A6 夜道に日は暮れぬ

 大学を卒業して数年が経った。ここ最近は、大学にいたころ色々あったのが嘘みたいに平和な日々が続いている。


「浅井せんせー、TPPって何なの?」


「ああ、それは環太平洋パートナーシップ協定の略称で……」


「だから、それがわかんないんだってばー」


「悪い悪い。要するにだな、太平洋に面してる国が協力して……」


 「浅井先生」と呼ばれることにもずいぶん慣れてきた。

 名字を変える手続きをした時にはなかなか苦労したが、今となってはそれも良い思い出だ。


 「武永」姓に名残が無いわけじゃないが、しかし良子の職業柄、彼女の姓に合わせた方が色々と都合がよかったのだ。

 まさか自分が「浅井先生」と呼ばれる日が来るとはまったく想像もしていなかったが。


 ちなみに良子も司法書士になれたので「浅井先生」と呼ばれているらしい。

 教師に限らず、医師や弁護士、政治家に地主と、「先生」と呼ばれる職業はことのほか多いものだ。






「良子はもう着いてるのか?」


「それがまだなの。宗介くんはお仕事終わりそう?」


「ちょうど終わったところだよ。じゃあ先に行ってるな」


「お願いね」


 タイムカードを打ち、モアちゃんの経営する店へ電車で向かう。

 下町にある小さなバーだが、なかなか居心地が良いので時々利用させてもらっているのだ。

 聞くところによると、店の評判も上々らしい。経営者の手腕だろうか、あるいは。


「遅いっすよ武永さん! 何してたんすか!」


「仕事だよ! それよりお前も仕事中みたいなもんだろ。そんなベロベロでどうする」


「今日は貸し切りだからいいんすよ! ボトルどんどん空けていくっすよ!」


「こんなこと言ってますけど、無視してくださいね先輩」


「わかってるよ」


 椿は手際よくオードブルを並べていく。この場面だけ見るとどちらが店主だかわからない。

 餃子にポテトサラダ、鴨ローストにウィンナーと居酒屋らしい無国籍料理が嬉しい。

 頼んでもいないのにビールまで運ばれてきた。良子が来るまで待つつもりだったが、そんな常識は通用しないか。


 そもそもモアちゃんが飲んでる時点で、足並みの揃った乾杯にはならないのだ。

 もしかして、遅く来る俺たちに気を遣わせないためにわざと先に飲んでたとか……?

 いや、そこまでは考えてないか。モアちゃんだしな。




 一杯目のビールが空いた頃、店のドアを開く音がした。

 軽く息を切らした良子が、遠慮がちに微笑む。わざわざ急いで来てくれたのだろう、さすが律儀なことだ。


「遅いっすよ浅井さん! 何してたんすか!」


「モアちゃんそれ二回目」


「今日はずいぶん景気がいいのね」


 カウンターに並んだ料理を見て良子もご満悦のようだ。

 身内だけのお祝いとはいえ、ちょっとしたパーティーの様相で俺も実はワクワクしている。




 そう、今日は良子との結婚記念日なのだ。




「結婚記念日に私を呼ぶとか、当てつけですか?」


「そうだとしたら怒る?」


「そりゃあ怒りますよ。というかすでに怒ってます」


「ごめんなさいね、冗談よ。本当は椿ちゃんと飲む口実が欲しかっただけ。ダメかしら?」


「ダメとは言ってませんけど……」


 あれ以来椿はずっとこんな調子で、良子に突っかかってはすぐに手を引っ込めるようなことを繰り返している。


 マッチポンプに近いやり方ではあったが、結果だけ見れば良子のお陰で椿は記憶を失わずに済んだのだ。

 それを思い起こせば椿もあまり邪険には振る舞えないのだろう。


「悪いわねモアちゃん、こんなに豪勢に振る舞ってもらって」


「いえいえ! 浅井さんには色々お世話になったし当然っすよ! 親父の遺産分割から、会社の法人登記まで色々スムーズに進めてもらって、マジで助かったんで!」


 モアちゃんは快活に笑いながらワインボトルを開けた。

 「それは開けちゃダメなやつ!」と叫ぶ椿の声も聞かず、彼女はボトルを逆さにして浴びるようにワインを飲み続ける。


 彼女の母親は早くに離婚しておりシングルマザーの元で育っていたらしいが、モアちゃんの父にあたる人が少し前に亡くなり、結構な額の遺産を受け継いだらしい。

 その遺産を資金源としてバーを開業し、今にいたるというわけだ。


 「ほぼ会ったことない親父っすけど、ほーてー相続分?とかあるんすね! 知らなかったら向こうの家族に掠め取られてたっす!」とモアちゃんはゲラゲラ笑っていたが、彼女の父親の再婚相手と揉めそうになったり色々大変だったらしい。


 浅井さんがいなきゃ店も開けなかったんすよ、なんて茶化しながら良子を拝むモアちゃんも、実は結構本気で感謝しているのかもしれない。


「それで、先輩はいつ私を愛人にしてくれるんですか?」


「しねえって言ってんだろ」


「ひどい! 私とは遊びだったんですか!」


「遊んだ記憶が無いんだが……」


「じゃあ今夜作りましょう。既成事実ってやつを」


 酔いの回りはじめた椿が絡んでくる。こういうところは未だに変わってない。

 まだ本気で俺に執着しているのかは知らないが、ストーカーじみた行為はほとんどなくなった……はず。

 とはいえ良子の前でベタベタ触ってくるのは不快なので、無理やり引き剥がして距離を取る。


「浅井さーん、またフラれたんですけどー」


「よしよし」


 恋敵に慰められて、コイツにはプライドとか無いのだろうか。

 椿のヤツ、最近は良子の人の好さに甘えて俺を悪者にしようとする節があるので、まったく油断ならない。

 良子も良子だ。夫の元ストーカーを妹のように可愛がるだなんて、人がいいを通り越して変わり者ですらある。

 椿は甘やかせば無限に調子に乗るタイプなのだし、少しは加減してほしいものだ。


 まあ、これはこれで結構楽しかったりもするのだが。


 「愛人」はやっぱり無理だけど、お前はいい「友人」だよ、なんて言ったらまた椿は怒るだろうか。

 まあ怒られてもいいか。友人なら、きっと仲直りも難しくはないだろうから。


【Aルート・完】




【作者あとがき】


 今回でAルート(浅井先生ルート)は完結です。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 次回からはBルート、別のヒロインと結ばれるかもしれないお話が始まりますので、そちらもご期待ください。


 今までの話を楽しんでくださった方、これからの話を楽しみにしてくださる方は、評価をいただけると励みになります!

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