第11話 歌人魚と少年
七色の泡に包まれた校庭の空を、六翼の天使が飛んでいる。
『ピエール、何が起こったの!? 眩しくて見えな――』
言いかけて、瞬間。寒気に口を噤んだ。
もっとも泡が激しく昇る中心部。泡と光を乱反射する中央に、何かが――いる。
「はぁ~い! 呼ばれて飛び出るあなたの女神♡ イーリスちゃんとは私のことよ! わぁ~い、久しぶりのお外だぁ! なぁに~、理人? さては私にお願いしたいことが……」
「頼む! 俺の生徒を救ってくれ! 歌人魚の呪いで泡化している。ガブリエーレが割れないように表面を凍らせて泡を集めているようなのだが、人体として再構築する手順がわからない。集めて固めて……得意だろう!? 先日も自分の贅肉で人形(ラブドール)を作っていたじゃないか!?」
たぱぁん! と胸を揺らして愛嬌たっぷりに登場したのに意気消沈。鬼気迫るリヒトの表情――もといシリアス展開に、女神はぽかんと口を開ける。
「理人ってば、そんなに焦って……珍しくお熱いじゃない。どうしたの? 人間苦手じゃなかったの?」
「苦手って……うるさい。目の前で子どもが死にかけてるんだぞ。それに、学院の生徒はエヴァンスの生徒だ。誰ひとり死なせたくはない。緊急事態なんだ、頼む……」
「ふふっ! しょんぼりおねだりなんかしちゃって。まるで昔の理人を見ているようね?」
「うる、さい……」
焦るあまりに取り繕うのが下手になる。だが、そんな姿が女神はすこぶる愛おしい。普段は人と関わるのはキライだとかなんとか言う割に、なんだかんだで真面目だし。本当は誰より優しい人だと、女神は知っていた。
そもそも自分は彼の奴隷なのだから、腕でも脚でも千切れるくらいに鎖を締め上げ、言うことを聞かせればいいのに。本気で痛がるようなキツさに絞められたことは一度も無い。肝心なところでヘタレなんだか何なんだか。そんなリヒトが好きだった。
女神はくるりと宙を一回転すると、笑顔で顔を近づける。
「がんばったら、ご褒美、くれる?」
「……わかった。約束する」
「んふふ! 言った! 約束だからね!」
にこりと笑みを返した女神はふわりと浮遊し校庭を見下ろすと、状況を飲み込む。リヒトの敷いた錬金術の陣を見ると、満足そうに両手を宙でこねくり回した。
「さぁ~て、女神の3分クッキング~! 再構築なら錬金術~♪ って、さっすが理人。もう九割できてるじゃな~い! おかげで何とか間に合いそう。あとは私が、こねて、こねて……」
魔法とは本来、万物の摂理を理解したうえで、大気や元素、マナを用いて詠唱をトリガーに式を構築するものだ。その式が全て正しく為されたとき、魔法は力を発揮する。
だが、今目の前で起きているのはどれなのか、誰にも全くわからない。女神というのは感覚でソレを使うから神なのだとか。兎にも角にも、女神が陣の上で泡をこね、息吹をかけると、それらは元の形に姿を取り戻した。
「んっん~♪ 呪われた子と、呪いの術者……あら~♡ 可愛いセイレーン! ……あれ? もうひとりはおまけかしら?」
「たす、かった……」
リヒトはどさりと校庭に腰を下ろし――たのも束の間、視界がぐらりと揺れた。
この、頭が重くて瞼が開けられない感じ。貧血――いや、魔力切れだ。
それも当然。なにせ女神が力を行使するたび、見えない流れで女神の鎖と繋がったリヒトの腕輪は、彼の魔力を瞬く間に消費していくのだから。
そこへ、騒ぎを聞いて駆けつけて来た保健医のマリィが駆け寄った。白衣のポケットから小型のパルスオキシメーターを取り出し、倒れた生徒とリヒトに付ける。数値を見てほっと息を吐くと、神妙な顔で覗き込んでくる。
「……何が、あったの……?」
「……色々と。俺は単なる魔力切れだ。まずは生徒を優先しろ。霧散した分子から身体の再構築、形成はできているはず。ただ、細胞にはとてつもない負荷がかかったはずだ。まずは休んで、あたたかい食事を――」
「魔力切れって……あなたこそ真っ青じゃない! 大丈夫には思えないわ!」
「あとは、たのむ……」
それだけ言うと、リヒトは意識を失った。
「ちょっとリヒト!? ピエール先生、運ぶの手伝って! あと、色々と説明してもらうわよ!」
「ぼ、僕にもなんだかわかりませんよぉ! 光と泡で見えなくて……でも、生徒たちが無事でよかった……って。また僕がリヒト先生を運ぶんですか!?」
マリィはテキパキと指示を出し、場の片づけをNクラスの担任に任せた。結局その日は全員午後の授業は取りやめとなり、教員の付き添いのもと生徒たちは寮に帰ることとなったのだった。
その胸に、深い動揺と、恐怖と、圧倒的な力への羨望を残して――
◇
目を覚ますと、そこは真っ白な部屋だった。薄い布で四方を囲われ、無機質な天井が目の前に広がる。ここは、以前マリィと酒盛りをした――
「保健室……?」
むくり、と気だるげに身体を起こす。見渡すと、カーテン越しに、隣に黒く人影が横たわっていた。おそらく保護された生徒だろう。体調を確認しようと、控えめなトーンで声をかける。
「大丈夫……じゃ、ない、よな……」
尻すぼみにため息を吐くと、シーツの擦れる音がして返事が。
「どうして、助けたんですか……」
この声は、フィヨルドだ。「どうして」――その言葉には、疑問ではなく怒りと自嘲の色が浮かんでいる。フィヨルドは仰向けになると天井に向かって大きなため息を吐いた。
「僕は、あのまま泡になったってよかったんです。いいや、そうなるべきでした……」
その答えに、リヒトは眉を顰める。
「どんな事情があったとしても、僕は彼女――アリアを裏切った。傷つけた。彼女の悲痛な叫びを聞いて、ようやくそのことに気が付いたんです。約束を守れないどころか、言われるまでそんなことにも気が付けないなんて。こんな最低な人間……報いを受けて当然です」
淡々と語る声音は落ち着いていて、事実を受け入れ、ただただ懺悔を繰り返す。
「ウチは代々漁師の家系で、数年前までは小規模ながらに複数の子会社を抱える元締めのようなところだったんです。でも、ある日その子会社の人に裏切られて、父は多額の借金を背負わされました。
それが噂で広まって、アリアのおかげで好調だった業績も悪化。比較的裕福だった生活は一変してどん底まで落ちました。父も母も複数の会社へ夜遅くまで出稼ぎに。兄は大学への進学を諦めざるを得なかった……」
寂しげに、ぽつりぽつりと言葉を漏らす。十三歳の少年には抱えきれないような不幸。いままで誰にも言えなかった……そのことが、今にも消えそうな声音から痛いくらいに伝わってくる。
「僕とアリアは、小さい頃から一緒に育った家族のような存在でした。だからこそ、ふたりでなんとかして家族を救いたかった。お兄ちゃんを大学に行かせてあげたかった……! でも、アリアにとって、それは身を切るよりも辛い選択だったんです。
一時とはいえ僕の傍を離れれば、召喚者と召喚獣という、契約で結ばれた対等な関係はなくなります。アリアとエリックの間には、貸された者と借りた主という抗いがたい上下関係しかない。アリアはあの見た目ですから、ひょっとしたらエリックにいやらしいお願いをされたのかも……そうなると予想できなかった自分の浅はかさに、僕は、僕は……!」
声が涙ぐんでいく。リヒトには、それ以上黙って聞いていることができなかった。カーテンをそっと開けて、リヒトは穏やかに語りかけた。
「いままで、辛かったな」
「……!」
「もう心配しなくていい。教師の役目は生徒を導くこと。実家の借金については、こちらで何とかならないか手を打とう。知り合いに金融機関勤めがいてな、俺に借りがあるんだ。あまり人には言えない手だが、タダ同然で貸付させてもらえるよう書状を送ろう。
フィヨルド、お前は優秀な生徒だ。入学したてて実績はないかもしれないが、望めば前倒しで奨学金制度を利用できるはず。そちらもすぐに手配させよう。ピエールに」
「え……でも、そこまで……なんで……?」
戸惑うフィヨルドに、リヒトはまっすぐに告げた。
「お前のことが、許せないからだ」
「……!?」
さっきまでの優しい言葉はなんだったのか。あそこまで言っておいて今度は突き放すのか? フィヨルドは動揺に目を白黒させる。
「大切なアリアを手放してまで家族のことを助けたかったんだろう? だったら最後までやり通せ。泡になって消えてしまえば、お前はアリアとエリックへの罪悪感から逃れることができるだろう。しかし、それで楽になるのはお前だけだ。家族は助けられないし、残された者を余計に辛くさせるだけ。そんなの、許せるはずがない。
やってしまった罪は消えない。だからせめて、最後まで責任をもってやり通せ。家族とアリアに、今度こそ報いれるように。俺から言いたいのはそれだけだ」
「せん、せい……」
「ああ、それと。エリックに対しては申し訳なく思う必要はないぞ。あの小切手はやはり偽物だったからな。エリックは遅かれ早かれ泡になる運命だった。それが今息をしているだけ、逆にありがたく思って貰わないとな?」
リヒトは彼なりに場を和ませようと、はは、と軽く笑い飛ばす。フィヨルドはベッドの上で再び目を丸くした。
「どうして、それを知って……!?」
「――見ていた。詰めが甘いぞ、少年」
不敵に笑うと、フィヨルドは力が抜けたように「そっか。あはは……」と笑みをこぼす。
「僕は、ほんとに、馬鹿だなぁ……」
◇
数日後。SSR一年生のクラスは相変わらず閑散とした朝のHRを迎えていた。元から五名しか生徒がいないうえ、ひとりは部屋に引き籠り、もうひとりは療養中。残されたたった三名で何をどう授業しろというのか。
苦肉の策で、これを機にとほぼマンツーマンに近い実戦指導が行われたが、それが地獄の始まりだった。
ピエール先生は基本的に優しいし、特に女子に対して強く出れないから、三人は共通して「チョロい」という認識だった。が。それを見越してか牽制してなのか、リヒト先生は異様に厳しい。
魔法と体技を合わせた戦闘訓練も、ボディタッチとか全く気にせずずばずば触れる。掴む。投げ飛ばす。ピエール先生だったら「はい、一本ね」のすんどめで終わる手刀も、リヒト先生は構わずみぞおちにキメる。首にキメる。脛を蹴って転ばす。
女子の扱いが全くなっていないというか、雑に扱うことに妙に慣れ過ぎている……? 普段の言動からして(なんか変な人だし、常識ないし)彼女とかがいるようには思えないのに……
「読めねー」。それが生徒たちの全会一致の感想だった。
そんな中、今日も鬱々としたHRに一陣の新しい風が。
「おはよう、ございます……あの、今日からまた、よろしくお願いします……」
おずおずと扉を開けて入ってきたのは気弱そうな少年のフィヨルド。その腕の中には、お姫様抱っこされたなんとも可愛く美しいセイレーンがいた。初めて会うクラスメイトに、彼女はしなりと挨拶をする。
「歌人魚のアリアです。皆さんよろしくね?」
その笑顔はぴかぴかに輝いて、まるで七色の鱗のように、眩しく煌めいていたのだった。
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