第1話 序 旧友の訃報、旅立ち


 その日は、季節外れの雪が降っていた。

 もう三月も終わりだというのに、澄んだ冷気が窓を仄かに曇らせる。庭先の大樹は遠方より取り寄せたサクラの樹。本来降るはずのない白が淡いピンクの花弁に混じって散る様はいかにも幻想的で、この世界にはお似合いだった。

 ふと、花弁の一枚が窓の隙間から差し込む。ふわりと手に取ったそれを見て、リヒトはらしくもなく郷愁の思いに焦がれていた。


「桜か……懐かしいな」


 かつては満開の木の下で学友と弁当を並べたりもした。もう何年、何十年……数えるのも忘れたような昔の話だ。懐かしく、輝かしい思い出。人里離れた洋館で厭世家の変わり者として暮らす自分にはもう縁のない話だ。


 姿見に映る男は黒い髪を肩まで垂らし、目の下には濃いくまを浮かべている。黒のローブで隠しきれない猫背の姿勢……どこからどう見ても陰気な、悪い魔法使いな佇まい。

 そんな男がひとり部屋の片隅で桜の花を手にする姿は滑稽なロマンチストに見えなくもない。扉の隙間から様子を伺っていた女はたまらず部屋に転がりこんだ。


「ああっ……! なんて物憂げな顔をするの、理人リヒト! 寂しいのね、寂しいのよね!? 私がぎゅうってして、温めてあげる!」


 季節感が皆無と言わんばかりのシースルーな純白のワンピース。その内側に透ける肌色と金の鎖をじゃらつかせ、美女は男に飛びついた。

 が。瞬きの間に首輪を掴まれ、無理に視線を合わせるように身体を宙に浮かせられる。雑な扱いに麗しい銀糸の髪がゆらりと零れ、七色の虹彩がうっすらと涙を浮かべた。


「はぁ、はぁ……く、くるしいわ、理人……」


「うるさい、堕女神。何度言ったらわかるんだ。勝手に抱き着くんじゃない。それに、下手な演技で同情を誘うのはやめろ。本当は締め上げられて喜んでいるくせに」


「はぁ、はぁ……♡」


「うわ。本当に喜んでやがる。きもっ」


 べしゃり、と床に捨てられて女神は「ふにゃあ!」と甘い鳴き声を漏らした。床にうずくまり、股を抑えて吐息をこぼす。


「だってぇ、持ち上げられると鎖が食い込んじゃってぇ……♡」


 蕩けるようなその瞳に、リヒトは舌打ちと同時に大きなため息を吐いた。


「……濡らしたのなら床を拭いておけよ。俺の部屋をお前の体液で汚すんじゃない」


「はぁい♡」


「ったく、これだから堕女神は。それより、様子を伺っていたということは何か用があるんじゃないのか?」


 侮蔑の眼差しと共に投げかけられた問いに、女神は深い谷間から二通の手紙を取り出す。


「今朝、郵便受けに入っていたの」


 ほかほかとして生暖かいそれに顔をしかめつつ、リヒトは書状を開いた。読み進めるごとに眉間の皺が一層深く刻まれ、一瞬沈痛な面持ちを浮かべて、最後には窓に向かって息をこぼす。


「……エヴァンスが、逝ったか……」


 ぽつりとそれだけ呟いて外出の支度を始めるリヒトに、女神は床を拭きながら問いかける。


「どこへ行くの?」


「学校」


「へ……?」


 いくら魔法で若作りしているとはいえ、彼の見た目はお世辞も込みで二十代そこそこ。どう考えても学校なんて歳じゃない。そんな引き籠り男がらしくもなく学校なんて……まさか、若い血を求めて生贄を調達に?


「い、いくらなんでも人攫いはダメよぉ!」


 慌てふためく女神がスーツを着込んだ足元に縋り付く。リヒトは舌打ちと共にそいつを軽く蹴飛ばしていなし、指を鳴らして鎖を締め上げた。身体に食い込むひやりとした感触に、女神は再びうずくまって吐息を漏らす。


「俺をなんだと思ってる? 生贄? そんなものは必要ない。そこらの悪徳魔法使いと一緒にするな。それに、生贄なんぞを必要とする黒の儀式はとうの昔に反社会的危険行為として法令で禁止されている。人の世に生きる限りは規律に従うのが善良な市民というものだぞ」


「じゃあ、どうしてぇ……?」


「俺はただ、約束を果たしに行くだけだ」


「約束?」


 リヒトとは長い付き合いとはいえそんなものは初耳だった。手紙の送り主、西の召喚学校を営むエヴァンスとの約束だろうか。しかし、リヒトは彼が逝ったと口にした。手紙はおそらく、死期を予知したエヴァンスによってあらかじめしたためられていたのだろう。


「奴が死んだら、代わりに学院を頼むと言われていてな」


「それってつまり……?」


「今日から俺は、先生だ」


 不敵に微笑むその言葉に、女神は背筋を震わせる。


「理人が学校の先生!? そんなの無理よぉ! だって理人は、私がいないとなんにもできないじゃない!?」


「一体いつの話をしている? そんなものは何十年と昔の話だ。現にお前はそうやって俺に何でも与え、与え過ぎたばっかりに今では立場が逆転して奴隷としてこき使われているじゃないか」


「だって、理人ってば甘え上手なんだもの。なんでもあげたくなっちゃう♡」


「はいはい、おかげさまで――というわけだ。俺はもう昔の俺じゃない」


 身体をくねらせて思い出に浸る女神を鼻で嗤い、リヒトは外套に袖を通した。手には大きなトランクを携えて。


「じゃあ、数十年留守にするから。達者でやれよ」


「えっ……?」


 力を封じる首輪と、身体に食い込む鎖を見て、女神が顔を青くする。


「待って待って! 私は!? 連れてってくれないの!?」


「どうして学校に女神を連れて行く必要がある?」


「だってぇ、家族でしょぉ!? 恋人でしょお!?」


「俺がいつお前の恋人になった?」


「えっ。......えっ? 待って! ごはんは!? 私のごはん!」


「女神なんだから本来飲み食いする必要なんて無いだろう。そこらのマナでも吸ってろ」


「やだぁ! 理人のごはんが食べたいよぉ! それにほら、鎖がこんなに食い込んじゃって……♡ 私もう我慢できなぁい!」


「ひとりでしてろ、変態女神。いくら鎖があるとはいえ、お前が悪さしない限りは自由に行動できるはずだ。屋敷からは出られないが、三十SSLLDK。文句のつけようのない広さだろう? それにほら、これも一種の放置プレイだと思えば」


「放置プレ……ってやだぁ! 無理ぃ! 退屈で死んじゃう! 構って! 構ってぇえ!」


「庭の草木は四季折々に花を咲かせる。退屈しようもないだろう。たまには俺でなく花でも愛でて、女神らしくピュアで清らかな心を養ったらどうだ? 俺はなぁ、本来素直で清純な女が好きなんだよ」


 持論はな。だが、それで恋愛でいい思いをしたことはない。長い人生においても、そんな青い鳥みたいな奇跡のような存在にはついぞ出会ったことがないのだ。

 だが。リヒトは魔法使いだ。歳を取っても見た目同様心は若人。その夢だけは捨てたくない。

 男たるもの、結婚するなら清楚で可憐な清純派美少女がいいに決まってるだろう。そう心に決めて数十、いやその十倍か? 周りは皆結婚した。リヒトだけを置き去りにして。


「さぁ。春がすぐそこまで来ている。俺は行くぞ。新しい環境に新しい出会い……何十年ぶりだ? 人付き合いは面倒くさいが、約束は約束。これを機に若くて可愛い嫁でも探すかな」


「嫁!? 嘘でしょ!? 待って理人、待ってぇぇええええ……!!!!」


 追いすがるような悲鳴を無視し、リヒトはこうして学校の門を叩くこととなった。


 ――ジャン=ドゥ=エヴァンス召喚専門学校。


 大陸で幅を利かせる七つの魔法学校のうち、最もランクの低いとされる学校だ。


 世には治癒魔法、攻撃魔法、自然科学魔法、錬金術など多様な魔法が溢れているが、異界の存在と契約することで力を発揮する召喚魔法は、術者が必ず代償を支払う必要があり、不便な魔法と敬遠されている。


 特にここ数百年、魔王が倒され世が平和になってから人間はあれよと言う間に文明を発達させ、産業革命、近代化を迎えて機械化が進んだのだ。空を飛行機が飛ぶ時代に魔法使いなんて職業はもはや過去の遺物。インターネットやAI技術が普及してからは更にひどい。


 機械と違って魔法は魔力を消費する。歴史が長い分できることの幅は広いが、疲れもあるし限界もある。長年研究を続け叡智を蓄えた魔法使いでさえ、近年では都合のいい図書館扱いというわけだ。


 ちなみに、なりたい職業ランキングでも魔法使いは年々その地位を落とし、見栄えが良くてカッコいいという理由で十歳以下には人気があるが、それ以降になると「ぶっちゃけ将来性が」とか「労力が対価に見合わない」とか言われて企業のサラリーマン以下になる。

 魔法学校を卒業する生徒たちも、その後の就職先は魔法を活かせる大企業や医療機関を狙う者が多い。純粋に魔法使いを名乗る者は、いわゆる学者や魔法学校の教師であることが常なのだ。


 だがエヴァンスは、界を跨いで多様な存在と心通わせるその魔法こそが至高と信じ、専門の学校を設立した。扱いの難しい召喚魔法を世に広く浸透させ、種族を超えた絆と平和を育む。それこそが彼の願いであり、心血を注ぐ悲願であった。


 友人エヴァンスとの約束は学院の維持と再興。

 創立者であるエヴァンスが倒れれば、ただでさえランクの低いこの学校は廃校の危機に晒される。実益を伴わない学問に価値無し――と、忌々しい王都からの寄付も断たれる可能性すらある。そうさせないのがリヒトに課せられた約束だった。


 だが。


(学院の再興? 最下位ランクからの脱出? 笑わせるな)


 どうせやるなら、とことんだ。


 リヒトは突き詰めるとどこまでも極めたくなるタチだった。彼の愛するソシャゲのデータがそれを如実に証明している。

 それに、ごくごく個人的に、一方的に。最上位とされているあの学園の理事長が気に食わないと思っていたんだ。


 学校――それはとても懐かしい響き。まさか自分が教師になるとはあの頃は夢にも思っていなかったが、これも何かの縁だ。

 学校といえば生徒、生徒といえば女生徒。生徒と教師の禁断の恋……昔好きだった隣の席の女の子が、担任とデキていて絶望したあの日々を思い出す。


「ふふ。ふふふ……!」


 様々な思惑を胸に薄暗い笑みを浮かべながら。リヒトは屋敷の外に足を踏み出したのだった。

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