第5話 カツアゲ
あれは、ちょうど今くらいに暖かくて、ぬるくて。咲く花々が眩しい春のことだった。
空を舞う花びらが新しい季節。マリィは公園のベンチに腰掛け、その花弁が肩に積もっていくのをただ「眩しい」と、黙って見つめていた。
白く小ぶりな花の可憐さは、今の自分には眩しすぎるくらい。
もう、何もかも終わりだと思った。
病院や教会などを中心に行った就職活動で全敗したマリィは、同時期、付き合っていた年上の彼氏の浮気も発覚して帰る場所を失っていた。
自分はただ、治癒魔法で人を助ける仕事がしたくて。子どもに夢を与える魔法使いになりたくて。それなのに世間は「どうせ魔力が尽きれば仕事に支障が出るのだろう」とか「治癒魔法使いは包容力があっていいが、必要以上に貞操観念に厳しいのは面倒だな」なんて。面接官と盗み見た彼氏のメールはそう言っていた。
ただ風に舞う花びらを羨ましい、と感じた。
自分もあんな風に自由に舞ってみたいと。
そう考えて川面に散りゆく花びらを追いかけていたら、歩道橋から足を踏み外していた。
「あ――」
落ちる。
歩道橋は結構な高さがあった。景観をよくするためにと、街づくりの一環で作られた見かけばかりのあの川は浅い。
落ちれば多分死ぬだろう。今なら助かる。足の先に力をいれて踏ん張れば、まだ間に合う。
しかし、マリアは踏ん張れなかった。踏ん張るだけの気力と希望、生きる元気が、無かったのだ。
(もう、どうでもいいや……)
そう胸の中で呟いた彼女の身体は、次の瞬間。冷たい水でなくふわりとした春風に包まれた。
【
唱えた初老の魔法使いは、風が優しく彼女を運ぶのを確認すると、わけもわからないまま目の前に着地する彼女の手を紳士的に取る。
「もったいないね。あなたはこんなに、優しい魔力の持ち主なのに」
◇
「で。惚れこんで
「というより、拾って貰ったのよ。エヴァンス様は自暴自棄になっていた私に居場所をくれた。養護教諭として雇って、寮に住まわせて……色んなことを教えてくださった。
教師とは、魔法使いとは。そして、人の価値と幸せは決して一側面からでは測れないということも。『年若いキミには老人のお節介に思えるかもしれないが』なんて。いつも穏やかに笑って……」
「はは、あいつらしい」
「エヴァンス様に師事をして、生徒の健康の為に魔法を使う。まさに天職――生きる糧だった。そんな希望をくれたあの方を心底敬愛していたわ。なのに、それなのに……!」
保健室でランチを広げ、ふたりは懐かしい記憶に想い馳せていた。
机の上にはパストラミビーフを挟んだサンドイッチとスティック野菜のディップサラダ。外でも手軽に食べられるようにとのシェフの配慮だが、気を利かせてすぐにこれが作れる機転は素晴らしい。
エヴァンスの人を見る目、もとい人事採用に関する手腕は折り紙つきだということがよくわかる。
話をしていくうちに食事は進み、マリィが保健室に隠し持っていたボトルのワインも次々と空になっていく。
普段であれば他人に興味など無いリヒトだが、不思議とマリアは面白い――否、からかい甲斐のある女だった。
「ははは! 年の離れたエヴァンスに振り向いてもらいたくて、そんな恰好を始めたのか? それで次第にエスカレートし引っ込みがつかなくなったと。バカか! 真性のバカがここにいるぞ! 年の差がって――あいつを何歳だと思ってる。軽くお前の十倍は生きているぞ! ははははは! そもそも、『大人』の基準が『色香』と同義だと考えるところからして子どもじゃないか!」
「しょ、しょうがないでしょう!? だって、男はみんな古今東西セクシーで貞操観念ゆるがばな女が好きなんでしょう!?」
「そんなんお前の元カレだけだ」
「その話はしないでぇ!」
照れ、でなく酒のせいで顔を赤くしたマリィが机に手を付き立ち上がる。
今まで誰にも言えなかった秘密をものの数分で看破され、ヤケになっていたのもあるだろう。しかし、本当はエヴァンス以外の誰かに『本当の自分』を知って貰いたかったという解放感も、酒を飲む手を速めているのかもしれない。
リヒトはというと、久方ぶりに女神以外と交わす会話を柄にもなく楽しんでいた。
「はぁ……マリィ、お前本当は何歳なんだ? 見かけは二十そこらのくせに、精神年齢はまるでガキと変わらん。もっと乳以外に栄養を回せ。
にしてもまさかエヴァンスの奴、弟子がここまでアピールしているのに気が付かんとはどれだけ朴念仁なんだ……ひぃ、笑い過ぎて腹が痛い……!」
「エヴァンス様を笑わないで!? あの方はその……きっと、私のことは孫娘みたいにしか思ってなかっただろうから……」
「そこまでしたのに! 諦めるのが早すぎるだろ!? ははははは!」
「も~う!! 自分でも嫌ってくらいにわかってるわよ! うるさいわねぇ!!!!」
校庭に面した中央棟一階隅の保健室。日当たりと風通しが良く患者に優しい環境は、裏を返せば花見酒にはうってつけ。校庭に人がいないのをいいことに、白昼堂々、酔っ払いの笑い声が響き渡る。
元はと言えば、マリィがエヴァンスの死が老衰でないと勘付いて、旧友であるというリヒトに相談を持ち掛けようとしたのだが、話しているうちにあらぬ方向に酒が進んでしまったふたり。残念なことに止める人間が誰もいない。
生徒たちは既に校舎から離れた寮にいるうえ、他の教師と違って決められた仕事のないふたりは今後の予定も飲み会――『お疲れ様会兼リヒト先生歓迎会(シャポンの奢り)』があるだけだ。だから別に、モラルは別として昼間から酒を飲んでも構わない――
「エヴァンス様のことを聞こうとしただけなのに! どうしてこんな性悪男に弱みを握られないといけないわけ!?」
「勝手に墓穴を掘ったのはお前だろう」
「だって、そんな、『匂いでわかる』とか意味わからないわよ……なんかキモいし」
「失礼な。これも立派な防衛術だ。男を陥れようとする女の匂いを嗅ぎ分ける、な。
で? 話は逸れたが、エヴァンスが老衰でないと思ったきっかけはなんだ? 俺のところには手紙が『二通』来た。エヴァンスからのものと、学院からの校長の訃報を報せる手紙。『三か月後の死期を予知した遺言』と『訃報』が同時に来るのはおかしい。事と次第によっては俺やお前以外にも犯人を探そうとしている者がいるかもしれん。もしそうなら早めに協力か口封じを――」
「ちょっと!! ここですか、昼からお酒盛ってどんちゃん騒ぎしてるっていう不謹慎教師の巣窟は!! 職員室まで笑い声が聞こえてましたよ!?」
大事な話に水を差したのは、校庭に響く若い女教師の声だ。膝丈のスカートに淡い色合いのカーディガンを羽織ったザ・清楚系教師は、走って来たのか肩で息をしながらずんずんと保健室に迫って来る。
舞い散る庭木の花弁をこげ茶の髪にくっつけたままの一生懸命な様子がなんだかひどく愛らしい。
「あ。エルメちゃん」
「マリィ先生またあなたですか! ただでさえ十八禁な恰好で教育委員会から問題視する声が寄せられているっていうのに、お昼からお酒だなんて! 本当に不謹慎の塊ですね! 手の空いている教師は広間の片付けですよ。いいから来てください。あれ? リヒト先生まで!? どうして昼から飲んでいるんですか!? ピエール先生が泣いてましたよ、『どこ行っちゃったんだろう~』って」
あれ、おかしいな。仕事が割り当てられていないから午後は自由なのかと……
教師とは、何か言われてなくても時間一杯は勤務する。そういうものらしい。
リヒトの「こいつは?」の視線に気が付いたマリィは、激昂するエルメをよそに丁寧に紹介する。
「こちら、去年の新人エルメちゃん。ピエール先生の同期で、担当は召喚獣の躾、教育、和解などのコミュニケーション学よ。一昨年まで大学生だったぴちぴちの……可愛いでしょ?」
清楚系に弱いリヒトは酔っぱらっているせいもあって素直に「うむ」と頷いた。ストレートな褒め言葉に顔を赤くして後ずさるエルメ。
「なんだか、チワワみたいな奴だな」
「なっ――!?」
犬に例えたのは失敗だったようだ。ほんのり朱に染まった頬の熱を一瞬で鎮火させ、エルメはゴミを見る眼差しでふたりに告げる。
「飲んでる暇があったら手伝ってくださいよ、酔っ払いども」
「「はぁい」」
「この件は後ほど」と視線を交わし、ふたりは各々後片付けに連れて行かれた。合流したピエールに「携帯は携帯してくださぁい!」と泣きつかれ、ストーカーもびっくりな着信の嵐に気が付く。
「すまん。サイレントにする派で」
人の都合に振り回されるのはこりごりなんでな。
「仕事中はせめてバイブにしてください……!」
(むぅ。これだから世に出るのは面倒なんだ……)
だが、これもエヴァンスのためか。
つい数十年前まで魔法の手鏡同士の通話が主流だったのに。今では携帯電話に取って代わられてしまった。リヒトはこちらの方が使い慣れているからいいが、なんだか寂しい。
好きだったんだよ、あの、魔法感たっぷりの不思議な手鏡通話が。この感覚はアレだ。電子書籍より紙の本が好きだった、あの感覚に近いかも。
「で? シャポンの奢り飲み会まで仕事は無いと聞いていたが?」
「奢り飲み会って、言い方……そもそも勤務中はお酒を飲まないのが普通です。はぁ。リヒト先生って、良くも悪くも素直ですよね。奔放っていうか。そういうとこ羨ましいです」
「別に。何をどう思おうと俺の自由だろう。奢りの酒は嬉しいし、天気が良ければ昼から飲みたい。それを隠してどうする?」
「ですよね。でも、そういうとこです。周りを気にしないというか」
「気にして何になる?」
さもわからん、と言った風に首を傾げると、ピエールは「いいなぁ」とだけ小さく呟いた。
小さくてあたたかな羨望。世に蔓延る嫉妬や醜い感情も、この程度のものであれば可愛げがあるのに。まぁ、それは今後嫌でも目にしていくだろう。なにせ今回のクラス編成は……
と。ピエールに校内を案内されがてら明日からの授業に向けた各教室の見回りに勤しもうとしていると、第一体育館裏の区画から妙なひそひそ声がした。
ピエールに、悟られぬようにと注意を促し覗き込む。そこには真新しいローブに身を包んだ生徒がふたり。だが、お互い召喚獣は連れていないようだ。
「新入生がこんなところで何を……?」
「しっ。なにやら不穏な空気だ。財布を取り出したぞ。新学期早々カツアゲか……?」
上級生と下級生ならいざ知らず。同学年のしかも一年生同士で金銭のやり取りなど。いくら貴族制が未だに尾を引いていて身分に多少の格差があるとはいえ――いやそもそも、身分が上の者ならばそんな真似をする必要はないじゃないか。金に困っているのはむしろ、そっちのおどおどとした庶民的な革靴を履いた方の少年……
(む。彼は……)
見覚えのある顔に、リヒトはさも不愉快そうに渋面を作る。
(くそっ。あのバカ。なんという愚か者だ……)
「カツアゲなんて! や、やめさせましょうリヒト先生!」
今にも飛びだしそうなピエールを抑え、リヒトは苦い息を吐いた。
「あれはカツアゲなどではない。『買収』だ」
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