが客間に入ってきた。
その手にはドス黒い液体の入った小瓶。あれが薬なのだろうか。
「えらい待たせたな」
「早く姉さんにその瓶を……!」
「ちゃう。これは君が飲むんや」
「は?」
太一さんはしゃがんで俺の鼻先に小瓶を押しつけた。
何故だ。俺が薬なんて飲む必要は無いと思うのだが……
「加々美家で働くんやろ? そしたら毒への耐性もつけてもらわなあかん」
「それより姉さんを……」
「ハッキリ言わなわからんか。僕はまだ君を信用してないねん。これはテストの続きや」
太一さんの唇が皮肉そうにめくれあがる。やはりこの人は相当疑り深い。
何にしても、とにかくこの濁った液体を飲まねば認めてもらえないようだ。
急いで小瓶の蓋を開けると、百日間腐らせ続けたカビのような刺激臭が鼻をついた。
あまりの臭いに、一口も飲まないうちからむせこんでしまう。
「うえっ! ゲホッ、ゴホ……」
「きっついやろ。でも臭いだけちゃうで。それを飲んだら喉は焼け、胃はただれ、身体中の筋肉という筋肉が悲鳴を上げる。僕も毒飲んだ方がマシやと思ったくらいやからな」
カカカ、と太一さんが渇いた笑いを上げる。何一つ愉快じゃないし、俺は少しも笑えないのだが。
「うまいこと期待させて、俺に毒を飲ませる気ですか」
「疑うのはええ心がけやな。それとも怖じ気づいただけか? どっちでも同じやけどな」
「だってこれ、飲み物の臭いじゃないでしょう……」
「まあ無理に飲まんでもええ。そしたら千佳が悲しむだけや」
太一さんの嫌みったらしい台詞を聞いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。
小瓶に口をつけ、そのまま一気に黒ずんだ液体を飲み干す。
舌に触れないよう飲み込んだつもりだが、苦味という名の悪魔が否応なく口の中で暴れ回っている。
鼻まで上がってきた異様な臭みに思わず戻しそうになったが、強引に口を塞いで吐き気を押さえつけた。
飲んだ瞬間から身体が熱い。血が全身を駆け巡り、目眩でも起きそうだ。
目の前で火花が散っているように感じる。しかも、やけに身体が軽いような……
軽い? なんでだ? この薬の効果、太一さんの説明と少し違うような……
何と言えばいいのか。まるで腹の中心、
「おーい、もうええで
仁美ちゃん? なんで太一さんがその名を呼ぶんだ?
だって「仁美」って名前は俺の……
「良かったねえ宗ちゃん……」
「姉さん! 毒は!? 身体は大丈夫なのか!?」
「全然大丈夫よ。嘘ついちゃってゴメンねえ」
起き上がった姉さんは気まずそうに目を逸らしつつも、俺の頭をふわりと撫でた。
「えーっと……つまり、太一さんは姉さんの元同級生で、昔からの知り合いだったと」
「本当にごめんね……宗ちゃんには悪いと思ったんだけど」
「せやせや。仁美ちゃんは悪ぅない。全部僕が仕組んだことやからな」
薬を飲んだせいか依然身体は熱いままなのだが、そんな些細なことより驚きで頭が追いつかない。
どういう状況だこれ。だって姉さんは蛇に噛まれて……
あれ? よくよく思い出すと、姉さんが噛まれる瞬間は見てないな。唸ってる姿を見ただけで……
「さっきのアレ、演技だったのか?」
「うん。ほら、お姉ちゃん看護師でしょ。ぎっくり腰の患者さんとかよく見てるし……」
なるほど迫真の演技というわけか。すっかり騙された。
姉さんを咎めたい気持ちもあるが、他にも訊きたいことは山ほどあるのだ。後にしよう。
「じゃあ俺が飲んだ薬は?」
「ハブ酒にマムシ酒、
「……お陰さまで」
机越しに太一さんと向き合っている状況は変わらないのだが、姉さんがあちら側で小さくなって座っているのだけは先ほどと違う。
なんかさっきより朗らかな雰囲気にもなってきてるし。
それより。頭が混乱して一番大事なことを訊けていなかった。
「千佳は!? 千佳はどうなるんですか!?」
「本人から説明さすから待っときや」
「は、はあ……」
太一さんはのんびり立ち上がると、ヒバカリを肩に乗せて部屋を出ていった。目の前には申し訳なさそうな顔をした姉さんだけ。
彼女を詰問したい気持ちもあったが、それ以上になぜ騙すようなことをしたのか、その理由が知りたかった。
「姉さん……」
「ごめんね……こうでもしないと加々美くんが認めてくれないって」
「俺が千佳にふさわしいか確認したかったのか? じゃあ千佳に別の婚約者がいるって話も嘘だったんだな」
「それは本当らしいわよ」
「ええ!?」
「ちなみに蛇の『ヒバカリ』が猛毒を持ってるっていうのは嘘。本当は無毒らしいわ」
「そ、そうか……」
もう何が本当で何が嘘やらわからなくなってきた。
ただ確からしいのは、太一さんが俺をある程度認めてくれて、これから千佳に引き合わせてくれるということだけ。
そういえば椿はどうなったんだろう。隠密行動は失敗したようだが、その後どうなったかまでは聞けなかったな……
緊張感の解けた俺が床でだらけながら考えていると、突然ふすまが開き、千佳が駆け寄ってきた。
「お兄……! ごめんね、ごめんね……!」
「千佳……」
昨日千佳と会った時も彼女は何度も謝っていたが、あれは「騙してごめんね」という意味だったのか。
何かやむを得ない事情があって太一さんの言うままに動いていたんだろう。俺はそれを責めるつもりはない。
千佳の細い身体を抱き締めていると、ひんやりとした彼女の肌の温度が伝わってくる。
なんだか妙に落ち着く匂いだ。しばらく彼女と暮らしていたからだろうか、懐かしさすら感じる。
色々あったが、やっと千佳を取り戻せたのは事実だ。
それだけですべての苦労が報われた気分になってくる。
「おアツいこっちゃなあ。こっちまで恥ずかしなるわ」
「いいわねえ、若いって……」
太一さんと姉さんがクスクス笑う声で思わずハッとなり、どちらからともなく身体が離れた。
改めて千佳の顔を見ると、白い肌にほんのり赤みがさして美しい。泣いている彼女に対してそんなことを思うのは不謹慎な気もするが……
とりあえず今の気恥ずかしさを払拭したい。何か別の話題を振ってみるか。
「えーっと、椿はどこに行ったんだ?」
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