第12話 女神と添い寝


 リヒトが学院で教師を始めてから半月。今日も日誌などの雑務はピエールに任せて就寝しようと部屋に戻ると、着くや否や、腕輪がぎゃあぎゃあと光りだした。まるで眠らない街の摩天楼と見紛うばかりの五月蠅さに、舌打ちと共に女神を呼びだす。


「なんなんだ!? 用があるなら静かに訴えろ!」


 腕輪がぽやっと光ったかと思うと、宙に女神が姿を顕す。頬をむくーっと膨らませ、膝を抱えてくるくると回転したかと思うと、目にも止まらぬ速さでリヒトに抱き着いた!


「うわぁぁぁぁぁぁぁん! 理人のばかぁああ!」


「なにが!」


「がんばったらご褒美くれるって言ったのにぃ! あれから全然帰って来てくれないじゃない! 待ちくたびれて、もうベッドがべしゃべしゃよぉ!」


 なんだそれは。超絶帰りたくないんだが。

 しかし、すっかり忘れてた……


 いくら口約束とはいえ、相手が相手なだけに契約を踏み倒すことはできない。リヒトは胸元に涙と鼻水を押し付ける女神を、シャツの惨劇に顔を顰めながらどかす。


「すまない、仕事が忙しくてな。失念していた」


 ……というのは方便だ。忘れていたのは本当だが、仕事の方はそうでもない。ただ、おそらくは無意識のうちに、求められる報酬について聞くのが怖くて脳が思い出すことを拒否していたのだろう。そう。これは一種の防衛機制。


「……で。決まったのか? ご褒美は」


 なにせ相手はイカレど変態女神。何を要求されるかわかったもんじゃない――が、それも長い付き合いだ。どれだけ気分屋だろうが、約束だけはきちんと守る。女神がそうである以上、自分もそうあらねばフェアじゃない。いや、元々奴隷だからフェアではないんだが……


 尋ねると、女神はシースルーのワンピースを機嫌よく揺らしながら、リヒトの部屋を興味深げに物色する。


「ん~。せっかく数十年ぶりのお願いと、そのご褒美じゃない? 色々考えたんどぉ。『一晩抱いて♡』じゃあひねりが無くてつまらないじゃない? だからぁ……」


 にこ~! っと笑顔がゼロ距離に迫る。その機嫌の良さ、逆にこわい。昔、『リヒトの爪が綺麗で好きだから、一枚ちょうだい♡』と言われたのを思い出した。結局、決死の交渉の末見逃してもらったが、あの無邪気で本気なあいつの瞳は、今でもたまに夢に出る。

 なんだ、何をねだるつもりだ――

 構えると、むぎゅう、と柔らかい圧が右腕を挟んだ。


「一晩、添い寝して! させて!」


「え……」


 想定外だ。拍子抜け。


「それ、だけ……?」


 思わず零すと、女神はいたずらっぽく唇に人差し指を当てる。


「抱くも抱かぬも理人の自由。私はただ、理人の隣で一晩たっぷり温もりを感じられればそれでいいの。ご褒美ってなんだか久しぶりすぎて。色々考えた結果、結局、ふたりしてベッドでごろごろしてるあの時間が一番好きだなぁ~って気がついたのよね」


 それはそれは……


「なんというか……大人になったな……」


「何ソレ失礼~! あ。でも、一個付け足していいなら、優しく抱きしめて♡ お願い♡」


 ぱちこん♡ とわざとらしくウインクをキメられ、リヒトは絶句した。


「やさ、しく……?」


 って。どんな感じだっけ?


 ここ数十年の女神に対する扱いが雑すぎて、咄嗟に頭に浮かばない。というか……


(逆に恥ずかしい……!!)


 これなら、『抱け』のが幾分マシだ。

 わざわざ意図して優しくするのもそうだし、『優しくしろ』と言われてしている、というのを相手に意識されるのがどうにももどかしい。

 だって、そっと触れたり抱き寄せたりしたら、『あ~。優しくしようとがんばってるな~』って思われるんだろう?


「え。無理」

「なんで」

「…………」


 「恥ずかしいから」と言い出すことが、まず恥ずかしい。


「う…………わかった…………」

「あははぁ! 照れてる♡」


 これみよがしなにやつき顔。今世紀最大に調子に乗っている……!

 頭をがしがしと一掻き。リヒトはジャケットを脱いでベッドに横たわった。こうなりゃヤケだ。もう知らん。


「……ほら」


 両腕を広げると、女神はプイッと顔を背ける。


「そのまま寝るんだからぁ。せめてシャワーくらい浴びなよ?」


(注文の多い奴だな……というか、広げた腕が宙ぶらりんなのが地味に屈辱的だ……)


 ため息交じりにシャワーを済ませると、女神はベッドに寝転んで準備万端! と言わんばかりの笑顔を向ける。これじゃあまるで、絵本を読んでもらうのを待つ子供みたいだ。

 口元を僅かに緩ませて、リヒトはベッドに入った。もぞもぞと、腕の中に女神がもぐりこんでくる。柔らかくて、あたたかい。どこか懐かしいいい匂いがする……


 慣れない人付き合いと教師の仕事でそれなりに疲れていたのだろう。気が付くと、リヒトは女神の髪に顔をうずめて心地の良い寝息を立て始めていた。


「ねぇ、理人?」


「ん……」


 夢うつつのまま返事する。今日の女神は珍しく、落ち着いたトーンで。


「また、ひとりになっちゃったね」


「…………」


 労わるような声音に、思わず心が零れ落ちそう。


「エヴァンスのことか……」


「唯一の友達だったでしょう? あなたを永い孤独から救ってくれた。私、あなたはもっと悲しむのかと思っていたわ。でも、彼の訃報を聞いて、理人は一度も泣いていない……本当は、無理をしているんじゃない?」


「…………」


 言い返せない。


 エヴァンスが死んで悲しかった。それは本当だ。だが、この身の内に生まれた本当の感情は、引き潮のような寂しさでもなく、復讐の炎でもない。


 人はいつか死ぬ。


 エヴァンスが苦心して手に入れたはずの不老不死でいる方法を手放してから、遅かれ早かれこうなることはわかっていた。だが。自分でも思っていた以上の途方もない喪失――その感情に、リヒトは未だ名を付けられていない。


 彼の作った学校に来て、彼のいない日常に身を置いていると、ふとした瞬間に込み上げる。

 日当たりの良い教室、吹き抜けの心地よい廊下。賑やかな木の意匠が施された講堂に、緑豊かな校庭と中庭……それらは全て、何もかも。生徒たちのことを一番に想って作られていた。

 それらを目にするたびに、設計図を手にするエヴァンスの微笑が浮かんでくるようで……


 リヒトは未だ、心の整理ができていなかった。

 そんな彼を気遣ってか、女神は包み返すように身体をすり寄せる。


「私がいるわ。私は――ずっと。理人と一緒よ」


 何を、今更――


「俺をその永い孤独に貶めたのは、他でもない、お前の仕業だったくせに……」


「…………」


 その沈黙が意味するものは、肯定なのか、否定なのか。もうわからない。

 なにせ数十――いや、百近く。数えるのも忘れるくらいに昔の出来事だったから。時の流れと彼女の明るい振る舞いに絆されて、もう何もかもわからなくなってしまった。この女神の本質が、善性なのか、悪性なのかすら。

 ただわかるのは、今、孤独を埋める者は彼女しかいないということだけだった。


「俺はまだ、お前を許したわけじゃない……」


「なのに、こんなに優しく抱きしめてくれるの? ふふっ。理人って本当に……」


 それから先は、聞こえなかった。意識が微睡にもっていかれ、再び夢へと堕ちていく……


「でも、これだけは本当よ。私はあなたを愛してる。愛しているから……」


 ――『ずーっと。ずっと。傍にいて欲しいの』


 女神のつぶやきは聞こえないまま、眠るリヒトの胸に吸い込まれていったのだった。

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