第十章 三



 傾いた風俗店の看板。


 路上に放置された車の群れ。


 割れたビルの窓ガラス。 


 そこから飛び出した、白骨化した人間の腕。


 灰色の雪に汚れた歓楽街を、透は駆け抜けていた。「中浜通り」と書かれた錆びた看板を踏みつけ、信号へと飛び移り、舞い上がる。視界の端に流れるビル窓の内部。資料の散らかったオフィス、椅子の倒れたダイニング、無人の焼肉屋、居酒屋のチェーン店。全部血で濡れていた。生温い風が疾駆する。悲鳴のような風の音が耳を障る。言い様もない不快感に、神経がささくれ立つ。


 赤レンガのビルの七階から、百足のような化け物がぬっと現れた。頭が人間の顔で口からイソギンチャクのような触手がうぞうぞと覗いている。透の気配を感じ取ったのか。


 舌打ちをこぼし、透は前方に回転しながら化け物に踵を落とした。果実を叩き潰したときのような音を立て、化け物の頭が粉々に吹き飛ぶ。その下の階にあったクリニックの看板に掴まった透は、百足の化け物が地面に叩きつけられるところを見て、ふうっと息をつく。心臓の鼓動がうるさかった。


 休んでいる暇はない。


 透は肩で息をしながら、赤レンガのビルの壁を殴りつけた。亀裂が生き物のように走り抜け、破片が浮き上がる。その中から頭ほどの大きさの瓦礫をつかみ、握りつぶしてさらに小さく砕くと、振り返りざまに上方へ投げつけた。


 後ろから、天使の羽が生えた化け物が三匹迫ってきていた。高速で投げつけられた小さな破片は散弾のごとく彼らに突き刺さり、悲鳴と血しぶきがあがる。


 飛び散った血が、三本の槍へと変化した。 


 肉を貫く鋭利な音。錐揉みしながら落ちていく化け物たち。


 透は、看板が潰れる勢いで飛翔し、向かいのビルの貯水槽へと着地した。配管の入り乱れた、古い水の臭いが漂う屋上だった。灰色の雪で埋もれて退廃が進んでいる。


 透は飛び移った衝撃で揺れ動く貯水槽から降りた。雪を踏みしだいた感触。


 その瞬間だった。


「……っ」


 突然、視界が歪んだ。目に入るものすべてが三つに分裂して見える。壁も床も何もかも。平衡感覚は容易に失われ、地面が壁となって迫ってくるようにさえ感じられるほど、当たり前のように透は倒れた。


「……透くんっ」


 桜南が、叫ぶ。


 その声は、近いようで遠かった。


「……クソッ」


 立ち上がろうと背筋に力を込めるが、神輿を背中に乗せられたかのように重たく動かない。それでも、噛み砕く勢いで歯ぎしりをたて、身体を懸命に動かそうとした。


 だが、その足掻きも虚しく終わる。それどころか、透の「殺意」の肉体が普通の人の身体へと戻ってしまった。


「……っ」


 まさか――。


 「不条理」との戦いが終わった後、桜南が言っていたことが頭を過る。


 「殺意」の権能にも限界があるという話だ。能力を使えば使うほどに体力を消耗し、最悪脳が焼き切れて死に至ることもあると。まして、透の中に宿る「殺意」の権能は尋常ではないほどに強力なものだ。桜南の指摘どおり、そのリスクも並大抵のものではないはず。


 現に「不条理」との戦いの後も力尽き、一日以上気を失っていた。そして、今回は何度も超再生を発動してしまっている。あのとき以上に、消耗は大きいはずだ。


 体力が、限界に近い。


「……くそっ」


 透は拳を握りしめ、前を向く。


「動け……動けよ……! あいつから逃げねぇと……!」


 ブラックナイトの影が現れた。


 ――無償の愛はない。


 影はケタケタと笑いながら告げる。


 ――無償の愛はないんだよ、坊や。けはははははっ。


「……」


 ――あの「法」にズタボロにされるお前さんは傑作だったぜ。どうだい? 可愛がっていたはずの後輩に、虐待された気分はよぉ。


 透の眉が、揺れた。


「……し、ねっ」


 ――悪態つくわりに動揺しているじゃねえか。ん? お前さん、あいつのこと大分気に入っていたもんなあ。漫画の貸し借りしたり、充と一緒に三人でゲームセンター行ったりしていたくらい仲も良かったしな。……それがまさか、あんなイカれたやつだったなんて信じられないよな? わかるわかる。わかるぜぇ、坊やの気持ちは。


 透は睨もうとして、激しく咳き込んだ。真っ赤な液体が、灰色の雪をさらに汚す。


 ――あいつ、お前さんのことが嫌いだったみてえだぜぇ。なんたって、充も妹もお前が独占していたんだから。そりゃ、やつからしたら気に食わんわな。けはははっ、「法」のやつが本性を現したときは本当堪らなかったよ。


 それに、とブラックナイトは三日月に口を歪めながら続けた。


 ――親友も、化け物に変えられちまってる。あんな醜い化け物にナァ。ひゃはははははは、ひゃははははははははははははっ。大切な大切な充くんをあんな風にされて、あまつさえ助けられたのに、何もできねえ! 挙げ句の果てに見捨てやがった! お前、ほんとクズだなあ。


「……だ、まれ」


 ブラックナイトの言葉が、刃のように心を抉る。亜加子から逃げることに必死で、考える余裕がなかったことを……いや、考えないようにしていたことを、的確に炙り出されていく。


 充が、あんな姿に変えられて、平気なわけがない。アルバムなんて作る必要がないくらい、透の記憶の中には充の喜怒哀楽の表情が溢れているのだから。透にとっては、自分の半身のようにすら思える大切な存在。なくてはならない、自分の人生に居て当たり前の存在。


 それが、あんなにも壊された。


 ――わかってんだろ、もう?


「……だまれ」


 ――充をあんな風にしたのが、亜加子だってことを。


「だまれぇぇええっ!」


 血を噴き出しながら叫んだ。


 腹を割きたくなるほどの怒りに、自らの額を地面に叩きつけた。溢れてくる、言葉にできようもない悲痛と恐怖を打ち消したくて。でも、できるわけがない。ボロボロと、涙が溢れて止まらない。


 ブラックナイトの言うとおりだ。わかってしまった。亜加子と対峙し、彼女の狂気に触れたときに。虐待されてもがき苦しむ充を見たときに。あのショッピングモールの地獄を生み出したのも、充を化け物へ変えたのも、亜加子がやったことなのだと。


 信じたいわけがない。信じられるわけがない。


 亜加子は、あんな娘ではなかったはずだ。天真爛漫を絵に描いたような存在で、周囲を笑顔にし、困っている人を助けることに躊躇のない本当にいい奴なのだ。可愛い後輩だ。何回も、数え切れないくらい充と三人で遊んだ。たくさん、馬鹿もやってきた。


 なにがあった。なにがあったら、亜加子があんな醜い怪物に変わるというのだ。人を傷つけることをなんとも思わず、好意を寄せていたはずの充をも虐待し、それを愉しんでさえいた。香澄が、やったのか? 彼女の数少ない友達のはずなのに? 真実はどうかわからない。でも、脳味噌を弄くりでもしない限りあんな風になってしまうとは思えない。


「う、うううぅぅ……っ」


 カチカチと、歯が震えていた。呻きを抑えられない。


 充。亜加子。充。亜加子。充充充充充充充亜加子亜加子亜加子……。


「……充、亜加子っ」


 なんで――。


 三人で撮った笑顔の写真が、ボロボロと風化して、崩れていく。両端にいた二人の顔は消失し、残ったのは透だけ。透だけが、かつてのように笑っている。


 心が、バラバラになりそうだった。


 ――甘美な絶望だ。そうだ。それでいい。お前さんはもっと絶望しなきゃならねえ。に目覚めるためになあ! 


 ブラックナイトの言葉は、よくわからない。


 遅れてやってきた絶望と、意識の底まで沈み込みそうな疲労が、透を深く苛む。桜南が、さっきから何かを叫んでいた。でも、音を正しく認識できない。


 正面を向いたとき、桜南が何を言わんとしていたのか理解した。


 ブラックナイトの影はすでになく。


 目の前には、亜加子がいた。


「みつけましたよぉ、透先輩」


 花が咲いたように笑う彼女は、透の知っている亜加子そのもので。人間の姿に戻り、血まみれの裸体を晒している。裂けた腹はふさがりきっていないようで、傷口からブクブクと泡が広がり緩やかに再生しているようだった。そこから、ぬらぬらとサーモンピンクに輝く内臓が見えていた。


 歪だった。笑顔は知っていても、こんな化け物は知らないから。


「……あれ? 泣いていましたか? 目元が腫れてますよ」


「……」


「まあ、どうでもいいんですけどね〜。これで分かったでしょ? 私から逃げることなんて不可能だって。さっさと諦めて、香澄ちゃんのところに帰った方が色々楽になりますよ」


「……お前が、変えたのか?」


「はあ?」


「充を、あんな風に変えたのはお前なのか?」


 亜加子の後ろに控えた充へ目線を投げながら透は言った。人の姿に戻っていた彼は、ひどく怯えた顔をして亜加子の背中に隠れた。先程の怪我は、完全に回復している。


 亜加子は、「ああ」と小さく溢して、ケタケタと笑い出した。


「そうですよ。私が充先輩を『殺意』へと導きました」


 微かな希望さえ、抱けない。


「……なんで?」


「なんでって言われても。変えないと死んじゃうじゃないですか。……『殺意』になれば力も永遠の命も手に入るんですから、ずっと一緒にいるために必要でしょう? 透先輩ならわかっているかなあって思っていたんですけど」


「……そんな理由で」透は歯ぎしりを立てて続けた。「ショッピングモールにいた人たちを殺したのもお前なのか?」


 亜加子は「やれやれ」と言わんばかりに肩を竦める。


「銀城先輩なら知っているでしょ? 説明面倒なんで、教えてあげたらどうですか。春香先輩の日記見たんですから」


「……春香?」


 亜加子の口ぶりから、最悪の真実を一挙に連想してしまう。手が震えて止まらない。


 まさか、春香があそこに居たのか?


「……くたばれ、クソ女」


 桜南が憎しみを込めた罵倒を吐き出した。


「口が悪いなあ。なら、仕方ないから私が教えてあげますよー」 


 ため息を吐いて、亜加子は手を広げる。静かに舞い降りる灰色の雪が、彼女の悪魔じみた気配を避けるようにくるりと舞った。


 冷たい風が、吹きすさぶ。亜加子の短い赤髪が芝生のように微かに揺れる。狂気に色づいた黄色い瞳を遮るものはない。


「私が全員裁きました。春香先輩も白村くんも葉月ちゃんもみんな、罪を犯したので。残念ですよね、みんなせっかく生き残ったのに――」


 透の中で何かが切れた。

 

 言葉にならない絶叫を上げながら、縫い付けられているように重たい身体にムチを打ち、殴りかかった。脳味噌が蒸発しそうなほどの憤激が、彼の身体を突き動かしたのだ。


 亜加子の拳が、頬へ突き刺さった。


 メキッという鈍い音が重たく沈み、透の身体は貯水槽まで吹き飛ばされた。背中に走り抜けた衝撃とともに大破した貯水槽から膨大な水が溢れ出す。


「……ガフッ」


 巨大な丸太で殴られたようだ。耳鳴りが止まらない。


 亜加子が何かを言いながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。一緒に吹き飛んだ桜南も、必死で声をかけてきていた。わからない。音を正しく認識できなかった。


 ブラックナイトの声以外。


 ――ピンチだなあ。


「……」


 ――いい事を教えてやるよ、坊や。実はな、お前の超再生は自分以外にも使うことができるんだよ。


「……な、に?」


 ――その代わり、手前を治すときとは違って代償がいるがなあ。けはははっ、知りたいか?


「……はやく……言え」


 ――威勢だけはいいねぇ。いいだろう。代償はな……。


 ブラックナイトの告げた代償に、透は目を見開いた。額から零れた冷たい汗が目に入り、じくじくと甘い痺れを走らせる。他人を助けるために身を削ることを厭わないヒーローの姿勢を、究極に突き詰めたような条件だ。そう、まさに自己犠牲の力。


 それは、あまりにも重い選択を数秒のうちに迫ってくるものだった。


 緩やかに近づいてくる亜加子。膝を抱えて蹲る充。側に転がる桜南の頭。必死に呼びかけてくる愛しい人の声はどこか遠い。


 悩んでいる暇はない。ブラックナイトの要求を呑まなければ桜南が死に、透は永久に香澄の囚われ人となる。そうして、世界は「狂愛」のストーリーに逆らえず幕を閉じる。


 そう、悩んでいる暇はないのだ。


 透は、自分の目に人差し指と親指を添え、呼吸を荒げながら歯を噛み締める。


 呼吸を止めた瞬間、一気に指を目の中に突っ込んだ。


「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 血しぶきが鯨の潮のごとく目から噴き上がった。刺すような灼熱の痛みが、眼球の中を跳ね回っているかのようだ。平然としていられない。散弾銃を食らって死ねなかった獣みたいに、身体が死を感じて躍動的に荒れ狂う。逆流する脂汗。絶叫の山。溢れる唾が泡となって口角に広がっていく。


 亜加子の足が止まっていた。微かに下がる細い右足。「イカれたんですか?」という声は、部屋の中でカラフルな蛾を目の当たりにしたときのような、嫌悪に満ちたものだった。


 笑いたくなる。


 ――おかしいよな。俺だって、イカれていると思うよ。


 痛すぎて神経の回路が狂ったのか、透は引き攣った笑いを上げながら、そのまま眼球をゆっくり引き摺り出した。ゼラチン質の丸い塊に、引っ張られたチーズみたいな視神経がついている。


 興奮に息を荒げながら、透は柔らかなそれを渾身の力を込めて握りつぶした。


 温かなゼリーの感触が、手を汚す。


 その瞬間、桜南の首が爆発的に膨らんだ。肉の風船。桜南に、超再生が発動したのだ。


 小さく笑いながら透は項垂れる。


 こうするしかなかった。仕方なかった。世界が滅びるよりは、片目を永久に失った方が犠牲は少なくて済む。


「……ちっ」


 驚愕しながらも亜加子は、自身の身体を膨張させた。瞬きほどもないくらいの、信じられない速度で巨人に変身した亜加子は、何処から出したのかも分からない巨大な鉈を掴み、桜南めがけて叩きつけた。


 だが、そこに桜南の姿はいない。轟然と砕けたのは地面のコンクリートだけだった。爆ぜた破片に殴り飛ばされ、透は数メートル先まで転がる。だが、痛くはない。目が痛すぎて感覚が麻痺していた。


 巨人が、振り返った。


 鋼のような筋肉に覆われた腹筋に、赤いナイフが浅く突き刺さっている。


「……ふぅン、そうイうことネ」


 全身の赤い瞳が、そこにいる人物を一斉に睨みつける。


 黒いフードを被った獣。


 「暗殺」の殺意が、血でできたナイフを構えて立っていた。


「……馬鹿ナことヲ」


 冷たい嘆きを吐いて、桜南は巨人を睨み返した。


「……ほんトうに、馬鹿」





 





 


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