第八章 三






 月光よりも優しかった。


 昼も夜もない枯れた世界に降り注ぐ光は、泣きたくなるほど美しく。膝の上で寝ている充の整った顔に吸い込まれ、しっとりとした肌に潤いを与えているかのように思えた。嫉妬を覚えるほどに、ほうっと息を吐きたくなるほどに、綺麗だ。


 亜加子は、その肌に触れる。人差し指が、充の頬に柔らかく沈む。まるで、温めたマシュマロのような感触だった。指から伝わる熱が、亜加子の気持ちを穏やかに解していく。


 躯の残骸と、血の池地獄のほとりで。


 彼らは、絶望と恐怖に彩られたお飯事の終幕を演じていた。


「……」


 冷たい死臭は、早朝に薫る草花の青々しく甘やかなそれのように感じられた。肉を弄りにやってきた蠅の羽音も、密を吸いに来た蜂だと思えば穏当な気分になることができる。色を失った誰かの瞳が亜加子たちを見ていた。蛙だと思えばいいか。


 勝手に、笑い声が溢れてくる。


 欲しい物が手に入ったときはいつもこうだ。笑いが止まらない。


 やはり力こそが正義であり「法律」だ。力のない規則に従うものなどいない。力がなければ六法全書はただの分厚い枕になるだろう。法律を法律たらしめる最も重要な要件は力があること。いつだってそうだ。規則をつくるのは権力を持つものたちである。力さえあれば、正義を貫き正義を強制する権利を手にすることができる。


 この、赤坂亜加子のように。


「……ふふっ」


 一頻り笑って、亜加子はゆっくりと充の頭を撫でた。この一月半近くで伸びた充の髪は、手入れが充分じゃないせいでボサボサだ。まるで毛羽立てた荷造り紐を触っているかのような感じがする。


 後で整えてあげよう。そして毎日トリートメントをしてあげよう。せっかく綺麗な容姿をしているのに、これではあまりにも勿体ない。


 亜加子がそう思っていると、頭にノイズが響いた。口角が自然と上がっていく。充と同じくらい愛しい人からの連絡だから。


『こんにちは。お久しぶりです亜加子ちゃん』


「香澄ちゃん。お久しぶりだね」


 気分を弾ませながら返事をすると、香澄が転がすような小さな笑いをこぼした。鈴のような音色で、美しい。


『機嫌がいいですね。上手くいきましたか?』


「うん! 香澄ちゃんの言うとおりにやったら全部上手くいったよ!」


『それは重畳ですね。茶川先輩もこちら側に来てくれたようで何よりです。……ふふ、「食人」の力も上手く奪えたようで』


「あははっ、案外簡単にいったよー。……ところで、透先輩はどうなの? 元気してる?」


『たくさんオシオキしたばかりなので、まだ寝ていますよ。ふふっ、可愛い寝顔……』


「あ、わかるー。好きな人の寝顔ってどうしてこんなに可愛いんだろう」


 亜加子は、充の頬を撫でながらゆっくりと笑う。幸せな気持ちが広がって身体がポカポカする。好きな人たちとこうして温かい気持ちで過ごせるなんて、本当に幸せだ。


 願わくば、こんな日々が続いて欲しい。ずっとずっと。


『……兄さんも、もう少しで覚醒できるでしょう。それまでに「澄空」も産まれる計算ですから……ふふっ、私達の理想はもうすぐそこです』


「愛する人と永遠に結ばれる世界……。ああ、早くそうなって欲しいなあ」


 亜加子は、その世界に思いを馳せる。


 すべての汚らわしい人間たちが消え失せ、愛する人だけが存在する理想郷。亜加子たちは、香澄との契約でその理想郷に到達することを許されている。そして、その理想郷で永遠に暮らしていくため、香澄は充を「殺意」へと変える計画を立ててくれた。


 なぜか。「殺意」になった上位者は、永遠の命を手に入れることができるからだ。現実世界にいるときはほぼ人間と変わらなかった亜加子たちだが、「鏖」によって現実世界と「殺意」の世界の境界が破壊された今、その条件を満たしている。


 永遠の命。漫画のような概念。


 それが、こうもあっさりと手に入った。


「……ところで香澄ちゃん。何か用事があるんだよね? まさか計画成功を祝ってくれるためだけに連絡入れてくれたってわけじゃないでしょう?」


『話が早くて助かります。そうなんですよ。父様が逃した「復讐」が、私を付け狙っているみたいで。場所は折を見て変えていますから、私の居場所は掴めていないようなんですが、さすがに鬱陶しいので……』


「ああ、例のやつね。……わかったよ。こちらも一段落ついたし、私が殺しておくから」


『ふふっ、頼もしいです。意外と厄介な権能を持っているようですので、くれぐれも油断しないでくださいね』


「あははっ、誰に言ってんの〜。私最強だから大丈夫だよ〜」


 ――それではお願いします。


 最後にそう言われて、香澄との念話は切れた。「狂信」の力は「殺意」に影響を及ぼすが、応用すればこんな使い方もできる。便利な力だと思う、本当に。


 亜加子は、ほうっと感嘆の息をこぼした。


 それにしても、香澄の声は美しい。まるで、精霊の声を聖水で濾過したような透明感さえ感じられる。充の歌も素晴らしいが、それ以上かもしれない。


 亜加子にとって、香澄は女神だった。彼女の存在に、美しさに、圧倒的な知性と残酷さに心服していた。彼女が、すべてを与えてくれたのだ。幸せに至るための道も、正しさを証明するための圧倒的な「殺意」の力も。


 できることなら、もう少し話がしたかった。彼女に、もっともっと褒めてもらいたかった。


「……ぅん」


 充が小さく息を吐きながら、ゆっくりと瞼を開けた。お目覚めのようだ。


「……おはよう、先輩」


 充は返事をせず、ぼうっと亜加子の顔を見つめていた。やがて意識は目覚めていき、瞬きを繰り返しながら口を小さく開いた。ビー玉のような瞳。吸い込まれそうだ。

 

「……だれ?」


 怯えたように目尻を震わせる充。


 亜加子は眉をひそめた。妙だ。様子がおかしい。いつものように疲れきった、死人を思わせる暗い表情とは違う。淀んだ闇はそこにはなかった。彼の顔にあるのは、捕食者に見つかった小動物が浮かべる純粋な怯えだ。


「……お姉ちゃん、誰なの?」


「何言ってるんですか先輩。その冗談はあまりおもしろくないですよ〜」


「誰……? ここは……ここはどこなの? パパとママは?」


「も〜、そんなの死んだに決まっているじゃないですかあ。なに言ってんですか。そんなわかりきったこと」


「……死んだ?」


 充は心底驚いたように目を見開いて、顔を横に動かし――その光景を見た。


 真っ赤な花畑を。


「ひっ……ひいいいいいぃ……!」


 身体をきゅっと縮こませ、充はウサギの断末魔のような声にならない叫び声を上げた。そして、知らない土地で親とはぐれた子供のごとく、わんわんと泣き叫んでいる。亜加子は、笑わなかった。いつもなら嗜虐心に刈られ、口が勝手に吊り上がるのだが、様子のおかしい充を見ていると顔の筋肉が動かない。


 この光景に怯えるのはわかる。臆病な充は惨劇をみて、これまでみっともないくらい取り乱したことが何度かあった。だが、この怯え方は普通ではない。人としての矜持のようなものが一切ない、なりふり構わない感じがある。


 そう、それこそまるで幼子のような――。


「ママ、ママぁあああっ! どこにいるの! 怖いよ怖いよおおおおおおおおおおぉ!」


「……ああ」


 なるほど。


 精神が、完全に壊れてしまったのだろう。蹴り飛ばされた砂の城のごとく、人格が脆く崩れ去り、元の形を忘れてしまうほどに退行してしまった。


 痛々しいほどに幼気な心へ――。


「……」


 亜加子は取り乱す充へ静かな瞳を向けた。


 完全に予想外の事態だった。まさか、こうなってしまうとは思いもしなかった。追い詰めすぎてしまったのかもしれない。まだ心のどこかで、人間の強さのようなものを信じていたのか。それとも人間の弱さに無頓着だっただけなのか。こんなにも脆く、儚いなんて。


 充の頭に、そっと手を添える。


 罪悪感は、消しゴムのカスほども浮かんでこない。そんなもの、「殺意」へと覚醒したときに一緒に捨ててしまったから。父親のフリをした下衆を殺したときに、死体と一緒に溝底へ。


「……大丈夫ですよ~。あなたにはお姉さんがついてますからね」


 再び頭を撫でながら、先程とは違う感情を抱いていた。心の底に沈んでいる本能を刺激されているかのようなこそばゆさ。破廉恥なことかもしれないが、下半身が疼いて熱くなっているのを感じる。


 可愛い。……なんて、可愛いのだろう。


 母性本能というやつなのだろう。擦り寄ってきた犬や猫を撫でているときより、ずっとずっと愛おしい。


 残酷な女神の慈愛が、指先から壊れた少年の頭へと溶けていく。ゆるりゆるりと撫で続け、枯れるほどに泣いた少年は、やがてしゃっくりを上げ始めた。ああ、落ち着く。泉のほとりで聴くメジロの声のようだ。


「……ずっと、一緒ですからね」


 亜加子は、光のない瞳のまま、うっとりと表情を緩めた。


「ずっと……ずっと……。お姉さんだけが、あなたの味方ですからね」





 





 

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