A5―4 恋に上下の隔てなし その4

「モアちゃん、そっちは大丈夫か?」


「はいっす! つばっち、弱りまくってるっす!」


「うぅ……」


 俺と良子の立つ岩の裏側から、モアちゃんの快活な返事と椿の小さな呻き声が聞こえる。


 多産の象徴である兎、その骨でできたアクセサリーを首にかけ、俺は深呼吸で息を整えた。

 岩越しだというのに、不思議と椿の気配をハッキリ感じる。

 椿の息づかい、心拍数ですら伝わってくるようだ。

 おそらく椿も俺の存在を感じているのだろう、ヤツの意識だけが肌に伝わってくる。


 これが「縁」の強さか。まったく、お互い難儀な運命を抱えているものだ。


 そして俺の隣には祭文を唱える良子。俺は椿のいる方向を見続けねばならないため、良子の姿は見えないが、どうやら頑張ってくれているらしい。

 この場の異様な空気感でわかる。もうすぐおばあさんがこの場に「降りて」くるのだろう。そこから本格的な儀式が始まるのだ。


 空はひどい曇天で、今にも雨が降りそうな気配だ。

 雨が降る前の、独特な湿っぽい臭いが鼻に忍び込んでくる。

 その臭いは海風と混じって、どことなく不快な感じを受けた。




 おばあさんから儀式の説明をしてもらった際には色々注意を受けたが、その中でもずっと気にかかっていることが一つある。

 儀式の手順やリスクについて一通り説明を受けた後、しつこく「本当に儀式を行ってもよいか」と念押しされた。


 俺が苦しむのは当事者だから当たり前だし、椿がつらい思いをするのも仕方ない。

 しかしあの時、おばあさんは「良子も犠牲を払うことになる」とも言っていたのだ。


 記憶を失う椿や、椿の人生をねじ曲げた責任を負う俺がその代償を払うのはわかるが、良子がいったい何を犠牲にせねばならないというのか。

 彼女は俺と椿の厄介な縁に巻き込まれただけの人間だというのに。


 結局その答えは見つからず今日に至るわけだが、おばあさんも詳しいことは教えてくれなかった。

 教えられない事情があるのか、あるいは自分で考えろということか。

 その真意はわからないが、きっと深い考えがあるのだろう。


 いま俺がすべきなのは、儀式が成功するまで気をしっかり保つこと。それだけのはずだ。余計なことを考えるな。




 儀式を成就させるためには、俺が岩の裏側にいる椿の方角をじっと見つめておく必要がある。

 祭文を読む声がいつの間にか低いしわがれ声になっているが、気になっても良子のいる方を向いてはならない。


 しかし声色が変わったのであれば、もうおばあさんは降りてきているのか。ということは、「そろそろ」だ。


「ぐっ、ぐう……ぐぁがああああああ!!!」


 岩の裏から鼓膜を割らんばかりの怒声が響いてくる。もはや獣の雄叫びのようだが、椿の声で間違いなかろう。

 「縁」を剥がされまいとおばあさんの力に抗っている様子だ。

 椿の息が、心拍が、神経が、魂が、乱れていく様がこちらにまで伝わってくる。

 つらいだろうな。苦しいだろうな。わかるよ。人との別離ほど胸が痛むものは無い。


「武永さん! これマジで大丈夫なんすか!?」


「大丈夫だから押さえ続けといてくれ! すまん!」


 モアちゃんが不安になるのはもっともだ。おらそく岩の向こうで椿は叫びながら暴れようとしているのだろう。それもものすごい力で。

 椿の細い身体では背の高いモアちゃんの力には通常敵わないはずだが、馬鹿力を発揮している可能性はあるな……


 まあ、ここまでは想定内。何の抵抗もなく「事戸渡し」を終えられるとは思っていない。

 あとは儀式の完了までどのくらいかかるかだが……


「ぐっ!?」


 突如、俺の胸に強くつねられたような痛みが走った。

 まるで強い力で引っ張られているかのように皮膚から心臓まで痛む。しかもその痛みは徐々に強くなってきやがる。


「ぐっ……くそ……」


 椿だけでなく俺までダメージを負うのか……これはおばあさんに聞いていなかった。教えてくれないとは、ずいぶん不親切なことだ。


 いや……違うな。俺の覚悟が甘かっただけか。「あなたも犠牲を払うことになる」とおばあさんは示唆していたじゃないか。

 何を無傷で逃げおおせるつもりでいたのか、俺は。


 ひどい高温によって火傷を負うと、服が溶けて皮膚に張り付くことがあるという。

 張り付いた服を無理やり剥がそうとすれば、当然皮膚も一緒くたに剥がれてしまい、その痛みは想像を絶するものだとか。


 「縁を剥がす」儀式は、皮膚を剥がすのにも似た作業なのだろう。

 自分の大切な身体の一部が剥がれていく感覚。痛くないわけがない。


 でもきっと、俺はまだマシな方なのだ。


 この程度の痛み、お前に比べれば大したものじゃないんだろ? なあ、椿よ。




 ポツリポツリ、雨が降りだしてきた。

 春にしてはずいぶん冷える夜だ。厚着をしてきたのに腹の底まで寒さを感じる。


「がああぁぁあぁあああぁぁ!!」


 変わらず椿の咆哮が聞こえてくる。俺も痛みで息が苦しくなってきたが、まだ儀式は終わっていないはず。

 おばあさんの祭文が、雨風の音に混じって聞こえてくる。


「武永さん!」


「なんだモアちゃん!」


「つばっち、白目……白目剥いてますよ! 口から泡まで噴いてきて!」


「すまん……! すまん!」


 誰に対して、何に対して謝っているのか最早わからなかった。

 それでも謝らなければいけない気がした。

 ごめん、すまない、申し訳ない、悪かった、そんな言葉たちが頭の中で次々湧いては消えていく。


 皮膚を裂くような痛みは増すばかりで、いっこうに収まる気配は無い。

 これ以上続けば、さすがに俺も耐えきれないだろう。

 立ち続けねばならない。儀式を完遂させないと。頭ではわかっているのだ。

 いや、しかし、もう……


 俺が痛みのあまりうずくまりかけた瞬間、おばあさんの祭文がピタリとやんだ。



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