第十章 二



 


「……なにこれ?」


 亜加子が、腹部から突き出た刃を見下ろしながら呟いた。蛇のような鋭い目が、丸く丸く小さく引き絞られていき、狙いの定まらないレーザーポインターのごとく忙しなく揺れ動く。


 流れ落ちる大量の血。亜加子の口から噴き出る赤い泡。


「にげロ……ハヤく……」


 掠れきった充の声が、耳鳴りの中で微かにさざめいた。


「み……ツる……」


 全身に心臓ができたみたいに、貫かれるような鈍痛が反響し次第に大きくなっていた。辛うじて正気を保っていた透の意識は、よく煮込まれたじゃがいもが次第に崩れていくようにドロドロに溶けつつあった。そのくせ、赤と黒の明滅を繰り返し繰り返し、花火が頭の中で爆ぜている。千切れた思考。親友の名前を呼んでいるはずなのに、何をすればいいのか考えがまとまらない。


 狂ったクラブミュージックが、逆再生で流れている。花火の音。砕ける骨の音。ジャリジャリと身体の中で反響する? 砕けたガラスみたいだ。砂利の上でタップダンスを踊っているのか。


 にげろ、ってなに?


「……と、オる」


 ボロ雑巾のようになった透を、充が呼んでいる。


 だが、その健気な声は断罪者に遮られた。


「……なにしてるんですか?」


 地の底まで凍りつくような声だった。亜加子の全身の瞳が小さな充を射竦める。口から零れ落ちる血を腕で拭い、亜加子は残虐な微笑みをたたえた。


 亜加子の手のひらから淡い光が広がり、下法の天秤を形造る。


「法律違反ですよ、先輩」


 充の悲鳴。椅子にくくりつけられた囚われ人が、迫りくるチェーンソーを目にしたときにあげる悲痛に満ちた叫びにも似ていた。


 しかし、それは亜加子にとっては虫の羽音にも等しい無意味な哀願でしかない。


 彼女は、罪を許さない。


「執行」


 天秤が閃光を放った瞬間、充が絶叫を上げた。


 亜加子を貫いていた触手がねじ切れ、充の手足がありえない方向に曲がっていく。尺骨が、橈骨が、上腕骨が、腓骨が、脛骨が、内側から爆発したように筋繊維を引き千切りながら飛び出し、関節がグチグチと音を立てて反対に折れ、全身から肉片と血飛沫が飛び出した。まるで押しつぶされたトマトのごとく。充の小さな身体が、グチャグチャになっていく。


 壮絶な叫びで柱が震えた。車に引かれた直後の猫のようにのた打ち回り、飛び跳ね、充は泣き喚いた。


「先輩、酷いじゃないですか。愛しい私にこんなことするなんて。よりにもよって泥棒猫を助けるために。ねえ、なんでなの? なんで心まで壊れたはずなのに、こいつのことを思い出せたんですか? ……忌々しい。忌々しいです――」


 透は、夢から醒めるような緩慢さで我に返った。赤い視界に映る惨劇。一瞬で微睡んだ感覚が喪失し、茫然自失としてしまう。


 なにが起こっている? 充が暴れている。血だらけにされている。人の形から逸脱するほどに壊れている。壊されている。化け物じみた裸婦が恨み言を吐き続けている。天秤が光り輝いている。狂っている。狂ったワルツを見ている。


 虐待。


 充が、親友が、悪魔に虐待されている――。


「や、めロ……」


 透は歯を噛み締め、超再生を発動した。全身の壊された組織が瞬時に治り、瞳孔が赤に包まれていた世界の正しい色を認識する。灰色にくすんだはずの世界が、爛々と輝いてみえた。地獄の業火を目の当たりにしたように。充の叫びと嘆きが、より鮮烈に聴こえてくる。


 怒りが透を突き動かした。思考よりも先に走り抜ける激情。蹴り割ったタイルの床が散弾のごとく散り、壁や天井で爆ぜる。


「やメろっ!」


 怒声とともに、透の拳が化け物の腹から突き出た亜加子の顔面を捉えた。頬肉に減り込む拳。顎が砕ける音。ブチブチと千切れゆく首の神経。鉄を鉄塊で殴りつけるような硬質な轟音が、遅れて鳴り響く。


 化け物の身体が、わずかに揺らいだ。だが、軽く押されただけだと言わんばかりに、すぐに体勢を立て直して、全身の目で透を睨みつけてきた。


 首が折れた亜加子が、再び血を吹きながら憎悪を口にする。


「誑かしやがって。誑かしやがって誑かしやがって誑かしやがって誑かしやがって」


 化け物の身体が消えた。


 首筋を悪寒がくすぐった。山勘でしゃがんだ瞬間、頭頂部を暴風が走り抜けるのを感じた。巨大な鉈の重たい風切り音。透が距離を取ろうとした瞬間、返す刀に左腕を奪われた。巨大な牙に噛み砕かれたかのような衝撃。宙を舞う腕。刀身から鈍色の閃光が走り、即座に屈折した。三の太刀は断ち切られた神経の悲鳴よりも速い。


 痛がる暇さえない。


 透は舞い上がった。袈裟懸けに迫る刃を辛うじてかわしたが、暴風のごとく叩きつけられる斬撃のすべてはかわせない。ケバブのごとく身体中の肉を削ぎ落とされていく。熱した鉄板に押し付けられているような痛みに吐き気さえ感じたが、止まると死ぬ。針山に囲まれながらタップダンスを踏んでいるような気分だった。


 残虐だ。亜加子はわかっていて、あえてやっているのだ。その証拠に、口角から赤い泡を吹きながら亜加子は笑っていた。


 弄ばれている。


「ガアアアアアァッ!」


 発狂しそうな状況の中で、透は叫んだ。どうにもならない苛立ちと恐怖に身体が震える。ブラックナイトになっても、自分は脆く弱い。弱い。弱い。


 反撃の糸口さえ掴めなかった。戦いの中で必ずあるはずの息継ぎが、呼吸という隙間があの化け物にはまったく存在しない。避けようとしても、距離を取ろうとしても、追い縋ってきて決して離れてくれない。


 肉という肉が削られ、血飛沫が霧となった頃、限界を感じた透は超再生を使わざるをえなかった。能力使用で生じる瞬きほどの隙――。


 化け物の前においてそれは、ボクシングの試合中にガードを解いて棒立ちになるようなものだった。


 刃が、透の上半身を貫いた。


「――」


 口から滝のように血が噴き出した。内臓を引きずり出されて直接バーナーで焼かれるような痛みが、延々と暴れている。視界が墨を落としたようにじわりと黒い。肩口から下腹部の辺りまで鉄塊が捩じ込まれていて、全身から鉄を感じた。硬い。そこから肉の柔らかさが反発してきておかしくて笑いだしそうなのに、笑えない。舌が膨大な鉄臭さにヒリヒリして、ステーキはしばらく食えそうにないなと思えたよ。


「アァ……こうシとけバいいジャん。鉈が喰い込んダ状態ナラ、再生したクても出来なイでショ?」


 ケタケタと笑いながら亜加子は告げた。少女の身体は化け物の身体と同化して消えていた。目の前には巨大な魔人しかいない。


 化け物が、鉈を捻った。内蔵をかき回された透の口から赤い噴水が上がる。血の雨がさんさんと降り注ぐ。


 痛みを超えたなにかに襲われ、透は失神しかけた。だが、化け物は再び鉈で身体を搔き回し、強制的に透を起こした。


「アハはは、ガチャガチャみたいデ楽しイなぁ。生命力ガ無駄にあるト、大変でスねェ透センパイ」


「アガ……ゲフッ……!」


「充センパイを誑かシたダケでも許せなイのに、執行ヲ邪魔するなンて……。もっと痛めつケないトいけないノかな? ン?」


「あ、アアアアアアアァァァッ!」


「アハアハアハアハハッ、痛がれ痛がレェ」


 化け物が、鉈をもう一捻りしようとした瞬間だった。


 透の真下にあった血溜まりから、無数の赤い刃が飛び出した。


「――」


 化け物の身体から血飛沫が上がる。刃は、化け物に襲いかかり、鋼のような肉体に突き刺さった。分厚い筋肉に阻まれ致命傷にはならずとも、不意をついたその攻撃は化け物を驚愕させるには十分だった。


 銀城桜南の権能……血の操作と変質。


「なゼ――」


 化け物の言葉は、続かない。


 さらに地面の血溜まりが変形し、巨大なノコギリ状の槍となって、化け物に襲いかかったからだ。その分厚い刃は充が貫いた傷口に減り込み、内部で粉々に破裂した。


「――ガッ!」


 痛覚の遮断によって痛みは感じずとも、ダメージによる反射は防ぎようがない。内側から内臓を傷つけられた化け物は、堤防の決壊のごとく穴という穴から赤い血潮と肉片を噴き出した。


 化け物が、鉈を落とした。落下した衝撃で透の身体が裂ける。暴力的な痛みに喘ぎながらも、透は身体を鉄塊から離すことに成功した。膝をつく化け物。生じた隙は、超再生を発動するには十分すぎた。


 身体を一瞬で修復した透は、怒りに任せて化け物の顔面に回し蹴りを叩きつけた。岩盤を蹴りつけたような硬い感触。さすがに踏ん張れなかったのか、化け物の身体が壁まで吹き飛んだ。


 追撃しようとして、透は足を止める。


 赤い霧が化け物の周囲に広がったからだ。熱くなっていた頭がさえていく。桜南が霧を発動した意味を瞬時に理解できた。


 逃げろ、ということだ。


 透は舌打ちをして、周囲を見回す。桜南の頭部はすぐに見つけた。全力で駆け抜けた透はそれを拾い、足首の腱を引きちぎるような勢いで踵を返した。


 瞬間、透の視界の端にもがき苦しむ充の姿が映った。


 当然のごとく浮かんだ逡巡。逃げていいのか。苦しむ親友を放ったまま。助けなければならない。助けないと。だが、助けたら――。


「逃げなさい」


 驚くほどに毅然とした声を、首だけになったはずの桜南が発した。


「そうしないと、全員死ぬよ」


「……っ!」


「はやくっ!」


「あはあはあはははは、あははははははっ!」


 血の霧の向こう側から、笑い声が響いた。腹を貫かれ、内臓をグチャグチャにされたはずなのに、化け物は通行人とぶつかったくらいの気楽さで笑っている。


 足先から脳天まで寒気が走り抜けた。充まで抱えて逃げるのは無理だ。香澄が透へ向ける執着に匹敵するものを、亜加子は充へと抱いている。もし攫おうものなら、血眼になっても追いかけてくるだろう――。


 だが、香澄からの命令で亜加子が動いているなら同じではないか――?


「クソッ!」


 透はそのまま充を振り切り、駆け出した。


 脳裏を過ぎったのだ。あの、天秤の光が。どういう権能かはよくわからないが、対象となったものに何らかの契約を強制する力であることは間違いない。その内容によっては、充を連れて行くことは逆に彼を危険な目に遭わせる可能性もある。


 桜南が「全員死ぬ」と言っていたのは、おそらくそれを加味してのことだ。


 ここで嫌というほど思い知った。桜南の方が遥かに優れた判断を下せるということを。


 鋭い牙を噛み締め、ギリギリと鳴らしながら、透はショッピングモールから脱出した。アスファルトを踏み砕き、飛び乗った車を破壊し、透は別の建物の屋上へと移ると、後ろ髪を引かれる思いで一瞬だけ振り返った。


 遠ざかったショッピングモールからは、禍々しい瘴気が漏れ出しているようだった。離れてもなお、獰猛な獣に睨めつけられているかのような、こちらの生命を脅かしかねない尋常じゃない気配に、身体が震える。あんなところに、あんな化け物のもとに親友を置いていかなければならない。


 ――充。


「……畜生ガ」


 


 




 


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