第七章 一
「どうして、人を殺してはいけないんだと思う?」
透がそんなことを訊いてきたのは、充が春香を殺した一年前のことだった。
その日も雪が降っていた。削りたてのかき氷のような、ふわふわした牡丹雪だった。窓から見える校庭の底は白く、シロップをかければ食べられそうだなと馬鹿なことを考えてしまうくらい、清廉な美しさがあった。
充たちはその景色を、校舎の二階から見ていた。昼休みの時間。生徒たちが食堂へ向かい、人通りが少なくなってきていた頃だ。窓によりかかりながら、ぼうっと外を見ていた透が、唐突に口を開いた。
飛び出してきたのは、らしくもない質問で。
そんなことを尋ねてきた透に、強い違和感を覚えた。
「……なんで、そんなことが気になるんだ?」
充が率直に疑問を投げ返すと、透は苦笑いを顔に貼り付けた。
「……喧嘩したからかな」
「はあ?」
「……ああ、わけわかんねえよな」
透は憂鬱そうに息を吐いて続けた。
「ちょっと、この問いかけを投げかけてきた友達と喧嘩になってさ。あいつからすれば、何でもない問いかけだったのかもしれないけど……。つい、かっとなってな」
「……ふうん」
変な話だなとは思いつつ、その話題を振られた透が腹を立てた理由は分からなくはなかった。
透は、この年までヒーローに憧れるほど真っ直ぐで正義感が強い。進路調査票にも迷わず警察官と書いて、クラスの誰よりも早く提出してしまうような奴だ。人を助けることが自分の将来の夢だと豪語し、まったく恥じることがない。よく言えば純粋で、悪く言えば夢見がちな子供っぽい一面を持つ。
そんな正義感の権化みたいなやつが、その手の質問を好むはずがない。殺人は言うまでもなく絶対悪で、許されないことは当然の社会常識だ。透のような人種は、ことさらにそうした悪を許容できないし、激しく憎んでやまない。だから彼からすれば、殺人の是非を問うこと自体、唾棄すべきことであるはずだ。
透が、その質問者と衝突したことは半ば必然だろう。透なら「そんなこと考える必要はないだろう」と、唾を撒き散らしながら叫ぶに違いない。
「……あいつは、『捉え方によっては白にも黒にもなるから、人を殺してはならない理由なんて本当はない』って言ったんだよ」
「随分捻くれた意見をするな、そいつ」
「だろ? そんなわけあるかって話じゃないか。だから、頭に血が登ってな。つい、強く言い過ぎてしまって」
「……なんて言ったんだ?」
「いろいろ。『哲学者ぶるのがそんなに偉いのか?』とか、『そんなこと言うのは全能感から抜け出せていない馬鹿なクソガキくらいだ』とか」
「そりゃ手厳しい」
充は思わず苦笑してしまう。透は実直な分、腹を立てたときの言葉もストレートだ。別に頑固すぎるわけでもなく、人に合わせる柔軟さはあるし、コミュニケーション能力は高い方なのだが、怒るとそうした真っ直ぐな一面が強く出る。そのときもおそらく、そうだったのだろう。
言われた相手は傷ついただろうな、と思いつつ、充は尋ねた。
「それで? その捻くれ者の問いかけにお前はなんて返したんだ? 何も答えを出さずに口論だけで終わったのか?」
「……いや」
透は小さく首を横に振った。
「ちゃんと、返したよ。あいつも感情的になって聞き返してきたから、俺なりの答えをぶつけた」
「……なんて言ったんだ?」
「幸せになれないから」
教室側から、冷たい風が流れてきた。誰かが教室の窓を開けたのだろう。身震いするような冷たさが肌を撫ぜたが、充は腕を抱えることもなく、ただ静かに透を見詰めた。
少年の顔は、寂しげだ。
伏せられた眉毛は長く、怜悧な瞳は雪よりも儚く。風に揺れる茶色のショートヘアは、ススキのように頼りなさそうで。そんな弱々しさを晒す少年が、充の目には氷の彫像のように輝いて映った。
「……幸せになる資格がないんだ、人を殺したやつは。人から幸せになる権利を奪ったのだから、幸せになっていいはずがない。だから人は人を殺してはいけない」
そう、答えたんだ。
透の言葉は、地面に吸収される水のように身体に染み入ってきた。幸せ。幸せになる権利。そんな俗っぽい言葉が、いかにも透らしい言葉が、充の心を優しく解していく。
「……そうか」
充は、思う。
透のこういうところが、充を救ったのだ。
いじめられてきた。終わりの見えない辛い日々の中、いっそのことクラスメイトたちを殺してしまおうかと思ったこともあった。もし透と出会わなかったら、どうなっていたか分からないだろう。幸せになる権利を、失っていたのかもしれない。
「……俺の言っていることって、間違えていると思うか?」
「……いや、間違いだとは思わない。俺もそう思うよ。たしかに、人から幸せになる権利を奪ったやつは、幸せになっちゃいけないよな」
「そうか……。充も、そう思ってくれるか」
「ああ」
ほっとしたように表情を緩めた透は、出会ったころと変わらず可愛らしい。
「だから、質問の答えはお前と同じだよ。幸せになれないから殺したらダメだ。……捻くれ者にも、お前の気持ちが伝わるといいな」
「……ありがとう」
微笑みと牡丹雪は、溶けずに記憶で生きている。
それが、呪いになるなんて。
春香を殺してしまった今となっては――。
「……」
枯れることのない涙が、ずっと頬を伝っていた。鼻の奥がつんと痛んでいたが、気にする余裕すらなかった。壁によりかかり、血を噴き出して事切れた道夫をぼうっと見詰めていた。
力なくしなだれた腕。右手には、道夫を解放した包丁が握られていた。乾き始めた血が、鈍く光っている。
あれから、何度も自分を刺した。着ている服が穴だらけになり、余すことなく赤く染まってしまうほどに。急所という急所を刺し貫いたはずなのに、充が解放されることはなかった。まるで嘲笑うかのように、傷口がすぐに塞がってしまい、死に至らない。
嗤うこともできない。
薄い明かりに照らされた血だらけの世界は、まるで彼岸花の咲く花壇のようで。不気味な静謐さと血の甘い香りが、ただただ揺蕩っている。
「……とおる」
会いたい。透に、会いたい。
でも、今の自分を見せられるのか。春香を殺し、幸せになる権利を失った自分の醜い姿を。きっと軽蔑される。どうして春香を守れなかったと責られる。
わからない。透なら責めないのか。不可抗力で、殺したくもない人を殺さざるをえなかった充のことを同情してくれるのか。あいつなら、慰めてくれるのではないか。一緒に泣いてくれるのではないか。
「そんなわけないでしょ」
扉の外に、真が張り付いていた。
相変わらず、表情は優しい。汚い雪をかぶりながら、窓に手を置いてこちらを見ている。
「……わかっているでしょ、先輩」
充は、自嘲的に笑いながら頷く。
「真……俺は」
「ああ、言わなくていいですよそれ以上。俺は、あなたの罪悪感を減らす手伝いをしたくないんで」
謝ることさえ許されない。
相変わらず微笑みを崩さない真は、そのまま言葉を続ける。
「知っていたんすよね。……俺が、春香先輩をどう想っていたか」
「……あぁ」
「……彼女がいたのに、彼女を失ったばかりなのに。他の女に惚れてしまうなんて、どうかしていると思っていたでしょ。俺も、そんな自分の醜さに失望しましたから」
「……」
「それに……春香先輩の想いは、あなたに向いていましたから。俺には元々叶わぬ……いや、望むことさえ許されない恋だったんですよね」
そんなことはない、とは言えない。
真は、そうしたあらゆる葛藤に耐えきれなくなり、解放の道を選んだのだから。それに、春香を殺した充に言葉をかける資格など、そもそもない。
「充先輩」
真は、小さく手招きをする。
「……こっちに来ないっすか? こっちにくれば、先輩もきっと解放されますよ」
「真……」
「今さら、怖いものなんてないでしょ? 何回も自殺しようとして失敗しているんすから」
揺れる真の手は、恐ろしいほど白い。
だが、どこか惹き付けられる美しい白さだった。死という解放へと誘うそれを、光のない瞳で見つめながら、充はいつの間にか立ち上がっていた。
足が、勝手に動いていた。
前ではなく、後ろへ――。
「……何してんすか、先輩?」
真が睨めつけてくる。
「……嫌だ」
「は?」
「……嫌なんだ。そっちには、行きたくない」
声が震える。背中が壁に当たっているのに、それでも後退ろうとしてしまう。身体がそちらへ向かうことを拒絶している。
否応なしに浮かぶのは、化け物たちの醜悪な顔。腐りきった汚水のような涎の感触。そして、バラバラにされる人々の苦悶。
「……なにいってんすか。死にたくても自分じゃ死ねないんでしょ? だったら、殺してもらうしかないじゃないですか。……それに、どうせ死ぬのだから一緒のことでしょう?」
「……違う。お前だって、望んじゃいなかったじゃないか。あんな死に方」
「まあ、たしかに」
真は、ケラケラと嗤った。
「そりゃ、嫌だったすよ。自分で死ねば良かったと後悔しました。でも、それは選択肢があった俺だからこその悩みだと思うんですよね。……先輩には、他に選択肢はないじゃないですか?」
「……」
「……だったら、こっちに来て楽になりましょうよ」
「無理だ……怖い」
充は頭を抱える。
「怖いんだ。殺されたくない……あんな奴らに!」
「……」
「すまない……すまない……! でも、無理だ。無理なんだよっ! 化け物に殺されて餌にされるのなんて、死んでもごめんだ! 許してくれ……っ」
「許さない」
真が窓ガラスに爪を立て、ゆっくりと降ろしていく。真っ赤な五本の筋がガラスに描かれた。
「お前は、春香先輩を殺した。その罪から逃げることなんて許さない」
「……ひっ」
「死ななきゃ駄目だ。俺みたいに、内臓を撒き散らして頭を噛み砕かれながら、無惨に殺されなければならない。そうじゃないと、そこに転がるオッサンの魂も浮かばれないよ……。死ねよ、死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ」
「……うああ、あああああぁぁ」
その場にしゃがみこみ、充は耳を塞いで顔を伏せた。だが、真の糾弾から逃れることはできない。声が鼓膜を介さず、直接脳を揺さぶるように響いていた。
許さない。死ね。その声がずっと狂乱している。
死にたい。殺されたくない。死ねない。殺されたくない。
どうすればいいんだ?
俺は、どうすれば――。
「……受け入れれば、いいんだよ」
真の声ではなかった。もっと幼く、もっと身近な聞き覚えのある声だ。
肩が震える。顔を上げることができない。
それは、いま、もっとも会いたくない存在だから。
「僕を受け入れればいいんだ。もう、準備はできている。あとは、僕が君で、君が僕であることを、君が認めるだけでいい。そうすれば……君は苦しみから解放される」
「……嫌だ。やめてくれ。お前を認めたら、俺は俺じゃなくなってしまう!」
「違うね。君は元々どうしようもなく臆病で弱虫だから。そのことを認められない時点で、君はとても弱いんだ」
わかっているだろ?
声の主は、そう言って楽しげに笑う。
「君はいじめられていた頃と、本質的には変わらない。だからこそ、誰も救えなかった。君は透にはなれない。何者でもない」
「……」
「君にあるのは『恐怖』だけだ」
恐怖。
その言葉は、充の心臓の血をたぎらせた。高鳴る鼓動は、血管が破裂しそうに思えるほど激しく、くらくらと視界を歪ませる。
視界が暗転し、急激に晴れた。俯いていたはずなのにいつの間にか立っていて、薄暗い闇に放り出されていた。何もない虚無の世界。そう思ったが、すぐに情報は更新された。
十本の木が見えた。そのうちの一本が充へと近づいてくる。枝が軟体動物の足のように蠢いて、身体に絡みついてきた。そのイメージに抗うことができない。鉛を何十キロも背負わされているかのように身体が重い。
どこからか、声がした。
「君はもう、『
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