5 ヤンデレと心中

「オイ、武永たけなが。椿ちゃん来てるぞ」


「放っとけ。そのうち飽きていなくなるだろ」


「冷てえなあ、お前も。今時あんな一途な子いないだろ」


「一途? ハハッ。前しか見えてねえイノシシみてえなもんだろ」


「お前の口の悪さも大概だと俺は思うがねえ」


「うるせえ。それより麺伸びてるぞ」


「うおっ、マジだわ」


 椿は食堂にいながらメシも食わずこちらをじっと見ている。その姿はかなり異様なものだったが、広い食堂では案外目立たないのか、誰も椿には注意を払っていない。俺たちを除いて、だが。


「じゃあ武永はさあ、椿ちゃんに『私と付き合うか、さもなきゃ死んで』って言われたらどうするんの?」


 伸びきったラーメンをようやく食べきった諸星もろぼしが、メガネを曇らせながらこちらを見上げる。


「決まってんだろ。死ぬよ」


「ヒャヒャヒャ! やっぱお前も大概だわ!」


「つーか縁起でもない例え話すんなよ。アイツならマジで言い出しかねない」


「そうかねえ。俺には椿ちゃんは不器用なだけの女の子に見えるけど」


「いやいやアイツは異様に器用だぞ。この前もペン型のGPSを自作してたりとか」


「そうじゃなくてさ……ま、いっか。そろそろ三限行くかあ」


「おうよ」


 俺たちが立ち上がるその瞬間も、椿はじっとりとした視線を注いできていた。食堂から文学部までは十分くらいかかるが、アイツ三限に間に合うのか?






 事件はその夜起こった。


「あっ、先輩。気づいちゃいました?」


「気づかないわけないだろ。な、なんでお前がベランダから入ってくるんだ」


「先輩の部屋の電気が消えたから、そろそろかなー、って」


 心臓がバクバクとうるさい。努めて平常を保っているが、頭がおかしくなりそうだった。なんでコイツが俺の部屋に侵入してきている? ここはマンションで、俺は四階に住んでて、外からの侵入なんてそうそうできるものじゃないはずなのに。

 たまたま今日は寝付けなかった。徒然と明日のバイトのことなんかを考えていると、静かに網戸を開く音が聞こえ、カーテンが揺れた。気のせいかと思った瞬間、不気味な影がゆっくりと蠢いた。何ならその正体が椿で良かったと思ったほどだ。


「どうやって入ってきたんだ」


「愛の力……ですかね」


「答えろ」


「うーん。どうって、普通に隣の部屋のベランダから入ってきただけなんですが……」


 普通ってなんだ? いや、そんなことより。


「お前……吉本くんをどうした」


「先輩、何を怒ってるんですか?」


「答えろって言ってんだろ!!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。俺にちょっかいをかけるだけならまあ許そう。しかし関係のない人間にまで危害を加えることだけはあってはならない。椿がそこまで堕ちたなら、俺は絶対にコイツを許すことができない。


「ああビックリした。怒ってる先輩もかわいいですね。吉本さんなら昨日からサークルの合宿でいませんよ」


「つまりお前は吉本くんに手出しはしてないと」


「当たり前じゃないですか。そんなつまらないことして捕まったら、先輩に会えなくなりますし」


「はあ……どうしようもねえなお前」


 ひとまず吉本くんの無事がわかって少し気持ちが落ち着いた。あんな善意の塊のような人間に何かあったら、俺は世界に顔向けできない。まあ、俺が責任を感じすぎるのも変な話だが……いや待てよ。


「えっ、じゃあ吉本くんいないのにお前はどうやって彼の部屋に入ったんだ?」


「それはまあ、色んな手段がありますので」


「結局吉本くんに迷惑かかってんじゃねえか!」


 すまん、吉本くん……俺のせいで変な女が君の部屋を通過したが許してほしい……


「それでお前は何の用だ?」


「ああ、そうそう。突然ですが先輩、私と付き合ってください。さもなきゃ死んでください」


 再び心臓が飛び上がった。いや待て待て。昼間に諸星の言ってたことが実現しちゃったよ。なんだこのタイミング。しかもこれ、返答誤ったら即死だよな?せめて遺書ぐらいは書かせてくれ。


「つ、椿……? 冗談だよな」


「冗談だと思いますか?」


 椿は静かにベッドの上まで這い登り、俺に馬乗りになった。暴れてでも逃げ出さなきゃいけないのに、身が竦んで動けない。そうか、自動車に轢かれる寸前の鹿ってこんな気分なんだろうな。


「先輩、そろそろ返答をもらえませんか?」


 椿の両手が俺の首にかかる。コイツ、本気なのか。暗くて表情は見えないが、少しずつ椿の細い指が首にめりこんでくる感触はわかる。


「いいんですか先輩? このままだと……」


 このままだと……どうなるというのか。命を差し出すか、魂を差し出すかの選択。齢21でこれほど究極の選択を迫られる人間はそういないだろう。歴史に名を残せそうだ。いや、今は、とにかく返事を。


「『恋人になる』って宣言するだけで楽になれるんですよ?こんな簡単な選択、迷うまでもありませんよね?」


 ハー、ハー、と椿の呼吸も荒くなる。こんな時でも気色の悪い奴だ。しかしこれ以上時間は稼げそうにない。早く言葉を絞り出さねば。


「こ、」


「こ?」


「こ……とっ」


「恋人に?」


「こと、わる」


 グッ、と椿の手の力が強くなり、そして、離れた。


「ハァ……先輩は本当に強情ですねえ。まあ、そういうところが好きなんですけど」


「ウ……ゲホッ……俺は、お前のことが嫌いだよ。度胸もねえ癖に、つまらん二択出しやがって」


「みんながみんな、先輩のように強いわけではないですから。なんだか今日は醒めちゃいました。それではまた大学で」


「お前なあ、これだけ人に迷惑かけといて謝罪もないのか」


 立ち去ろうとする椿の腕を掴むと、意外なほどにその腕は細く、さきほどまで俺の生命を弄んでいたようには思えなかった。

 椿が振り返る。暗くてその表情はハッキリとは読み取れなかったが、悔しそうな、あるいは泣き出しそうな顔をしているように見えた。

 俺が呆気に取られていると、椿はするりと俺の拘束を抜け、玄関へと急ぎ足で駆けていった。取り残された俺は、あの椿の表情をどう解釈すればいいのか、再び眠るまでずっと考えていた。

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