第10話 嘘つきは泡となれ

 悲鳴がしたのは校庭で初日を迎えていたNクラスだ。トロールという巨獣種を召喚した者がいたため、連れ歩きができるように小型化させる特注の腕輪が届くまでは校庭で授業を行おうという配慮だったらしい。

 駆けつけると、そこには凄惨というより、世にも奇妙で美しい光景が広がっていた。ロの字型で中央棟や寮に囲まれた校庭は、春の花芽吹く庭木に混じって七色に光る泡が飛んでおり、水分を含んだそれらが空に舞うたび光が反射して周囲に小さな虹を作る。なんとも幻想的な光景に息の飲むのも束の間。その虹の麓では生徒が悲鳴をあげていた。


「あ……が……ああっ……!」


 口の中からがぼごぼと泡を吹き出しながら、背後から紫陽花色の髪の乙女に抱かれている。その半身は艶めく鱗――あの歌人魚セイレーンと、エリックだ。

 エリックは先日、フィヨルドに金を渡していた生徒。受け取っていた側に事情があると思いフィヨルドをマークしていたのがアダになった。


「あなたは、私の王子様じゃないわ。だから……」


 ――『 消 え て 』


 ……ラ♪ ラ……♪と歪な美声が響き渡る。

 セイレーンの呪いの歌が囁く度に、抱かれるエリックの身体は端から泡となって風に攫われていった。声帯をもっていかれたのか、もはや苦痛に喘ぐこともできない。


「ああ、どうして? どうしてなのフィヨルド。私はあなたの唯一になりたい。ずっと一緒よって、そう約束したのに……」


 視線の先に捉えたのは、震える脚で必死に駆けてきたフィヨルドだった。


「どうして私を裏切ったの?」


 悲痛な目をした問いかけに、フィヨルドはあまりの惨事にはくはくとさせていた口を引き結び、セイレーンをまっすぐに見つめた。

 幼い頃からずっと一緒に育ってきた彼女を、こわいと思ったのは初めてだった。


「ちが……僕は……! 言ったじゃないか、来年のクラス替えでエリック君がSSRのクラスにあがるまでの辛抱だよって! それが終わったら迎えに行くからって、言ったじゃないか! なのに、どうして……!?」


 その答えに、リヒトの眉がぴくりとあがる。

 召喚獣の交換トレードは、一時的な約束だったというわけか。

 だが――


「私は言ったわ。『私をあなたの唯一にして』って。そしたらあなたは『ずっと一緒だよ』って言ってくれた。約束の証に、小さな手を差し出して。指切りしたのを覚えてる?」


「……それ、は……!」


「フィヨルド。あなたは私の王子様。私は、あなた以外の王子様は認めない。エリックとの約束も、私は一度もいいよなんて言ってないわ」


「でも……! 苦しいときは支え合おうって! 僕たち、家族みたいなものじゃないか!?」


「わたしにとっては、今が一番苦しいの。死ぬことよりも。何よりも」


「……!」


 人間と召喚獣では価値観が異なる。無論、人同士もそうだ。彼女が認めないと言っている限り、どんな事情も関係ない。


 セイレーンの持つ願い。それが『誰かの唯一になること』だったとしたら、彼女を手放した時点でその契約は破られたことになる。フィヨルドは、その対価を支払うことになるだろう。


 抱いていたエリックを泡にし終えたセイレーンは、ちゃぷん、と静かな水音を立ててフィヨルドの背後に移動した。

 契約者である彼の足元には常に黒い水たまりのような影がある。セイレーンは、『ずっと一緒』という契約に縛られた召喚獣。主の影に瞬間的に移動することなど造作もない。

 だって、そうじゃなければ


(あのセイレーン、水と闇の二属性持ちだったのか……! 道理でフィヨルドの呪術適性が高いわけだ。あんなのと幼い頃から一緒にいたら、強力な呪術も知らぬ間に覚えてしまう。まるで、おままごと感覚で……!)


「ねぇ、フィヨルド?」

「……!」


 背後から抱き締められたフィヨルドは恐怖と罪悪感で呼吸すらままならない。セイレーンは追い打ちをかけるように彼の耳元で囁く。


「知ってる? 魚はね、人間よりも一度に沢山子どもを産むの。こちらの世界では珍しい『女王の血を引く者』も、海に帰ればそう珍しくないものなのよ。激しい渦と競争に揉まれ、私は結局、何者にもなれなかった。だから私は願ったの。一度でいいから、『誰かの特別な何かになりたい』って……」


「アリア……」


「嬉しかったの。あなたの両親に召喚されて、『歌人魚は漁師の守り神様だ!』なんて歓迎してもらって。大きなお魚を沢山捕れば、あなたは笑顔で喜んでくれた。

 嵐が来るとわかれば、危ないから漁へは出て欲しくないの。でも、すごく晴れているうちは誰も信じてくれなくて。そんなとき、あなただけは私を信じてくれたよね? 一緒になって、お父さんとお兄ちゃんを説得してくれた。そのとき決めたの。ああ、この人の唯一になろうって……」


 思い出を優しく語る唇が紡ぐ。美しくも、儚い悲恋の呪い歌を。


 ……ラ♪ ラ……♪


 指が、頬が、溶けて崩れて七色の泡になっていく。フィヨルドは、その美しく悲しい声音に何も言い返せなかった。


「お願い、フィヨルド。大好きよ。大好きだから……私と一緒に泡になって、溶けて……」



 ――『 消 え て 』



 ――ああ、もうだめだ。


 フィヨルドは目を瞑って覚悟する。

 リヒトは堪らずふたりの元に駆けだした。


「急いでやめさせろ!」


 セイレーンに向かいながら、後ろで呆然と様子を見守っていたピエールに号令を出す。


「その歌をやめろ、セイレーン――! 【束縛チェイン】!」


 セイレーンの首に鎖をかけて引き倒す。が、彼女もただでは倒れない。フィヨルドだけは離すまいとしてふたりはもつれあうようにして地面にべしゃりと音を立てた。

 地に伏したセイレーンがさも可笑しそうに口角をあげる。


「ふふっ……ふふふ……!」


「何が可笑しい!?」


「歌をやめても呪いは止まらない。だってもう発動してしまったもの。契約違反のおまじない……『噓つきは泡となれリューゲ・バブリア』。

 『一緒にいる』という約束を破った彼は泡となり、彼と共に死ぬことを選んだ私も同時に、その約束を破った。もう、ふたりとも終わりだわ。あは。あはは。あはははは……!」


「フィヨルドを離せ! そいつは俺の生徒だ!」


「いいえ。私のよ。私の大事な王子様……どうか私を、最期の時を一緒に迎える唯一の存在にして……!!」


 高らかに叫ぶと、ふたりの泡化が加速する。一寸先も見えない程に七色が視界いっぱいに広がっていく。


(くそっ……! 何か手は……!)


 泡の昇りゆく空に手を伸ばしても、自由に舞うその宝石を捕まえることはできない。しかし、見上げたその先に一筋の光芒がさした。あの六翼の輝きは――


「ガブリエーレ!! お願いだ、僕の生徒を死なせないでくれ!!」


 泡の向かう先、天高く飛翔した天使はその翼で泡を押し戻さんと羽ばたく。


『だめ、わからない……! 泡を集めることはできても、元の形に戻せないわ……!』


(元の、形に……?)


「その手があったか……!」


 リヒトは泡になっていくふたりを捨て置き、すぐさま胸ポケットから短い杖を取り出した。


「一度死んだ者は蘇らない。しかし、あいつらはまだ。死んでいない……! となると、人体を分子レベルに分解している? 元の形、集める、固める……錬金術か?」


 なにごとかを呟きながら杖をペン代わりに黙々と手を動かす。地面には完璧な円と魔法記号、魔術的文字がすらりすらりと並んでいく。


「人体錬成……とは多少異なるが、要は泡を集めて人型を形成してやればいい! 呪いの分解力に打ち勝つ、圧倒的な力で……!」


 最後の外周を円で結び終えたリヒトは、天高く金の腕輪をかざした。


「頼む、女神……! 来いっ……!! こねこねするのは得意だろう!?」


 刹那。校庭は眩い光に包まれた。

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